2002/03/30(土)ビリー・ワイルダー監督死去

 27日、肺炎のためロサンゼルスの自宅で死去。享年95歳という。遺作は「新・おかしな二人 バディ・バディ」(81年)。これを僕は見ていない。その前の「悲愁」(79年)がリアルタイムでワイルダーの映画を劇場で見た最初で最後だった。ワイルダーは都会派コメディとシリアスドラマの両面で優れた映画を撮った。「失われた週末」「サンセット大通り」がシリアスドラマの代表なら、「麗しのサブリナ」や「7年目の浮気」「お熱いのがお好き」などがコメディの代表だろう。

 ワイルダーはオーストリア出身のユダヤ人。ナチスの台頭を嫌い、1934年、28歳で渡米した。1988年、アカデミー賞のアーヴィング・タルバーグ記念賞を受賞した際のスピーチでこの時のエピソードを語り、感動的だった。

 ワイルダーの入管書類には不備があり、職員に入国目的を尋ねられる。ここで規則通りに送り返されたら、収容所行きが待っている。それは死を意味する。事実、ワイルダーの母親ら家族は収容所で亡くなった。「脚本を書くために来た」。そう言ったワイルダーにその職員は「頑張って、いいのを書け」と言って、入国を許可してくれた。授賞式でワイルダーは「私はその職員のためにいい脚本を書こうと、これまで必死にこの仕事を続けてきた」と感謝の言葉を贈ったのである。ワイルダーは「シンドラーのリスト」の映画化を切望していたという。

 「バニラ・スカイ」のキャメロン・クロウ監督はビリー・ワイルダーに長いインタビュー(「ワイルダーならどうする?」)をし、昨年のアカデミー賞脚本賞(「あの頃ペニー・レインと」)を受賞した際にもワイルダーに敬意を表するスピーチをした。ワイルダーに影響を受けた監督や脚本家は多い。20年以上、映画を撮っていなかったとはいえ、死去のニュースはやはり悲しい。くだらないコメディしか撮れない最近のアメリカの映画人はワイルダーから学ぶべきことが多いと思う。

 以下は2018年11月8日に追記。スピーチの全文翻訳はヲノサトルさんという人のビリー・ワイルダーのスピーチにあった。YouTubeにはスピーチの動画がある。

2002/02/27(水)日本映画は二度死ぬ

 「修羅雪姫」のパンフレット(大判で1000円)にプロデューサーの一瀬隆重が書いている言葉。ちょっと引用しておく。

 日本映画はもっと金をかけられるようにならなきゃいけない。現場は貧しくて思い通りの画が撮れない。スタッフも貧しくて、良い人材が集まらない。「予算の割りには頑張ってた」「やりたいことは伝わった」って、お客さんに同情して許してもらってる。日本映

画は今のままじゃダメだ。だから、今日の傑作やヒット作じゃなく、未来の大傑作や大ヒット作を生み出すために、失敗を恐れず実験しなきゃいけない。日本映画は一度、死んだ。甦ることが出来るか否かは、十年後に向けた試行錯誤を今、出来るかどうかにかかっている。そうしないと、日本映画は二度死ぬ。

 一度死んだのはいつのことか。恐らく大映が倒産し、日活がロマンポルノの製作を始めた70年代だろう。「修羅雪姫」の1億3500万円という製作費は、物価の高騰を考えれば、20年ほど前までATGが作っていた映画の製作費2000万円とあまり変わらないのではないか。

 こうした現状はやはり間違っている。SFに理解のある一瀬のようなプロデューサーには頑張って欲しいと思う。