2002/02/12(火)「オーシャンズ11」

 「オーシャンと11人の仲間」(1960年、ルイス・マイルストン監督)のリメイク。ラスベガスの豪華ホテルの金庫に眠る1億5000万ドルを刑務所から出所したばかりのダニエル・オーシャン(ジョージ・クルーニー)と11人の仲間が盗もうとする。スティーブン・ソダーバーグの前作「トラフィック」とは全く異なる軽い仕上がり。

 ホテル王ベネディクト(アンディ・ガルシア)を騙すコンゲーム的要素があるので観客にも罠を仕掛けてくる。ただ、これも軽い仕掛け。盗みの作戦自体は「スパイ大作戦」を思わせる。ソダーバーグはソフィスティケートな映画を目指したという。盗みだけではドラマティックにならないので、オーシャンと別れた妻(ジュリア・ロバーツ)との関係を味付けにしているのがポイント。これがよく効いている。メンバーを紹介する序盤は単調だけれど、盗みの作戦が始まる中盤から面白く、長い描写を持たせる工夫を懲らしている。過不足なく楽しめる水準作というところか。

 マット・デイモンやブラッド・ピットは相変わらずうまい。オーシャンたちに協力する元ホテル経営者役でエリオット・グールドが出演。老けましたねえ。一目ではだれか分からなかった。

2002/02/12(火)「蝶の舌」

 「地獄はあの世にあるんじゃない。人の憎しみと残酷さが作るものだ」。小学校のドン・グレゴリオ先生(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)が8歳の少年モンチョ(マヌエル・ロサノ)に話す。ラストを予告するようなセリフである。

 映画は1936年、スペイン内戦が始まろうとする時代を背景に、モンチョの目から見た村の様子が描かれていく。現政権の共和派と国王派(軍部)の間で既に不穏な空気は流れているが、田舎の村の風情はのどかだ。モンチョは喘息持ちのため学校に入学するのが遅れ、学校の先生から叩かれるのを怖がっていた。そんな心配をよそにグレゴリオ先生はモンチョを優しく包み込む。自由と自然を愛するグレゴリオ先生がじっくりと描かれると同時に、中国娘に憧れ、バンドの旅先で口のきけない娘にほのかな恋心を抱くモンチョの兄や村人たちの日常が描かれていく。

 平和な日常の描写が十分なので、それが一変するラストは強烈な印象となる。モンチョの父(ゴンサロ・ウリアルテ)が同志であるグレゴリオに向かって顔をくしゃくしゃにしながら「アカ、裏切り者、アテオ(不信心者)」と罵声を浴びせる描写には胸を打たれる。叫ばなければ、自分が殺されるのである。

 ファシズムと民主主義(共産主義)の戦い。国民を引き裂く戦いやイデオロギーに支配される時代は不幸だ。監督はホセ・ルイス・クエルダ、音楽は「オープン・ユア・アイズ」のアレハンドロ・アメナバル。マヌエル・リバスの原作は97年のスペイン文学賞最優秀賞受賞という。キネ旬7位。

2002/01/29(火)「リリイ・シュシュのすべて」

 「あんたが守ってよ」。中盤、援助交際から抜け出せずに自殺する少女・津田詩織(蒼井優)が主人公・蓮見雄一(市原隼人)にポツリと言うセリフが心に残る。雄一はクラスのリーダー的な友人と詩織を引き合わせるが、詩織は交際を断る。「あたしとは釣り合い取れないでしょ」という理由から。この映画、登場人物の心理にほとんど迫っていかないのだが、この少女の言葉の断片だけが悲惨な心象風景をおぼろげに映し出している。

 岩井俊二は13歳から15歳までの主人公とその周囲の歩みを追う。雄一にとって今は歌手のリリィ・シュシュだけがすべてで、他は灰色の人生。なぜ灰色になったのかというのが回想で描かれる1年前の出来事。優等生だった星野雄介(忍成修吾)が西表島への旅行をきっかけに悪の帝王に変貌する。西表島で星野は2度、命を失うところだった。それが何らかの変化を生み出したのか。雄一は雄介のグループから、たかられるようになり、灰色の毎日を送っているのである。

 この映画で鮮烈なのは津田詩織と対をなす美少女・久野陽子(伊藤歩)で、雄介のグループにレイプされた翌日、意外な変貌を見せる。「モヒカンにしたら、抜けられるかな」。詩織が雄一に言った言葉通りの変貌を陽子は遂げるわけである。雄一と雄介、詩織と陽子が対照的に描かれるが、少年2人よりも少女2人の方が強い印象を残す。岩井俊二はどこかに少女への幻想を抱いているのに違いない。

 物語の意図が見えない前半は退屈である。ビデオで撮影された西表島の描写も効果を挙げているとは思えない(これではまるで「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」だ)。14歳の事件が多かった年に14歳を主人公にした映画を撮るのなら、もう少しジャーナリスティックな視点が必要だったように思う。心象風景を必ずしも描かなければならないわけではないけれど、ただ現象を追うだけでは底の浅い映画になってしまう。大人の世界の構図を少年たちの世界にそのまま移しただけのストーリーも、いじめの現実とは少し違うのでは

ないか。

 ご丁寧に最後に悪は倒されることになる。しかし、雄一の毎日は相変わらず灰色のまま。元気があふれ、テーマ的にも明確で迷いがなかった「GO」に比べると、岩井俊二の手法はこの映画の主人公のように、ひ弱であいまいである。せめて高校生という設定なら納得がいくのだが、俳優たちがいずれも中学生に見えないのも難か。

2002/01/28(月)「ラットレース」

 「ゴースト ニューヨークの幻」のジェリー・ザッカーのコメディ。予告編を見てキャノンボールのような作品かと思ったが、その通りで、200万ドル獲得を目指して6組の親子やカップル、家族、兄弟が700マイル(約1000キロ)を奔走する。それぞれのキャラクターを紹介する導入部分が単調になるのは仕方がないのだが、ジェリー・ザッカーはここから大いに笑わせてくれる。いや、こんなに本気で笑わせられたのはアメリカ映画ではホントに久しぶり。当然のことながらザッカーのコメディセンスも「ケンタッキー・フライ

ド・ムービー」(1977年)のころよりは随分、洗練されたのである。

 出てくるだけで存在感がありすぎるローワン・アトキンソンのみ、導入部分では紹介されず(紹介しようがないキャラだし、後のエピソードの伏線でもある)、いきなりラスベガスのホテルの一室に登場する。そこはスロットマシンで金色のコインを出した男女が集められていた。大金持ちでギャンブル好きのドナルド・シンクレア(ジョン・クリース)が、ニューメキシコの駅のコインロッカーにある200万ドルを最初にたどりついた者に与えると宣言。一同、半信半疑だったが、欲には勝てず、懸命にニューメキシコを目指すこ

とになる。ここからはさまざまな笑いのオンパレード。短いシーンで笑いのエピソードを次々に描き、おなかいっぱい。ジョーク・ブックのような構成は「ケンタッキー…」のころから変わらないのだが、進歩した部分はそれぞれのキャラクターをしっかり描き分けていることだろう。

 予告編ではアトキンソンの存在が強調されていたが、メインなわけではなく、あくまでもキャラクターの一人。スタート直後に立ったまま眠ってしまい、30分ほど画面から消えるのだ(ナルコレプシーか、お前は)。これは懸命な処理で、アクの強すぎるキャラは控えめに出した方がいいのである。その代わり、ホテルを出た直後の場面から爆笑である(特に心臓を巡るエピソード)。同じ意味でウーピー・ゴールドバーグも控えめな扱いだ(リスを巡る爆笑場面がある。これはアメリカの田舎で実にありそうな話)。

 シチュエーション・コメディにスラップスティックで味付けし、ラストは嫌な金持ちに一撃を与える気持ちよさ。久々の「コメディの快作」と、少しおまけの評価をしておこう。

 ただ、観客は2人だけ。ちょっと爆笑しにくいシチュエーションだったのは残念。こういう映画は満員の映画館で大いに笑いたい。

2002/01/25(金)小説「山の郵便配達」

 短編で42ページしかないのですぐに読める。これを読むと、映画がいかに良くできているか分かる。まず、老婆に手紙を読んでやる場面が小説にはないし、村の娘と息子との交流もほんの少しだけ。父親が息子を案内して最後の配達に出かけるというプロットだけが同じで、ス・ウの脚本は小説を驚くほど豊かに膨らませている。細部を具体的に語り、父子の関係に的確なエピソードを付け加え、小説を見事に語り直している。その手法に感心させられた。映画は小説以上の出来と言っていい。

 ただし、映画には父親の足を痛めつけた川の水の冷たさが少し欠けている。具体的な描写を織り込んだ結果、父親のキャラクターが先日書いたような生真面目すぎるものになったのも残念。もちろん、小説でも生真面目な男なのだが、それ以上に感じるのは老いを迎えた男の切なさなのである。映画はもっと父親の視点で統一した方が良かったのかもしれない。

 細部を膨らませすぎることで余計な要素が交じる場合もあるのだ。しかし、これは小さな傷で、この短い小説からあの映画を作り上げたスタッフの手腕は褒められるべきだろう。

 小説では天秤棒を担いで郵便袋を運ぶ。映画のリュックサックより、これは大変だと思う。犬に“次男坊”という名前もなかった。