2014/08/02(土)「オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主」

 ディーン・クーンツの傑作「オッド・トーマスの霊感」をスティーブン・ソマーズ監督がコンパクトに映画化。オッドの周辺の人物とエピソードを、ルウェリンと署長を除いてバッサリ捨て、中心となる事件だけを描いている。コンパクト過ぎる気もするが、仕方がないか。ラストでグッと来たのは原作を思い出したためかもしれない。

 原作を読んだ際、悪霊のボダッハは「ゴースト ニューヨークの幻」に出てくる黒い霊のようなものをイメージしていた。この映画のエイリアンのようなイメージも悪くない。原作は7作目の「Saint Odd」まで出ているが、邦訳は4作目で止まったまま。残りも出してほしいものだ。

2014/07/26(土)「GODZILLA ゴジラ」

 ウィリアム・M・ツツイの好著「ゴジラとアメリカの半世紀」に「アメリカのファンが好んでいるのは60年代から70年代にかけてゴジラが正義の味方として活躍した映画群」との指摘がある。意外な気もするが、テレビで繰り返し放映された影響なのだという。そういう背景があるので、新作「GODZILLA ゴジラ」のキャラクター設定がこうなるのは必然だったのだろう。

 ゴジラを正義の味方(生態系の守護神)として描く上でギャレス・エドワーズ監督が平成ガメラシリーズを参考にしたのは間違いないようで、見ているうちにゴジラがガメラに、ムートーはギャオスに見えてくる。惜しいのはゴジラがその正体を明らかにする見せ場がないこと。芹沢猪四郎博士(渡辺謙)がゴジラはムートーを退治するために出てきたとなんとなく説明するだけではもったいない。平成ガメラ1作目のあの吊り橋のシーン、中山忍たちを狙ってギャオスが吐いた光線をガメラが手でかばい、正体不明の怪獣から善の怪獣であることが初めて明らかになるシーンのように、ドラマティックな演出がほしいところなのだ。

 キャラクターの描き方の弱さは怪獣だけでなく、人間たちの描き方にも当てはまる。総じて平板であり、これがドラマの弱さにつながっている。もっと緩急とメリハリをつけたいところだ。

 このほか、ゴジラの吐く光線の威力がこれでは貧弱すぎるじゃないかとか、不満な点は多々あるものの、それを吹き飛ばすのがゴジラが大音量で咆哮する場面の迫力。もうこのシーンを見られただけでこの映画、プッシュしたくなる。第2作では細かな欠点を修正して、大迫力のゴジラを心から堪能させてほしいと切に願う。

2014/07/20(日)「私の男」

 熊切和嘉監督の前作「夏の終り」はドロドロした話なのに、画面にはドロドロさがまったくなかった。主演の満島ひかりが健康的すぎたためだろう。似合わない役柄だったのだ。きれいすぎる女優はリアルな役柄には向かないのではないかと思う。「私の男」の二階堂ふみは中学生から20代前半までを演じて、そのドロドロさを画面に充満させている。

 とはいっても、こちらが考えるドロドロさとは違う映画だった。おどろおどろしさもなければ、陰湿さもない。浅野忠信と二階堂ふみの濃厚な絡みの場面を見て、日活ロマンポルノや神代辰巳の映画のようになっていくのかと思ったら、そうはならず、映画は少女の成長と変貌に焦点を絞っていくのである。絡みの場面で血の雨を降らせる演出は画面のショッキングさとは裏腹にメタファーが分かりやすすぎて気恥ずかしい(後の殺害シーンで血しぶきを浴びる浅野忠信の場面と呼応している)し、映画は終盤、エピソードを大胆に省略・改変しているのだけれど、それでも話はつながるし、よく分かる。

 何よりもこの終盤は二階堂ふみの変貌に目を奪われるのだ。これは小説では表現しにくい、映画の利点と言える。二階堂ふみ、まったくうまいとしか言いようがない。幼虫から成虫になる過程を思わせる二階堂ふみの演技は映画の説得力を背負っており、モスクワ国際映画祭で浅野忠信が主演男優賞を取ったのは何かの勘違いとしか思えない(ニューヨーク・アジア映画祭で二階堂ふみはライジング・スター・アワードを受賞した)。

 映画には納得して深く感心したが、死体の処理を描かないのが気になって桜庭一樹の原作を読んだ。同じように気になった人のために書いておくと、死体はビニールのふとん収納袋に入れて密閉した上でふとんにくるみ、奥の四畳半の押し入れに入れてある。だから2人の住む古びたアパートには饐えた臭いがかすかに漂うことになっている。映画ではアパートの周囲と部屋の中にゴミ袋が散乱しているので死体をバラバラにしてゴミ袋に入れたのかと想像したが、何も処理していなかったわけだ。

 原作は映画のラストシーンから始まる。あの後の話(結婚式とそれ以降)を描いた後、第2章から原作は過去にさかのぼっていく。2008年現在から2005年、2000年7月、同1月、1996年を経て発端の1993年、北海道南西沖地震で津波に襲われた奥尻島へ。この時系列を逆にした構成が秀逸だし、細部の描写がいちいちうまい。直木賞受賞も当然の傑作だと思う。

 映画は原作の構成を捨て、物語を時系列に沿って語っている。冒頭の流氷の海から這い上がる主人公花(二階堂ふみ)の場面から津波で生き残った子供の頃へと画面が切り替わるジャンプショットを除けば、起きたことを順番に描いている。映画化の企画は多数あったそうだが、この単純とも言える構成が逆に幸いしたのではないか。

 良かれと思ってしたことが徒になって、流氷の上でなすすべもなく遠ざかっていく藤竜也。雪と氷に覆われたオホーツク海に臨む紋別の描写が魅力的だ。

2014/07/13(日)「渇き。」

 ロドリゲス&タランティーノの「グラインドハウス」のようなタイトル、「オールド・ボーイ」のような残虐性。殴られ蹴られ刺され撃たれる主人公(役所広司)の姿は肉体ばかりでなく、精神的にも壊れてきてかなり痛々しい。

 中島哲也監督の編集はいつものようにアップテンポで、3年前と現在を自在に描きながら、失踪した娘加奈子(小松菜奈)の実相と事件の真相を徐々に明らかにしていく。あまりのバイオレンス描写に思わず笑ってしまう場面もあるけれど、見終わって気分が晴れないのは「オールド・ボーイ」のような驚愕の真実があるわけではなく(こちらの想像の範囲を超えない)、刑事から落ちぶれてやさぐれた主人公の精神が病んでいるからだろう。

 というか、登場人物のほとんどがビョーキだ。異常な人物ばかり出てきて、感情移入できるキャラが見当たらない。叫び、喚き、傷つけ合い、殺し合う人間たちを見ていると、こちらの神経もささくれ立ってくる。この異様な世界の中では加奈子の実は真っ当な(そして単純な)動機の方にむしろ違和感が出てくる。

 救いのない話であることはかまわないが、カタルシスがないのは困ったもので、事件の真相が明らかになっても、主人公にとっては少しも終わらない話になっている。無間地獄のようなラスト。中島哲也の語り口はやや一本調子のきらいがあることを除けば今回も一流だと思う。それをもってしてもこの話では傑作になることは難しかったようだ。描写の過激さに比べてストーリーが弱い。

2014/07/06(日)「オール・ユー・ニード・イズ・キル」

 「目が覚めたら、私に会いに来て」(Come Find Me, When You Wake Up)

 オニヒトデのように多数の触手を持つウニのような形態の異星人ギタイとの戦闘で死ぬ前に、“戦場の牝犬(ビッチ)”と呼ばれるリタ・ヴラタスキ(エミリー・ブラント)が主人公のウィリアム・ケイジ(トム・クルーズ)に言う。ケイジは出撃初日の戦闘で死んだと思ったら前日に戻って目が覚め、また戦闘中に死んで前日に戻るというループを理由が分からないままに繰り返している。リタに会うことで、ループの理由を知り、ギタイを倒す方法を一緒に探ることになる。

 タイムループの話はケン・グリムウッドの名作「リプレイ」を嚆矢としていろいろな小説や映画が題材にしているが、これはその中でも上位に入る出来だ。ループものというより、死んだらリセットして最初から何度でもやり直せる点でゲームを思わせる。何十回も何百回も単純に繰り返すだけではない。ケイジはロールプレイングゲームのようにさまざまな違う選択を試し、その結果がどうなるのかを知り、経験を蓄積し、戦闘能力を高めていくのだ。

 ひいきのエミリー・ブラントが出ているのでつまらなくてもいいかと思って見たら、出来の良さに驚いた。ダグ・リーマン映画の中で最も面白い。工夫を凝らした脚本(クリストファー・マッカリー、ジェズ&ジョン=ヘンリー・バターワース)に感心させられた。といっても脚本の工夫なのか、桜坂洋のライトノベル「All You Need Is Kill」の通りなのか分からない。気になったのでので原作(Kindle版)を読んだ。

 原作の第2章にロールプレイングゲームという言葉が出てくるので桜坂洋もそれを意識したのだろう。そこを除けば、全体としてこの原作はロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」の影響下にある。「宇宙の戦士」を映画化した「スターシップ・トゥルーパーズ」とこの映画が似ているのはだから当然だ。「スターシップ…」の頃は技術的にまだパワード・スーツを描けなかったが、この映画がその鬱憤を晴らしたと言えるかもしれない。

 最初に書いたセリフ、ケイジがリプレイしていることを知ったリタのセリフは原作ではこうなる。「おまえ、いま……何周めなんだ?」。このセリフを見ても分かるように、映画の脚本は原作とは大きく異なる。設定だけを借りて、オリジナルのアイデアとエピソードをふんだんに盛り込み、映画向きに構成している。断言するが、映画の展開の方が原作よりも優れている。意外なのは脚本を担当した3人のこれまでの作品にはSFが1本もないこと。それなのにこうしたうまい脚本ができたのは物語を語る技術が確かだったからなのだろう。SFだろうが、ミステリだろうが、深刻なドラマだろうが、脚本が肝心なのである。

 こうした脚本のうまさとダグ・リーマンのスピーディーなアクション演出の巧みさ、ケイジとリタの関係の描き方、過不足のないVFXの技術が組み合わさったことが傑作となった要因だと思う。近年のSFアクション映画では出色の出来と言って良い。

 兵士が着る機動スーツは装備を含めると55キロもあったそうで、俳優たちは体を鍛えざるを得なかった。腕立て伏せをしている場面でのエミリー・ブラントの肩の筋肉の付き方と背中から足にかけてのまっすぐなラインがいかにも鍛えた体らしかったが、それはCGではなく撮影前の3カ月のトレーニングの成果のようだ。