2008/01/26(土)「魍魎の匣」

 京極夏彦の原作は10年以上前に読んだ。「このミス」1996年版の4位に入っている。初めて読んだ京極堂シリーズで、これはSFだと思った。これが面白かったのでシリーズにはまり、その後の作品をすべて読むことになったのだった。実相寺昭雄の「姑獲鳥の夏」にはいろいろと不満もあったが、そのキャストの関口役だけを永瀬正敏から椎名桔平に変えてのシリーズ第2作である。

 原作の解体の仕方は面白いと思う。パンフレットの監督インタビューを少し読んだら、原田真人監督は「パルプ・フィクション」のように人物ごとにエピソードを組み立て直したかったのだそうだ。だから太平洋戦争時の榎木津と久保のエピソードを描く冒頭(これは原作にはない)から始まって、時間軸を10時間前とか3時間前とか7日後とかに行きつ戻りつしながら話が語られていく。同時に細かいカットの積み重ねで非常に映像に躍動感がある。「ボーン・アルティメイタム」の時にも思ったのだけれど、こういう細かいカット割りは映画に必要なものだと思う。

 1秒に満たないカットをポンポンポンとつなげていくのは心地よく、その技術には非常に感心した。もうつまらない映像をだらしなく流し続けるよくある映画に比べれば、随分ましである。ただし、こうしたカット割りと時間軸の動かし方の工夫が映画全体のストーリーテリングのうまさにつながっているかと言えば、そうはなっていないのが惜しいところだ。端的に言えば、失敗作に近い印象。これ、原作を読んでいない人にはストーリーが理解しにくいのではないか。

 椎名桔平の関口はかっこよすぎる。原作ではもっと凡人でぼーっとした印象。だから榎木津から「おお、猿がいた」などと言われるのだ。京極堂は逆にコミカルな面がありすぎ。堤真一は「三丁目の夕日」を引きずっている。コミカルさがあると、どうもクライマックスの憑物落としの場面がしまらなくなる。まあ、それ以上に黒木瞳がダメダメで、もっと清楚な美人女優はいないのかね。

 中国ロケの部分はとても昭和27年の東京には見えず、中国にしか見えないが、こうした無国籍なタッチは悪くない。悪くはないが、同時に時代色も希薄になってしまったのは残念。原田真人はどこまでも映画ファンの部分を引きずったところがあるように思える。個々の技術は良いのに、その組み立て方は凡庸で、これが足し算の効果は出ても、決してかけ算にはならない映画が出来上がる要因なのではないか。