2008/01/31(木) BMI22

 昨年10月から減量を始めて昨日で目標のBMI22になった。今日までの総減量は8.5キロ。4カ月でこの数字だからまずまずのペースか。内臓脂肪レベル7、体年齢は実年齢より9歳低くなった。体脂肪率は毎日変動するが、17~18%程度。骨格筋率がまだ標準に届かないので、今後はこれを増やしたいところ。

 減量のためにやったのは食事制限とウオーキングと筋トレ。食事制限は1600Kcalを目標に置いたが、平均してみると、1800Kcal余り取っている。それでも痩せるものなのだ。しかし、ダイエットって全然苦しくない。元々、あまり間食をする方ではなかったからか。食事の量を減らすより内容を変えたことの方が減量効果は大きかったような気がする。毎朝食べていたパンをシリアルや豆乳、野菜ジュースに変えたし、夕食はほどほどにするようになった。本気で取り組めば、痩せるのは簡単、というのが結論。

2008/01/26(土)「魍魎の匣」

 京極夏彦の原作は10年以上前に読んだ。「このミス」1996年版の4位に入っている。初めて読んだ京極堂シリーズで、これはSFだと思った。これが面白かったのでシリーズにはまり、その後の作品をすべて読むことになったのだった。実相寺昭雄の「姑獲鳥の夏」にはいろいろと不満もあったが、そのキャストの関口役だけを永瀬正敏から椎名桔平に変えてのシリーズ第2作である。

 原作の解体の仕方は面白いと思う。パンフレットの監督インタビューを少し読んだら、原田真人監督は「パルプ・フィクション」のように人物ごとにエピソードを組み立て直したかったのだそうだ。だから太平洋戦争時の榎木津と久保のエピソードを描く冒頭(これは原作にはない)から始まって、時間軸を10時間前とか3時間前とか7日後とかに行きつ戻りつしながら話が語られていく。同時に細かいカットの積み重ねで非常に映像に躍動感がある。「ボーン・アルティメイタム」の時にも思ったのだけれど、こういう細かいカット割りは映画に必要なものだと思う。

 1秒に満たないカットをポンポンポンとつなげていくのは心地よく、その技術には非常に感心した。もうつまらない映像をだらしなく流し続けるよくある映画に比べれば、随分ましである。ただし、こうしたカット割りと時間軸の動かし方の工夫が映画全体のストーリーテリングのうまさにつながっているかと言えば、そうはなっていないのが惜しいところだ。端的に言えば、失敗作に近い印象。これ、原作を読んでいない人にはストーリーが理解しにくいのではないか。

 椎名桔平の関口はかっこよすぎる。原作ではもっと凡人でぼーっとした印象。だから榎木津から「おお、猿がいた」などと言われるのだ。京極堂は逆にコミカルな面がありすぎ。堤真一は「三丁目の夕日」を引きずっている。コミカルさがあると、どうもクライマックスの憑物落としの場面がしまらなくなる。まあ、それ以上に黒木瞳がダメダメで、もっと清楚な美人女優はいないのかね。

 中国ロケの部分はとても昭和27年の東京には見えず、中国にしか見えないが、こうした無国籍なタッチは悪くない。悪くはないが、同時に時代色も希薄になってしまったのは残念。原田真人はどこまでも映画ファンの部分を引きずったところがあるように思える。個々の技術は良いのに、その組み立て方は凡庸で、これが足し算の効果は出ても、決してかけ算にはならない映画が出来上がる要因なのではないか。

2008/01/20(日)「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」

 スウィーニー・トッドってどこかで聞いたような名前だよなと思いつつ調べもせずに見に行った。予告編では妻子を奪われ、冤罪を着せられた男の復讐の話としか思えなかったが、これは殺人鬼を主人公にしたダークミュージカルだった。だからこの殺人鬼の部分が出てくる後半に驚いた。殺人鬼プラス人肉食の話で、トニー賞8部門受賞のミュージカルを基にしている。血と惨劇に悲劇を絡めてあり、こういう映画を作品賞に選ぶゴールデングローブはえらいと思う。

 復讐の話としか思っていなかった前半は、はっきり言って退屈だったが、後半の展開に感心。首筋をカミソリで切るシーンのオンパレードでR15指定も納得できる。ティム・バートンは19世紀のロンドンの街並みをいつものようにダークさを漂わせて構成しており、そこがただのスプラッター映画とは違うところ。芸術性があるのだ。ミュージカルの部分にはあまり感心するところはなかったけれど、安っぽくない作りがいい。

 主人公のジョニー・デップは言うに及ばず、ヘレナ・ボナム=カーターも好演(怪演?)。バートンは「猿の惑星」とか撮っていたころはもう終わりかなと思えたが、カーターとの出会いで完全復活した感じがする(近々ようやく結婚するそうだ)。よほど相性がいいのだろう。

 スウィーニー・トッドは殺人博物館によれば、元々は小説だが、都市伝説として実際にあった話のように伝えられてきたとのこと(http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text2/todd.html)。これまでに何度も映画化・テレビドラマ化されている。1998年にはジョン・シュレシンジャー監督、ベン・キングスレー主演でテレビ「スウィーニー・トッド」(The Tale of Sweeney Todd)になっている。この2人のコンビなら見てみたい気がするが、IMDBでの評価は6.2と低い。

2008/01/10(木)「幸せのちから」

 ホームレスになりながらも努力して億万長者になったクリス・ガードナーの半生を描く。主演のウィル・スミスはアカデミー主演男優賞にノミネートされた。IMDBの評価は7.7と高いが、日本では主人公のキャラクターについて行けないという意見もあり、賛否半ばと言ったところか。僕はそれなりに面白く見た。

 クリスは骨密度測定器のセールスマン。この機械を大量に買い込み、売らないと食べていけないのだが、高価な機械のためなかなか売れない。妻は工場で働いて家計を支えているが、家賃は何カ月も滞納している。クリスはある日、証券会社の養成コースの受講を決意。しかし、展望のない生活に嫌気が差して妻は家を出て行く。養成コースは6カ月間の見習い期間中は無給。20人の受講者のうち採用されるのは1人だけだった。クリスは息子のクリストファーとともに奮闘するが、アパートを追い出されてしまう。

 主人公がどうのこうのというよりも、アメリカの社会システムのひどさにうんざりする。6カ月間無給の制度や政府が勝手に口座から税金の滞納分を引き落とすなどというのは搾取の構造が出来上がっているとしか思えない。教会に一夜の宿を求めてホームレスたちの長い列ができる場面はそんなアメリカの社会保障の不完全さを象徴している。「シッコ」でマイケル・ムーアも描いていたけれど、ひどい社会だと思う。アメリカンドリームというのはそんなひどい社会を覆い隠すためのまやかしみたいなものだろう。実際にアメリカンドリームを実現できるのはほんの一握りなのだ。

 この映画を見たアメリカ人は「自分も頑張れば、成功できるかも」と夢を描くのかもしれない。現実には働いても働いても豊かにはならないのだろう。この映画でもクリス以外の19人は6カ月間ただ働きさせられただけということになる。

 見ていて身につまされるのは前半の落ちぶれていくクリスの在り方が他人事じゃないからだ。日本でもワーキングプアが問題になっているけれど、人間、いつホームレスになるか分かったものじゃない。さらに少子高齢化が進行していけば、年金制度をはじめ日本の社会保障制度もまた将来的に破綻するのは目に見えている。

 クリス・ガードナーは本当の父親を28歳になるまで知らず、子供のころは暴力的な継父に虐待を受けていたという。その体験が子供と(本当の)父親は離れて暮らしてはいけないという信念になった。子供がいたからこそ頑張れたのだろう。監督はイタリア人のガブリエレ・ムッチーノ。イタリア人ということで、ふと「自転車泥棒」の親子の姿を連想してしまった。ムッチーノは今年公開予定の映画「Seven Pounds」でもウィル・スミスと組むようだ。

2008/01/06(日)「クワイエットルームにようこそ」

 上映開始25分前に家を出て、橘通り交差点までは順調に来たが、そこで6分間の渋滞。な、なんだこれは、と思ってふと気づいた。宮崎女子ロードレースの日だったのだ。うちの会社も主催に入っているので文句は言えない。キネマ館に着いたら、既に予告編が始まっていた。ぎりぎりセーフ。

 けっこう面白く見た。煎じ詰めれば、女性の再生の話に収斂していき、そこに社会派の視点が皆無なので少し不満も覚えるのだけれど、細かいギャグに笑った。何より内田有紀がよろしかったですね。若い頃よりずっと魅力的。もっと映画に出てほしいものだ。

 主人公はある日、目覚めたら精神病院の閉鎖病棟で五点拘束されていて、自殺未遂と勘違いされているのが分かる。睡眠薬とビールを一緒に飲んだために気を失っていたのを同居人の男に発見されたのだ。何とか早く退院したかったが、拒食症や過食嘔吐の患者と交流していくうちに、次第に自分の真実の姿に目覚めることになる。入院患者を演じる大竹しのぶや蒼井優、りょうなどがいずれも好演している。特に大竹しのぶはつくづくうまいなと思う。

 精神病院の描写というのはフィリップ・ド・ブロカ「まぼろしの市街戦」(1966年)の昔からメルヘンチックに描かれ、外の世界の異常さを浮かび上がらせる存在として描かれてきた。この映画の描写も全然実際とは異なるだろう。だいたいあんなに話の通じる患者ばかりいるわけがない。

 社会派の視点が皆無というのは主人公が病んだ理由に社会を照射するものがないからで、自分勝手な理由だけでは物足りないのだ。そこを入れておけば、文句のない傑作になっていただろう。その意味では惜しい映画だと思う。