2001/05/05(土)「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲」

 このシリーズほどテレビシリーズとギャップがある映画は珍しい、という趣旨のことは以前書いたような気がする。繰り返すと、テレビは日常ギャグ漫画、映画の方はSFなのである。なぜ、こうなるかというと、長編化する場合に冒険的な要素が入ってくるからで、子供の冒険というのは古今東西のジュブナイルの名作を見てもらえば分かるようにたいていSFなんである。もちろん、映画の作者たちは意図的にSFをやっている。そしてこれが重要だが、SF的設定に外れがないのである。

 今回の設定はノスタルジーマシーンとでもいうべきもの。しんのすけ一家は1970年の大阪万博に来ている。そこに怪獣が現れ、パビリオンを破壊。しんのすけの父親ヒロシはスーパーヒーロー“ヒロシSUN”に変身し、怪獣を倒す。何かと思ったら、これはビデオの撮影で、最近、「20世紀博」という大人を対象にしたテーマパーク(?)が流行っているのである。大人は70年代の日本を懐かしみ、夢中になっている。

 しかし、この「20世紀博」には陰謀があった。大人たちを洗脳し、20世紀のままの日本で生活させようとしていたのだ。町の大人たちは「ハメルンの笛吹き」の子供たちのように「20世紀博」に連れ去られてしまう。しんのすけたち「カスカベ防衛軍」は大人を連れ戻そうとするが、洗脳された大人たちは攻撃を仕掛けてくる。

 「20世紀博」の首謀者(ケンちゃんとチャコちゃん!)は21世紀がくだらない世の中なので、まだ21世紀に夢や希望を持てた20世紀に帰ろうとしているのだった。もちろん、最後にはしんのすけたちの活躍で20世紀博の陰謀は潰される。原恵一監督は昔を懐かしがっているばかりではダメということを言いたかったらしいが、同時に1970年代の生活へのこだわりも見て取れる。万博会場、足踏みミシン、メンコ、缶蹴り、トヨタ2000GTなどといった70年代を象徴するガジェットは30代後半から40代前半の大人にとってノスタルジー以外の何物でもない。

2001/05/01(火)「トラフィック」

 緊密な構成、数多い登場人物、ドキュメンタリー・タッチ。「トラフィック」はどこを取っても完璧な仕上がりである。マイケル・ダグラス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズの夫婦共演も悪くないが、下っ端警官を演じるベニチオ・デル・トロとドン・チードルの在り方に共感する。この2人が映画に大衆性を持たせたと思う。

 特にデル・トロは焦点深度の深い役柄で、単純な正義感でも悪に対する憎しみでもなく、殺された同僚の死に報いるために麻薬組織壊滅に力を貸す。感心すべき演技で、アカデミー助演男優賞は当然の結果だろう。ドン・チードルは「フレンチ・コネクション」のジーン・ハックマンに相当する役柄と言える。

 スティーブン・ソダーバーグの演出に無駄な部分は一切なく、麻薬戦争という主題と戦うべき理由を簡潔に浮かび上がらせている。僕は演出の技術そのものに感心する傾向があるが、これはその好例。「フレンチ・コネクション」が刑事の立場から麻薬コネクションを追いつめる話だったのに対して、「トラフィック」の場合はテーマの取り上げ方が多角的、重層的であり、映画の印象も深いものになる。事件は何も解決しないけれど、希望を持たせたラストの処理などは極めて真っ当だ。

 一方でこの演出は足し算によるものとの思いもする。これとこれとこれを組み合わせて、こういう風に描けば、こんな効果が出るという正確な計算に基づいたもの。余計な部分がないので密度も濃くなるのだけれど、映画の遊びとは無縁であり、テーマに関心を持てない人にはあまり面白くない映画なのだろうな、と思う。