2002/07/13(土)「メン・イン・ブラック2」

 脚本に「ギャラクシー・クエスト」のロバート・ゴードンが加わっている。というのは後で知ったことだが、それならば、もう少し面白くなっても良いのではと思える。「ギャラクエ」の場合は原案・脚本のデヴィッド・ハワードの功績だったのだろう。

 5年ぶりの続編だが、ほとんど新鮮さがない。バリー・ソネンフェルドの演出はいつものように平板だし、話の展開も平凡である。強力なエイリアンを演じるララ・フリン・ボイルの容色の衰えも気になる(まだ32歳なんだけど)。トミー・リー・ジョーンズ(記憶を消されて郵便局長になっている)とウィル・スミスのコンビはおかしくていいのだが、この程度の話では面白くなりようがない。

 ま、最初からA級の大作は狙わず、B級路線に開き直っているのだろう。テーマ的にも同じの昨年の「エボリューション」あたりとあまり変わらない印象。コメディのセンスというのはなかなか難しいもので、ソネンフェルドにはそれが欠けている。

2002/07/12(金)「父よ」

 ジョゼ・ジョヴァンニが自分の父親を描いた自伝的作品。ジョヴァンニの映画を劇場で見るのは個人的には「掘った奪った逃げた」(1979年)以来だからなんと23年ぶりである。ジョヴァンニにとっても劇場用映画としては13年ぶりの作品である。

 死刑判決を受けた息子を父親が助けようと奔走する。息子がいる刑務所の前にある店に通い詰め、看守から息子の様子を聞き、弁護士を頼み、被害者の家を訪ねて特赦の嘆願書を書いてもらう。父親は息子から嫌われていると思っているので、自分がしていることを隠している。息子は犯罪には加わったが、殺人は犯していなかった。若者の犯罪抑止のために見せしめの意味が反映されて通常より重い刑がくだされたことを映画は示唆する。父親の必死の努力で息子は終身刑に減刑され、11年後に釈放される。その後ジョヴァンニは罪を取り消されて完全な復権を果たすが、その時父親は既に亡くなっていたそうだ。

 ジョヴァンニは今年79歳。父親の行動を知ったのは33歳の時というから、映画化するのに40年以上の年月がかかったことになる。そのためか単純な泣かせる映画にはなっていない。父親の愛情を深く描いてはいるが、息子を助けようとする父親を(例えば「父の祈りを」のように)重点的にドラマティックに描くのではなく、父親の人間性を含めて描いてある。父親の努力だけではなく、父親そのものを描いた映画なのである(原題は「私の父」)。父親の賭博師としての生活など本筋とはあまり関係ない不要と思える部分もあるが、ジョヴァンニにとってそれはなくてはならない部分なのだろう。

 ジョヴァンニと父親はついに言葉ではお互いの愛情を表現しなかった。それをジョヴァンニは悔いて、この映画を作ったと最後にジョヴァンニ自身によるナレーションが流れる。だからこれは偉大なプライベートフィルムとも言える。それにもかかわらず、この映画が普遍性を持つのは父親と息子の関係が多かれ少なかれこの映画で描かれたようなものであるからだろう。

 父親を演じるブリュノ・クレメールが味わい深い演技を見せてうまい。久しぶりにフランス映画らしいフランス映画を見たという感じ。ジョヴァンニはノワールを書く作家だが、冒険小説ファンに支持が高い。この父親像もある意味、ハードボイルドだ。演出的にはやや緩む部分があるのだが、ジョヴァンニにはまだまだ映画を撮ってほしいと思う。

2002/07/07(日)「スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃」

 かったるい前半、つまりアナキン・スカイウォーカー(ヘイデン・クリステンセン)とパドメ・アミダラ(ナタリー・ポートマン)のありきたりでまるでロマンを欠く恋愛描写に目をつぶれば、これは「スター・ウォーズ」シリーズとしては3作ぶりに面白い。あまりにも子ども向けの「ジェダイの復讐」にがっかりし、「エピソード1 ファントム・メナス」も燃えさせてはくれなかったが、この映画、後半のたたみかけるような描写がとても充実している。豊富なSFXとともにキャラクターが屹立してきて、見終わってみたら、かなり満足できる出来栄えだった。シリーズとしては「帝国の逆襲」以来22年ぶりの成功作と言える。

 実際、「帝国の逆襲」とよく似た構成である。アナキンとパドメの愛はハン・ソロとレイア姫のそれを思わせるし(しかしながら、"I Love You" "I Kmow"という悲劇とロマンあふれる決定的な名台詞がないのがダメ)、これとオビ=ワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)が単身、遠い星で悪の陰謀を目にする場面が交互に描かれるあたり、「帝国…」を参考にしたのではないかと思えるほど。小惑星帯の戦闘シーンまである。C-3POはようやく満足な体になり(と思ったら、「帝国…」でバラバラにされたような運命が待っている)、賞金稼ぎのボーバ・フェットが姿を見せ、ルークの叔父と叔母も、砂の惑星タトゥイーンのタスケン・レイダーやジャワ人も出てくる。おまけにデス・スターの設計図まで。こういうシリーズにかかわったものが出てくると、なんだか懐かしさがこみ上げてくる。

 思えば、「エピソード1」があまり面白くなかったのはシリーズにその後も関わるのがまだ9歳のアナキンとケノービ、ロボットだけだったからなのだろう。あれは「スター・ウォーズ」という名前はついていても、これまでのシリーズとはまったく異質の感触だった。前作でけたたましさにうんざりしたジャー・ジャー・ビンクスを控えめな扱いにしたのも正解。今回、子ども向けをあまり意識していないのがうれしい。ルーカスはようやく我に返ったらしい。

 後半はまさに戦争(ウォーズ)と思えるドロイドとクローン軍団の戦いが目を引くが、同時に前作では顔見せ程度だったメイス・ウィンドウ(サミュエル・L・ジャクソン)が活躍し、それ以上にシリーズで初めてヨーダが力を見せつけるあたりが楽しい。ヨーダはフォースだけでなく、ライトセイバーの達人でもあるのだった(これはフルCGだから描写できたのだろう)。敵方のドゥーク伯爵を演じるクリストファー・リーの貫禄あるセリフ回しも立派。強力な敵がいると、やはり面白くなる。

 「スター・ウォーズ」が復活したとの印象が強く、完結編が公開される3年後が待ち遠しくなる快作。ラストに描かれるクローン・トルーパーズ(その後のストーム・トルーパーズか)の大軍団と巨大戦艦スターデストロイヤーの雄姿には感慨深いものがある。「ああ、銀河共和国はついにやってしまった」という取り返しのつかない失敗を象徴的に描いたこの場面は秀逸だ。このデストロイヤーがレイアの乗った宇宙船を追いかける「エピソード4 新たなる希望」の冒頭のシーンからSF映画の歴史は変わったのだ。

 フォースのダークサイド、悪の秘かで着実な台頭を描く「エピソード2」は気分的にはハッピーではないのだが、シリーズ全体との整合性は取れており、ドラマティックな感じがすこぶる良い。たぶん、ジェダイがメタメタにやられるであろう次作「エピソード3」をルーカスはどうやって映画化するのだろう。

 それにしてもアナキンとパドメの愛の描写はもう少し何とかならなかったのか。これだけがかえすがえすも残念である。

2002/06/29(土)「マジェスティック」

 第2次世界大戦に出征した若者のうち62人が戦死し、片田舎の小さな町ローソンは未だに悲しみに沈んでいる。そこへ9年半ぶりにMIA(戦闘中行方不明者)だったルーク(ジム・キャリー)が帰ってくる。ルークは以前の記憶をすっかりなくしていたが、戦場での勇敢な行動で勲章をもらった町の英雄とも言える人物。父親ハリー(マーティン・ランドー)は息子の帰還を喜び、恋人アデル(ローリー・ホールデン)との愛も甦る。ルークとハリーは閉鎖された映画館マジェスティックを再開し、町には久々に活気が戻る。

 もちろん、映画はこの前にルークが実はピートという新進の脚本家であり、非米活動委員会から学生時代の共産党主催の集会への参加をとがめられて聴聞されようとしていた人物であることを語っており、観客は真相を知っているのだが、この1950年代の美しい田舎町の描写がとにかく素晴らしくよい。小さな諍いはあっても、町の人たちは善人ばかり。国を信じて出征した息子たちの死の悲しみを抱きつつ平和に暮らしている。主人公とアデルがゆっくりと愛をはぐくむシーンはとてもロマンティックだ。

 そんな平和な町に地響きを立て車を連ねてやってくるFBIは悪魔のようだ。赤狩りに狂乱状態となったアメリカは本当のことを言える状況にはなかった。だからこそ、フランク・キャプラ映画のジェームズ・スチュアートを思わせるジム・キャリーのクライマックスのセリフには強く胸を揺さぶられる。「ルークだったら、こう言ったでしょう。俺たちはこんな国のために戦って死んだわけじゃない」。その言葉に町の老人がつぶやく。「自由を守らなければ、彼ら(戦死した町の若者たち)は犬死にだ」。

 フランク・ダラボンははっきりと、キャプラへのオマージュを捧げている。脚本でうまいのは主人公を理想主義の人物にはしなかったこと。ジェームズ・スチュアートが演じたような善人で悪を許さない高潔な人物は今描けば、パロディに近くなる。そこで脚本のマイケル・スローン(ダラボンの高校時代の友人という)は主人公の恋人アデルに自由と正義を信じる役割を振った。アデルは子どものころに見た映画に影響されて弁護士になろうと決意した女性であり、主人公に議会での偽りの証言は間違いだと諭す。アデルが託した合衆国憲法とルークの手紙を読んで、直前まで投獄を逃れるために偽りの証言をしようとしていたピートは用意していた声明文も読まず、告発もしないのである。

 「幸せの黄色いリボン」を思わせるようなラストで感動が最高潮に達する。そんな理想は現実には通用しないよと分かっていても、共感せずにはいられなくなる。

 非米活動委員会がやったことは、この映画の描写ではとても足りないが、これは普通の人たちが勇気と希望を取り戻す物語であり、正義と真実が勝利する物語なのである。ジム・キャリー、マーティン・ランドーをはじめ出演者たちが絶妙。2時間33分をゆったりとしたペースで綴るダラボンの演出もうまい。「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」を超えてこれはダラボンのベストと思う。

2002/06/23(日)「陽はまた昇る」

 ビクターの横浜工場ビデオ事業部がVHSを開発し、販売にこぎつけるまでの苦闘を実話に基づいて描く。ということは知っていた。NHKの「プロジェクトX」が元になったそうで、この番組、あまり見ていないが、映画が感動の押し売りになっていたら嫌だなと気構えて見た。

 監督デビューの佐々部清はそういう危惧を払拭するように手堅く真摯にまとめている。西田敏行がいつものような熱演タイプの演技であるとか、主人公の家族の描写に時間を割いている割にはあまり効果を挙げていないとか、さまざまな瑕疵はあるにせよ、一本筋の通った映画に仕上がっており、デビュー作としては合格点と言える。佐々部清は崔洋一、和泉聖治、杉田成道、降旗康男らに助監督としてついたそうだが、降旗の映画の感触に近いものがある。

 主人公の加賀谷静男(西田敏行)は日本ビクターの開発技師。あと数年で定年を迎えるところで、横浜工場のビデオ事業部長の辞令が下る。高卒の加賀谷が事業部長となるのは異例だったが、実は業務用ビデオを生産する横浜工場はビクターのお荷物的存在。体のいい左遷だった。不況にあえぐビクターは全部門に2年間で20%の人員削減を命じる。横浜工場の人員は241人。50人近い人員のリストラを課せられたことになる。加賀谷は1人の首も切りたくなかった。営業に力を入れ、家庭用VTRの開発で人員を守ろうとする。

 しかし、そんな努力も虚しく、SONYが一足先にベータマックスを発表してしまう。ベータマックスの録画時間は1時間。加賀谷たちは残業を重ねて、2時間の録画が可能な試作機のVHS(Video Home System)を完成させた。通産省はVTRの規格が乱立することを恐れ、家電業界に統一を促す。業界はベータマックスの導入に傾く。ビクターもベータに傾くが、ここでビクターがベータを選べば、工場のスタッフの努力が水の泡になる。加賀谷は世界規格を目指してVHSの技術を公開。松下電器をVHS陣営に引き入れるため、松下幸之助(仲代達矢)に直訴し、VHSの優秀さを訴える。

 リストラされるサラリーマンの悲哀を感じさるを得ず、目頭を熱くさせる描写がところどころにある。部下を救うために必死の努力を重ねる西田敏行の姿もいいが、それを補佐する次長の渡辺謙や下請け工場の社長を演じる井川比佐志、加賀谷たちの努力をくんでVHSの発売を決めるビクター社長夏八木勲らが好演している。

 こういう普通の感動作が日本映画にはもっと必要だろう。いや感動作でなくとも、奇をてらうことなく普通のしっかりした映画を作れば、観客はもっと映画館に足を向ける。