2004/11/03(水)「テキサス・チェーンソー」

 トビー・フーパーのカルト的な傑作「悪魔のいけにえ」のリメイク。リメイクとしては良くできている方で、なかなか怖い。フーパー版ではラスト、ヒロインがようやく逃げてトラックの荷台でヒステリックに笑い続けた。あれは極限の恐怖から解放されたために起きた笑いで、そのあたりがリアルだった。今回は、ヒロインが反撃に転じる場面から怖さがなくなる。よくある殺人鬼との対決になってしまうのだ。冒頭のヒッチハイクの場面はフーパー版では異常者一家の男だったが、今回は女。という風に細部が少しずつ違う。

 監督はMTV出身のマーカス・ニスペル。そのためかビジュアル面では申し分なく、荒野にポツンと立つ一軒家など冷たい感触の色合いは異常なホラーに良く合っている。最後に「物語は実際の事件に基づいているが、登場人物や地名はフィクション」と出る。実際の事件とは言うまでもなく、エド・ゲインの事件。しかし、ゲインはチェーンソーは使わなかっただろう。ヒロイン役のジェシカ・ビールは「ブレイド3」に出演するそうだ。

2004/11/02(火)「父と暮せば」

 「父と暮せば」パンフレット黒木和雄監督が井上ひさしの戯曲を映画化した作品。原爆投下3年後の広島を舞台に描く父と娘の物語で「TOMORROW 明日」「美しい夏キリシマ」と合わせて“戦争レクイエム3部作”としている。父親を演じるのが原田芳雄、娘が宮沢りえ。この2人と宮沢りえに思いを寄せる浅野忠信の3人が主要キャストにしてオールキャスト。もとが舞台劇だけに家の中のシーンがほとんどだが、黒木監督はしっかりとした演出で反核の願いを込めた物語を展開していく。黒木作品には珍しくCGを使った原爆投下とその後の広島の街の様子が描かれる。場面は少ないが、細かい部分まで描いてCGとしては良い出来の方である。しかし何よりも、「うち、人を好いたりしちゃいけんのです」と死者に対して気兼ねする宮沢りえが素晴らしく良い。

 パンフレットによると、この「自分だけが生き残って申し訳ない」という意識は作者の井上ひさしが多数の被爆者の手記を読んだ結果得たものであり、それは黒木和雄の戦時体験にもつながるものだという。黒木監督の前作「美しい夏キリシマ」に空襲で死んだ友人を見捨てて逃げた監督の悔恨の思いが込められていたように、この映画の主人公にも被曝した父親を助けようとして助けられなかった悔恨がある。それがどう癒やされていくか、どう復活のきっかけをつかむかを映画は丹念に綴っている。俳優2人の対話によって進む物語は密度の濃い空間を生んでおり、「美しい夏キリシマ」より充実していると思う。マイケル・ムーアは大きな対象を批判するのに個人の体験や言葉を多数引用したが、黒木和雄は戦争を描くのに個人の体験と意識に絞り、温かみがありながらも鋭い作品を作った。個人の体験を重視する方法論がここでは十分に成功している。

 主人公は図書館に勤める福吉美津江(宮沢りえ)。激しい雷におびえて家に帰ってきた美津江は押し入れの中入っている父親(原田芳雄)を見つける。雷が「ピカ」を連想させて、父親も怯えていたのだ。2人の会話から、やがてこの父親は原爆投下時に死に、今は幽霊となって現れたことが分かる。原爆の資料を集めるために図書館に来た木下(浅野忠信)への美津江の恋心から父親は生まれたという。美津江は木下に惹かれながらも、自分だけが幸せになってはいけないと思いこみ、木下への思いを断ち切ろうとしている。なぜか。美津江は原爆投下後、死んだ友人の母親から言葉を投げつけられる。「なひてあんたが生きとる」「なひてうちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか!」。加えて、美津江には被曝した父親を見捨てて火災から逃げねばならなかった過去がある。我が子を亡くした母親の理不尽な思いから出た言葉と父親を助けられなかった悔恨がその後の美津江を縛っていた。

 美津江が原爆の呪縛から解き放たれることになる父親の言葉は、普通の人間の当たり前の願いである。なぜ、自分は生きているのか、死者に報いるには何をすればいいのか、映画は何も難しいことを要求しない。普通に生きていくこと、死者の分まで生き続けることを訴えるだけである。そこがいい。広島弁で語られる会話は温かさを生み、日常の細かな描写がリアリティを生んでいる。

2004/11/01(月)「ウォルター少年と、夏の休日」

 「ウォルター少年と、夏の休日」チラシ「ウォルター少年と、夏の休日」は物語の展開から見て、原作ものかと思ったら、「アイアン・ジャイアント」の脚本家ティム・マッキャンリーズが自作の脚本を監督したのだそうだ。

 2人の伯父に預けられた少年の話。伯父を演じるのはマイケル・ケインとロバート・デュバル、少年はハーレイ・ジョエル・オスメント。ケインとデュバルさすがの演技を見せるけれど、少年役はもっと幼い感じの俳優が良かったような気がする。オスメントも声変わりして随分大きくなった。チャラチャラしたしょうがない母親が出てくるあたり、物語の雰囲気は「アトランティスの心」に通じるものがあり、超常現象は出てこないが、スティーブン・キングの小説を思わせる。原題のSecondhand Lions(中古のライオン)の通り、動物園から払い下げられたメスのライオンも登場する。しかし、この原題はかつて世界を旅して冒険した2人の伯父を指しており、少年が伯父の影響を受けてたくましくなっていくのがメイン・プロットである。ウェルメイドな佳作と思うが、それ以上のものではない。

 1960年代のテキサスが舞台。父親のいない少年ウォルターは母親(キーラ・セジウィック)から2人の伯父ハブ(ロバート・デュバル)とガース(マイケル・ケイン)の元に預けられる。「たぶん2、3週間。長くても1、2カ月」の予定。母親が速記学校に通うためとの名目だったが、実際はどうだか分からない。伯父2人の家は古ぼけており、テレビも電気もないが、2人は大金持ちとの噂だった。母親は金のありかを探すようウォルターに言い含めて去る。伯父2人はセールスマンが来ると、ショットガンをぶっ放す変わった性格。おまけにハブは夢遊病らしい。なかなかなじめないウォルターは部屋の中から若い女性の写真を見つけ、ハブから2人の若い頃の話を聞く。ハブとガースは外人部隊に所属し、北アフリカにいたことがある。その頃、ハブはジャスミン(エマニュエル・ヴォージュア)という女と情熱的な恋をする。今でも腕っ節の強いハブは若者4人を簡単に倒して説教したりする。ウォルターは徐々に2人に好感を持つようになる。

 スティーブン・キングと書いたけれど、考えてみれば、少年と巨大なロボットとの交流を描く「アイアン・ジャイアント」にも通じるものがある。普段はおとなしいが、実は強力な力を持っているロボットと未だに衰えない力を持つ伯父。「アイアン…」も時代は現代ではなく、1950年代だった。マッキャンリーズ、そういう古い時代のアメリカに執着した部分があるのかもしれない。この脚本はMOVIELINE誌の「スクリーンで見たい良質な脚本ナンバーワン」に選ばれたそうだが、展開自体にそれほど新鮮な部分があるわけではなく、要するに出来上がりと同様、ウェルメイドなセンを狙ったのだろう。

2004/11/01(月)「華氏911」

 「華氏911」パンフレットようやく見た。見ている間中、怒りがフツフツとわき上がってくる映画である。ジョージ・W・ブッシュという知性のかけらもない男を大統領にしてしまったためにアメリカはアフガニスタン、イラクと続けて戦争をする羽目になった。「富める者とさらに富める者」の味方であり、自身もその上流クラスにいるブッシュはその層のためだけに政策を展開し、彼らが始めた戦争に貧しい者たちがかり出されて死んでいくことになる。もちろん、これがブッシュ批判を展開した映画であることは承知の上だけれど、それでも怒りは収まらない。

 「俺たちより貧しい人たちをなんで殺さなくちゃいけないんだ」という米兵の叫びは真実だろうし、失業率が公称17%、実際は50%のフロリダ州フリントの若者たちには戦争にいくしか生きる道がないのも本当だろう。息子をイラクで戦死させた母親の悲しみも、空爆によって親族の葬式を5回も出さなければならなかったイラク人女性の「アメリカの家が破壊されればいいんだわ。もう神しか頼るものがない」との嘆きも本物だろう。フリントに住む若者は言う。「イラクの破壊された町並みは廃屋の多い俺たちの町と同じだ」。マイケル・ムーアはブッシュがいかにひどい大統領であるか、そのせいでアメリカがどんなことになっているのかを次々に例証していく。内容に偏りがあるという批判は分かるが、主義主張を込めないドキュメンタリーには意味がない。それ以上にリアルタイムな題材を選んでドキュメンタリーを作るムーアの姿勢は尊敬すべきものだ。しかし、映画はこれで完成したとは言えない。2日の大統領選でブッシュが落選して初めてこの映画は本当に完結することになるのだ。

 「俺たちは偽の選挙で偽の大統領を持ってしまった」。アカデミー賞授賞式でムーアが指摘したフロリダ州の大統領選で映画は始まる。テレビ局の多くはゴア勝利を報道するが、フォックステレビのブッシュ勝利の報道によって次々に報道が変わっていく。アフリカ系アメリカ人を選挙人から意図的に外したなど選挙に不正があったとする異議申し立ては上院議員が誰一人署名しなかったために無効となる。ブッシュは就任後、休暇の多い大統領として有名になり、その能力の低さと合わせて支持率は下がっていく。そんな時に9.11の同時テロが起こる。そこからビンラディン一族を逃がしたとか、独立調査委員会の設置を妨げたとか、事前にアルカイダによる航空機テロの報告書が出されていたのにブッシュは読まなかったとか、事件を知って7分間も視察先の教室の中にいたとか、ビンラディン一族とブッシュとの親密な関係とか、サウジアラビアの富豪たちとブッシュの結びつきとかが語られていく。ただし、映画の根本的な主張はそんなところにはない。ブッシュという男が自分の利益を守り、上流階級の利益を守ることしか眼中にないことが徐々に分かってくるのだ。テロとは関係なく、大量破壊兵器さえ持っていなかったイラクとの戦争によって、多くの若者たちが死んでいく。米兵の死者は1,100人を越えたが、イラク人の死者は10万人を越えているという。その戦争の裏に石油利権があるのをアメリカの一般市民でさえ、知るようになった。

 ムーアが怒るのはこういう部分だ。前作「ボウリング・フォー・コロンバイン」でも描かれたアメリカ人の恐怖心を政府はテロの恐怖を意図的に煽ることで、増幅させていく。騒動にまぎれて個人情報を政府が入手できる愛国者法というとんでもない法律も成立してしまった。日本以上にアメリカの自由は制限されるヒドイ状態になっている。それでもアメリカの起こす戦争は民主主義と自由を守るというのが大義名分だ。こうした矛盾に対してムーアは怒っている。その怒りはこちらに伝染してくる。敵はイラクなんかではない。富を掌握して離さない一部の富裕層にあるということを映画ははっきりと伝えている。