2004/03/12(金)「イノセンス」

 「Ghost in The Shell 攻殻機動隊」を今、見直してみると、「マトリックス」にどれほど大きな影響を与えたかよく分かる。「マトリックス」は結局、設定を生かし切れずに「レボリューションズ」では現実世界の戦争アクションにしてしまったが、押井守はウォシャウスキー兄弟とは違って、テーマを突き詰め9年ぶりの続編を思索的なSFミステリに仕上げた。タッチは「ブレードランナー」、基本テーマはアイザック・アシモフの小説を思い起こさせる(一番近いのは「夜明けのロボット」か)。両者を融合させてデジタルで再構成したSFミステリと言うべき作品である。デジタルエフェクトを使った都市のイメージなどのビジュアル面と75人の女性民謡コーラスを使った音楽(川井憲次)の素晴らしさに比べて、観念的なセリフが多い脚本は大衆性とはかけ離れているけれど、それだけで批判もできないだろう。押井守の映画に観念的なセリフが多いのは今に始まったことではない。

 刑事2人が殺人事件の謎を追うという構成はシンプルだ。人とサイボーグとロボットが共存する2032年。愛玩用のアンドロイド(ガイノイド)が暴走し、所有者を殺害する事件が頻発する。犠牲者に政治家が含まれ、テロの可能性も否定できないことから公安九課の荒巻はバトーとトグサに事件を担当させる。ガイノイドを作ったのはロクス・ソルス社。事件を起こしたガイノイドの電脳にエラーは見つからなかった。バトーとトグサは事件に関係しているらしい暴力団「紅塵会」の事務所に殴り込み、ロクス・ソルス社の本社がある択捉の経済特区に向かう。

 「ブレードランナー」はリドリー・スコットがディック原作のスペキュレイティブな部分をばっさり切り落とし、未来のハードボイルドとして単純に映画化したのが成功の一つの要因。これに未来都市の魅力的な造型が加わって、もはやSFの古典というべき映画になった。「イノセンス」はこの2つの要素を踏襲した上で、ディックの思索を付加した観がある。人間とサイボーグとロボットの関係にまつわる思索。「人はなぜ自分に似せてロボットを作るのか」。事件の捜査に合わせて、これに絡んだ箴言が登場人物の口から次々に引用される。

 事件が解決した後、サイボーグの主人公バトーは事件の犯人に対して「ガイノイドを傷つけることが分からなかったのか」と怒りを見せる。愛犬と暮らす孤独なバトーは自身がサイボーグでもあるため、ロボットと人間の関係に敏感なのである。ただ、夥しい箴言が散りばめられながらも、それが明確にテーマに昇華していかないもどかしさは残る。主人公の造型とテーマをもっと明確に結びつける物語に構成した方が良かっただろう。

 「バトー、忘れないで。あなたがネットにつながる時、私は必ずそばにいる」。“均一なるマトリックスの裂け目の向こうに”消えた前作の主人公「少佐」こと草薙素子は言う。クライマックス、ロクス・ソルス社の船の中でガイノイドにロードした素子はバトーを助け、再び去る。こういうセンチメンタルな部分を補強すれば、映画はもっと大衆性を得たと思う。その意味で今回、伊藤和典が脚本に加わっていないのは惜しい。

2004/03/07(日)「K-19」

 「父上と同じように収容所送りになる。あなたは軍歴を失う」

 「我が家はそういう伝統らしい」

 モスクワへの命令違反により害が及ぶことを案じる副艦長リーアム・ニーソンに対し、艦長のハリソン・フォードがさらりと答える。急造の原子力潜水艦K-19で起きた放射能漏れ事故で艦内は放射能汚染が進む。乗組員7人が“レインコートと同じ”ケミカルスーツで原子炉の修理を行い、被曝する。これ以上、乗組員を危険にさらせないと、ハリソン・フォードは軍務違反を決意するのである。

 最初はハリソン・フォードにしては珍しい悪役かと思っていたら、最後でこういう逆転が待っていた。キャスリン・ビグローは分かっているなと思う。女性なのに、「マスター・アンド・コマンダー」のピーター・ウィアーよりよほど分かっている。

 それにしてもひどい事故である。冷戦時代のタワケタ行動とはいえ、原子力潜水艦によって米軍に示威行動をするのがK-19の任務なのである。核兵器も積んでいるし、炉心溶融に至ったら、広島の原爆投下以上の惨事になるところだった。チェルノブイリ事故の際にも冷却水の中に飛び込んだロシア人がいたが、この映画で描かれるケミカルスーツでの補修も同じようなものだ。ちらりとうかがえる反共テーマを割り引いても、緊張感あふれる傑作だと思う。

2004/03/07(日)「黒水仙」

 宮崎ロケがあった韓国映画。50年前の朝鮮戦争直後の悲劇が現在の殺人事件につながるアクションだが、脚本があまりうまくないのでB級にしかなっていない。宮崎ロケにはシーガイアや中央通(ニシタチ? 舞妓さんが歩いてる)のほか、犯人を追って高千穂峡→綾の大吊り橋→サボテンハーブ園→サンメッセ日南と舞台が移り変わるのに苦笑。まあしょうがありませんが。

 監督はペ・チャンホ。俳優では不運な身の上(独房に50年間入れられた)の男を演じるアン・ソンギ(「眠る男」「MUSA」)の演技に見所がある。

2004/03/05(金)「マスター・アンド・コマンダー」

 恐らく、ピーター・ウィアー監督は海の男の誇りとか心意気などを描くことに興味はないのだろう。パトリック・オブライアンのジャック・オーブリーシリーズ第10作「南太平洋、波瀾の追撃戦」を映画化したこの作品、嵐や砲撃、帆船内部の描写などビジュアルな部分は素晴らしいのにあまり話が盛り上がってこない。エモーションの高まりがないのである。これは主に主人公のキャラクターから来ており、ジャック・オーブリー、立派な軍人ではあっても海洋冒険小説の主人公としては魅力に欠ける。アカデミー10部門にノミネートされながら、2部門のみの受賞(音響編集賞と撮影賞)に終わったのはそんなところに要因があるように思う。

 時代は1805年。英国海軍のフリゲート艦サプライズ号は霧の中から現れたフランスの船アケロン号から奇襲を受け、霧の中に逃げ込む。アケロン号は民間の私掠船で捕鯨船を襲っているらしい。船長のジャック・オーブリー(ラッセル・クロウ)は反撃のため、港に引き返すのをやめ、海上で船を修理してアケロン号を追う。サプライズ号よりも速く、大砲の数も多いアケロン号をどう倒すかがメインの話で、これに乗組員と士官の対立など過酷な船内の様子が絡む。

 出てくるのは男ばかりなのに男臭さは意外に希薄だ。ウィアーに興味があるのは船長のジャック・オーブリーよりも医師で博物学者のスティーブン(ポール・ベタニー)なのだろう。だから本筋とは関係ないガラパゴス諸島に上陸するエピソードが必要以上に面白くなってしまう。

 中盤、嵐の海に落ちた乗組員をオーブリーが泣く泣く見殺しにする場面がある。折れたマストがブレーキとなり、そのままでは船が転覆する恐れがあったためだが、このエピソードがその後の主人公の考えに影響を及ぼさないのは疑問。このほかのエピソードも本筋の物語と深くかかわってこない弱さがあり、原作がどうかは知らないが、脚本にはもう少し情緒的な工夫が必要だった。オーブリーの行動は軍人としては正しいのだろうが、共感できない部分が残るのだ。