2008/03/22(土)「潜水服は蝶の夢を見る」

 脳出血で脳幹を破壊され、ロックト・イン(閉じ込め)シンドロームにかかったファッション雑誌Elle編集長の実話。動くのが左目だけというのは絶望的で、首から下が麻痺した「海を飛ぶ夢」や「ミリオンダラー・ベイビー」のシチュエーションよりも救いがない。体がまったく動かせないので自殺の自由さえないのだ。

 主人公も最初は死を望むが、周囲の援助によってまばたき1回がイエス、2回がノーという決まりで本を書き始める。アルファベットをイエス、ノーで選びながらの気の遠くなるような作業。主人公はその過程で父親(マックス・フォン・シドーが好演)や家族との思い出を回想する。悪くない出来なのだが、「海を…」や「ミリオン…」には及ばない。本を書くことが中心になって生と死の重たい命題を突き詰めていないからか。映画が実話に負けた感じなのだ。

 監督のジュリアン・シュナーベルはフランス人かと思ったら、アメリカ生まれ。この映画も言葉はフランス語だが、フランスとアメリカとの合作だった。原題はLe Scaphandre et le Papillon(潜水服と蝶)。

 ロックト・インシンドロームは珍しい症状だが、生活習慣病が原因になるとのこと。確かに脳出血は生活習慣病が引き起こす場合が多い。

2008/03/09(日)「バンテージ・ポイント」

 大統領狙撃事件を8人の視点(バンテージ・ポイント)で描くアクション映画。森卓也はキネ旬で「スタンリー・キューブリックの出世作『現金に体を張れ』(56)にインスパイアされたのではあるまいか」と書いている。なるほど。午前11時59分57秒から狙撃の瞬間を経てその後まで何度も違う視点で繰り返すうちに徐々に犯行の詳細が分かってくる。途中に謎やサスペンスを加えるのもうまい。脚本はもちろん優れているが、それ以上に演出のスピード感が良い。クライマックス、コンパクトカーによる渋滞した中でのカーチェイスも面白かった。

 1時間30分の上映時間は賢明。この趣向ではこれ以上長くなると、スピード感を減殺することになったかもしれない。絶賛はしないけれど、良くできた作品と思う。気になるのはラストで、偶然に頼った解決にすぎなかった。もっとも、これもちゃんと伏線らしきものはある。監督のピート・トラビスはテレビの演出家で、劇場用映画はこれが初めて。このスピード感もテレビ向きなのかもしれない。

2008/03/08(土)小説「君のためなら千回でも」

「君のためなら千回でも」表紙

 同名映画の原作。2006年に出たカーレド・ホッセイニ「カイト・ランナー」を改題してハヤカワepi文庫から出ている。読み終わった印象としては上巻100点満点、下巻70点といったところ。下巻、タリバンが支配するアフガニスタンに入るくだりの展開が冒険小説的なのが惜しい。いや、冒険小説は好きなのだが、文芸作品として読んでいたので、通俗小説のような展開に違和感があった。それに話のつじつまが合いすぎるのも難に思えてくる。エピソードに符合するエピソードが余計に感じるのである。これは処女小説であるがゆえの瑕疵と言うべきか。ただし、普遍性のある話である。罪と贖罪、父と息子、家族の物語。主人公を取り巻く人物たちが圧倒的に素晴らしく、胸を揺さぶる。

 まだ平和だったころのアフガニスタン。主人公のアミールは裕福な家庭に生まれる。母親は出産時に死亡。父親のババは男気のある実業家で周囲の尊敬を集めている。アミールは父親と正反対の物静かな性格で、父親の愛を得ようとして得られない「エデンの東」のジェームズ・ディーンのような親子関係にある。アミールの家にはハザラ人で召使いのアリとその子どもハッサンが土の小屋で暮らしている。ババとアリは幼いころから一緒に育った。アリは3歳のころに小児麻痺にかかり右足が不自由だが、2人の結びつきは強い。ハッサンは口唇裂で、身持ちの悪かった母親はハッサンを生んだ後、家を出てしまう。母親がいない同じ境遇の下、アミールとハッサンもまたババとアリのような絆に結ばれている。しかし、アミールの心の中にはハッサンを見下した部分があった。

 こうした設定の下、物語は「わたしが今のわたしになった」1975年12月の出来事を描く。臆病なアミールはある事件でハッサンを見捨てて逃げてしまう。しかもすべてを知られたと思ったアミールはハッサンにつらく当たり、決定的に卑劣なことをしてアリとハッサンを家から追い出す。ソ連のアフガニスタン侵攻でアメリカに渡ったアミールのもとへ、20数年後、ババの仕事上のパートナーでアミールのよき理解者だったラヒムから電話がかかってくる。「来るんだ。もう一度やり直す道がある」。ラヒムもまたすべてを知っていたのだ。そしてアミールは封じ込めていた過去と向き合うことになる。

 原題の「The Kite Runner」(凧追い)は凧揚げ競争で糸の切れた凧を手に入れようと追いかける子供のこと。言うまでもなく凧追いが抜群にうまかったハッサンを指している。不幸な境遇にあるアリとハッサンのまっすぐに生きる姿、曲がったことが嫌いなババの描写が胸を打つ。それに比べれば、主人公のアミールは全然立派ではないのだが、一般的な人はこういう存在だろう。それでもアミールは命がけでアフガニスタンに帰り、過去の罪を清算するためにある任務を果たすことになる。

 上巻のアミールは単なる語り手にすぎないが、後半は本当の主人公になるわけだ。本の帯にある「全世界を感動で包み込み800万人が涙に濡れた」という言葉に全面的に賛成はしないけれども、読んで損はない小説だと思う。全体の構成に難は感じるが、少なくとも、僕も涙に濡れた描写があったのは間違いない。

2008/02/24(日)「ライラの冒険 黄金の羅針盤」

 盛り上がらずに終わった感じ。所々眠かった。子供向けにしては話の基本設定が難しい。この世界とは違う別次元の世界の話で、人はダイモンと呼ばれる魂(動物の姿をしている)を引き連れている。これに意味があるかというと、ほとんど意味がないように思える。演出にもメリハリがない。監督の才気は微塵も感じられず、凡庸の塊だな、これは。良かったのは鎧熊イオレクのCG(と、ニコール・キッドマンとエヴァ・グリーン)ぐらい。

 これで250億円の製作費は回収できるのだろうか。1カ月間招待券が使えないのは製作費回収が難しいとの判断からなのだろう。監督は「アバウト・ア・ボーイ」のクリス・ワイツ。こういうファンタジー大作になぜこの監督を選んだのか不思議だ。原作自体、大した作品ではないようで、キネ旬でおかだえみこは「(3部作の)最後はひろげた大風呂敷が収拾できず、ホコロビがあちこちに残る」と書いている。製作費を使いすぎて2作目、3作目は無理との話もあるそうだ。

 ちなみにダイモンはDaemonと書く。これ、コンピュータ用語では普通、デーモンと呼ぶ。映画の中ではディーモンと発音していた。

2008/02/23(土)「ラスト、コーション」

 「ラスト、コーション」パンフレットくるくる回る風車が印象に残る。ラスト近く、主人公のワン・チアチー(タン・ウェイ)が乗る人力車(自転車タクシー)に付いた風車。自転車をこぐ男も底抜けに明るい笑顔を見せる。これが印象的なのはそういう無邪気なものをチアチーが失ってしまっているからだ。そして、通りを封鎖され、マンションに帰ることができなくなったチアチーは覚悟を決める…。4年前の1938年、香港で学生生活を送っていたチアチーは抗日の演劇が喝采を浴びたのに気をよくした仲間たちとともに、卑劣な売国奴の暗殺計画を立てる。演劇だけではなく、それを実行に移そうという軽い乗りの計画はしかし、手痛いしっぺ返しを食うことになった。なかなか死なない男をめった刺しにする中盤の長く凄惨な殺人シーンが強烈だ。ここでチアチーたちは何か大事なものをなくしてしまった。青春時代に別れを告げることになったのだ。

 通過儀礼というにはあまりにショッキングな出来事。後半のハードコアな描写に気を取られがちだが、この映画、前半に青春時代の愚かな行動と挫折を描き、それで映画全体を包み込んでいる。自分たちの存在価値を守ろうとして、あるいはかつて失ったものを取り戻そうとして再び暗殺を企てる仲間たちの中で一人、チアチーだけは暗殺対象のイー(トニー・レオン)との性愛に溺れていく。いや、別の価値観を知ると言った方がいいかもしれない。アン・リー監督はそうした枠組みの中で男女の性愛を活写し、死とエロスをテーマにした作品に仕上げた。チアチーと仲間たち、孤独なイーのラストの姿にはそれぞれに時代に翻弄された人間たちの悲哀がにじみ出る。ヴェネツィア映画祭金獅子賞は当然の結果だろう。

 ここまで書いて、アイリーン・チャンの原作「色・戒」を読んだ。文庫本で43ページと短く、エロスを強調したものではない。「欲情を戒める」というタイトルはイーの立場を表したものである。映画はほぼ同じプロットながら、チアチーの立場で物語が進行する。原作でイーとの性交渉についてチアチーはこう振り返っている。

 「易(イー)と一緒に過ごしたあの二回は、びくびくし通しで、気を抜くどころではなく、どういう感覚なのかと自分に問いかける余裕さえもなかった」

 映画とは随分違う。性愛に目覚めるどころではなく、舞台の延長でチアチーはずっと緊張したまま演技しているのだ。しかし、映画同様に原作のチアチーはイーへの愛を突然自覚し、「早く行って」(映画の字幕では「逃げて」)とイーを助けてしまう。

 「この人は本当に私を愛している。いきなりそう思った。すると激しい炸裂音が胸の中で起こり、何かを失ってしまったように感じた」

 この失ったものを丁寧に描いたのが映画なのだと思う。ワン・フィリンとジェイムズ・シェイマスの脚本(当然のことながら、アン・リーの意見が取り入れられているだろう)は原作の細部を膨らませ、豊かで激しい情感を加えて素晴らしいというほかない。原作に殺人場面はなく、クァン・ユイミン(ワン・リーホン)へのチアチーのほのかな恋心にも描写を割いてはいないのだ。何よりも映画が物語を青春の喪失の観点から組み立て直したのは卓見と言うべきだろう。前半の遊びの延長のような甘い暗殺計画と後半の命をかけた暗殺計画が見事な対となっている。

 中国の現代史を知らないと、分かりにくい部分があり、僕は映画を見た時点ではイーのキャラクターに疑問を持った。卑劣な売国奴があんな風にクールでカッコイイか。パンフレットと原作を読んで、イーが日本の傀儡政権である汪精衛(ワン・ジンウェイ)率いる南京国民政府の諜報機関のトップであり、蒋介石の国民党と対立していた時代背景を知って、こういうキャラクターなのにも納得できた。

 驚くほどの美人とは思えなかったタン・ウェイは映画が進むにつれて魅力を増していく。アレクサンドル・デスプラの哀切な音楽も心に残った。「ブロークバック・マウンテン」をはるかに超えてアン・リーのベストだと思う。

 蛇足的に付け加えると、映画は後半だけだったら、色仕掛けで近づいた敵の男を愛してしまうという「ブラックブック」と同じ趣向の作品になっていただろう。その「ブラックブック」の監督ポール・バーホーベンはヴェネツィア映画祭の審査員を務めていたそうで、そうなったら、バーホーベン、金獅子賞には反対していたのではないか。