2008/08/09(土)「ダークナイト」

 なんと香港の場面で一瞬、エディソン・チャンが出てくる。ちょっと顔が見えるだけ。セリフもなし。ホントはもっと大きな役だったのかもしれないが、ああいう事件がありましたからね。仕方がないだろう。これ、ヒース・レジャーの遺作なだけではなく、芸能界引退前のエディソン・チャン最後の作品ということになるのだろうか。

 さて、さんざん期待して見たこの作品、十分に傑作だと思う。バットマンの身代わりになった地方検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)の護送車にジョーカーが襲撃を仕掛ける中盤から延々とクライマックスが続く感じ。まさかそんなというドラマティックなストーリーに加えて、悪の化身であり狂気のジョーカーがゴッサム・シティも画面も支配し、おまけにトゥーフェイスまで出てくるのだ。映画2本分の内容とスペクタクルなシーンが満載だ。バットモービルは壊れるが、バットポッドがまたまたカッコイイ。2時間32分、飽きるところがなかった。

 ただし、十分な傑作ではあってもそれ以上ではなかった。僕が期待したのは仮面を付けたヒーローの二面性で、ティム・バートン「バットマン

 リターンズ」で描かれたようなヒーローであるがゆえの苦悩だった。もちろん、この映画でもジョーカーがバットマンに同じフリークスであることを指摘する場面があるし、バットマンの行動はゴッサム・シティの市民に理解されないという設定もある。ダークナイト(暗黒の騎士)とはそんなバットマンの悲しい姿を警部から市警本部長に昇格したジム・ゴードン(ゲイリー・オールドマン)が指す言葉だ。

 だが、そうした設定がどうもエモーショナルなものにまで十分に高まっていかないもどかしさが残る。「リターンズ」においてバートンはペンギンとキャットウーマンの不幸な身の上を描き、それが世間への復讐へと向かう姿に説得力を持たせていた。そしてバットマンとキャットウーマンはお互いに素の自分と仮面を付けた自分の二重人格を持つ身として心を通わせた。この映画に足りないのは悪のジョーカーの精神構造で、こういう存在になった背景が詳しく描かれないことだろう。ヒース・レジャーの鬼気迫る演技に押し切られそうになるけれども、ジョーカーの精神の深奥にまで踏み込めば、さらに映画は深みを増したのではないか。

 ウェインの幼なじみで刑事のレイチェル・ドーズ役は前作のケイティ・ホームズからマギー・ギレンホールに代わった。好みの問題ではあるけれど、ジョーカーがレイチェルに向かって「威勢の良い美人だ」と言う場面で「そうかあ?」と思ってしまった。もう少し美人の女優をキャスティングしていれば、ドラマティックさはもっと増したような気がする。

 ついでに書いておくと、民衆に理解されない孤高のヒーローという存在は珍しくはない。「デビルマン」や「超人ハルク」「スポーン」もそうだし、「スパイダーマン」にもそんなところがある。単純な正義のヒーローよりもドラマ的に面白くなるのだが、もはやこれもパターン化しており、相当に工夫がないとつらいものがあるのだ。

2008/08/06(水)「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」

「スカイ・クロラ」パンフレット まるでテレビゲームの画面を見るようなCGのドッグファイトシーンが意図的なものだと分かったのは後半、世界の構造が見えてきてからだ。これは要するにゲームのコマが自分をゲームのコマと認識することによって生まれる悲劇を描いた映画である。だから戦闘シーンはゲームのようなものでなければならなかった。国家と国家の戦争ではなく、国家に依頼された企業同士が行う戦争。一時の平和な時代を生きる人々にとってその擬似的な戦争は平和を維持するために戦争の代償行為として作用している。

 戦うのはキルドレと呼ばれる大人になれない少年少女たち。キルドレは普通に生きていれば成長しないし、死ぬこともないが、撃墜されれば、キルドレであっても死ぬ。そんなキルドレの一人である主人公の函南優一(かんなみゆういち)が上司の草薙水素(くさなぎすいと)に言う終盤のセリフに胸を打たれる。「何かが変わるまで生きろ!」。草薙は自分の運命を知って、これに終止符を打ちたいと思っている。だから過去に主人公の前任者でもあった恋人を殺した。「私に殺されたい? それとも殺してくれる?」。それを主人公は否定するのだ。これはあらかじめ運命が決められた若者たちの透明な姿を描いた点でカズオ・イシグロ「わたしを離さないで」に共通するテーマを持っている。恋愛映画であり、青春映画であり、戦争映画であり、真っ当なSF。テーマの深さと芸術性の高さを併せ持った疑いようのない傑作だ。

 パンフレットにも引用されているラスト近くの主人公のこれまた胸を締め付けられるモノローグを引用しておく。それがこの映画のすべてを言い表している。

 「いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。いつも同じ道だからって景色は同じじゃない。それだけでは、いけないのか。それだけのことだから、いけないのか」

 「僕は今、若い人たちに伝えたいことがある」と押井守は言う。「僕は今、この映画を通して今を生きる若者たちに、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけれど確かな、真実の希望を伝えたいのです」。この静かな映画に流れるのはこのくそったれな世界であっても生きる希望を失うなというメッセージなのだろう。大人によって決められたこの世界はいつかは変えることができる。だからこそ、「生きろ」という主人公の叫びがリアルに迫ってくるのだ。

 イメージの豊穣さが先行した4年前の「イノセンス」から、押井守は物語を語ることによる映画の力強さを取り戻した感じがする。宮崎駿は「崖の上のポニョ」で幼い子供を対象にした映画を作ったけれど、押井守は10代に向けた映画を作った。いや、10代どころかこれはすべての抑圧された年代に対するメッセージでもあるだろう。死生観と性を描いてこれほど充実した映画をアニメで作った押井守はやはり先進的な人なのだという思いを新たにする。

 戦争を描いたことと、その静かな描写によってこれは「機動警察パトレイバー2」に直結する映画だと思う。川井憲次の素晴らしすぎるメインテーマが叙情を誘う。

 森博嗣の原作は昨年秋に買って、まだ読んでいない。読んでいなくて正解だったと思う。映画前半のやや退屈な描写が後半に生きてくるこの映画の構成を十分に堪能できたのだから。ちなみに森博嗣は「一番人気のないシリーズでしたが、常に代表作だと考えていました。自分が書いた小説の中では、最も執筆に力が必要でした」とインタビューで答えている。