2016/12/04(日)「永い言い訳」

 突然のバス転落事故で妻を亡くして泣く男と泣かない男。いや、泣けなかった男、それが主人公の衣笠幸夫(本木雅弘)だ。プロ野球広島カープの元選手・衣笠祥雄と同じ読みの名前を持つ主人公はそのために小さい頃から、からかわれてきた。津村啓というペンネームを持つ作家になったのは自分の名前を気に入っていなかったことが理由の一つだろう。

「永い言い訳」パンフレット

 映画は泣けない男がさまざまな出来事を経て本当の涙を流すまでを描く。それだけなら、話は単純だが、その後にもう一つの場面がある。主人公に作家という職業を設定した以上、これはあって当然の場面だ。事故のテレビ番組に主人公が出演する場面も含めて本物と偽物、真実と嘘という前々作の「ディア・ドクター」から連なるテーマが深化して受け継がれている。

 妻が事故に遭っている時に幸夫は愛人の福永智尋(黒木華)を自宅に招いていた。観客の共感を得にくい主人公と一筋縄ではいかないテーマを西川美和監督は描写の説得力でねじ伏せる。それが発揮されるのは泣く男、トラック運転手の大宮陽一(竹原ピストル)が登場してからだ。バス会社の事故説明会で陽一は「妻を返してくれよ」と直情型の叫びをあげる。幸夫とは対照的に妻の死に打ちのめされていて、事故直前に妻から携帯に入った留守電の録音を聞き返しながら、トラックの中でカップラーメンをすする姿が悲しい。

 陽一には小学6年生の真平(藤田健心)と保育園児の灯(あかり=白鳥玉季)という2人の子どもがいる。母親を亡くし、仕事で不在がちな父親の家で、喧嘩しながらも助け合い、けなげに生きる子ども2人の姿を見るだけで観客は映画の味方になるだろう。普通の監督なら、こっちをメインに描いたはずで、それはそれで感動的な映画に仕上がったかもしれない。

 幸夫の妻(深津絵里)と陽一の妻(堀内敬子)は親友で、一緒に旅行に行く途中、事故に遭った。陽一親子と食事を共にしたことから、幸夫は陽一の不在時に子どもの面倒を見ることを買って出る。「自分のようなつまらない、空っぽの男の遺伝子が受け継がれるなんて」と考えて幸夫は子どもを作らなかった。子どもたちと過ごすうちに、その考えが変わっていく。ただし、そんなに簡単に人の本質は変わらない。涙の後の場面はそれを示してもいる。

 監督は主人公に「『物語を作る者』という私の自己像にも似たモチーフ」を込めたという。子どもが絡む場面は観客を大いに引きつけるが、幸夫自身の話に関しては必ずしも成功しているとは言えない。それでも映画は直木賞候補になった監督自身の原作よりもはるかに充実している。細部の描写が西川美和のこれまでの作品よりも一段と優れているのだ。パンフレットによれば、原作は映画のためのウォーミングアップだったそうだ。原作に心を動かされなかった人も映画には納得するだろう。

 主演の本木雅弘はもちろん良いが、出番の少ない深津絵里と黒木華も好演している。黒木華がこんなに色っぽく撮られたのは初めてだ。西川美和の描写力は大したものだと思う。同時に残酷な人でもある。「バカな顔」「もう愛してない。ひとかけらも」などという毒のあるセリフは男の脚本家だったら、書かないのではないか。

2016/11/23(水)松山ケンイチがすごい「聖の青春」

 村山聖が初めて羽織袴で対局に臨んだのは谷川浩司との王将戦のはずで、4連敗して汗と涙でボロボロになった村山の姿をテレビ中継で見たのを覚えている。映画では羽生善治との対局に変えてある。同世代のライバルだった村山と羽生を中心に据えて話を構成するために映画にはいくらかのフィクションが交えてあって、エンドクレジットにもそう断り書きが出る。

「聖の青春」パンフレット

 中盤、対局後に村山が羽生を誘って大衆食堂に飲みに行くシーンもフィクションだ。クライマックスの対局につながる重要な場面だが、困ったことにここでの2人のセリフに説得力がない。趣味での共通点がない2人は将棋の勝負に関しては共通の思いを持っており、心を通わせることになるのだが、「羽生さんは僕らとは違った海を見ている」「一度でいいから女の人を抱いてみたい」というセリフなど、いかにも作り物なのだ。向井康介の脚本は健闘しているのだけれど、映画が松山ケンイチの大変な好演をもってしても、胸を張って傑作と言えるまでになっていないのは脚本に説得力を欠く部分があるからだ。

 「体調悪いんか?」と荒崎学(柄本時生)に聞かれた村山は「体調いい時なんかないんですよ」と答える。村山は幼い頃から腎ネフローゼと闘ってきた。念願のプロ棋士になっても、フラフラになりながら将棋会館に向かい、将棋を指すことになる。役のために体重を20キロ増やした松山ケンイチはそんな村山をリアルに演じきっている。風貌を似せるだけでなく、たたずまいだけで村山そのものになっているのは精神的なアプローチが成功しているからだろう。憑依型、なりきり型の演技であり、村山の将棋への思いと「僕には時間がないんや」という切実な生き方まで取り込んで、キャラクターに厚みを持たせている。羽生を演じる東出昌大が羽生の外見と仕草をいくら似せても、表面だけの薄っぺらな感じにしかならず、生きたキャラクターになっていないのとは対照的だ。松山ケンイチ、凄すぎる。

 この2人の演技を見ていると、モデルの人物に外見を似せることが演技の決定的な要素ではないことがよく分かる。観客にモデルとなった人物との違和感を持たせないために、そして役者自身がモデルの人物にアプローチするために外見を似せることはある程度必要ではあるのだろうが、本当に求められるのはそこから先の部分だ。東出昌大を擁護しておくと、この映画の羽生の役柄には演技のしどころがない。名人を含めて7冠を達成し、女優の奥さんと結婚までしている羽生は何も持たない村山にとって完璧な人物だ。普通の映画であれば、こうした完璧な人物の性格的な欠点であるとか、主人公に対するなんらかの負の部分を設定するところだが、実在の人物なのでそれができない。だからここでの羽生は完璧という記号の存在でしかない。

 師匠の森信雄(リリー・フランキー)との強い絆を中心に据えた大崎善生の原作とは変えて、村山と羽生の2人を中心に描く構成が成功しているとは言えないのだが、それでも村山聖の描き方に不満はない。「終盤は村山に聞け」と言われた村山を象徴するエピソードがある。控え室で対局の検討をしている棋士たちが村山に「どうやったら詰むの?」と聞いたのに対して村山は「どうやったら詰まないの」と返すのだ(原作にあったのかどうか忘れたが、村山の答えは「どうやったら詰まないんですかっ」だったと思う)。

 病気がなかったら、村山は「名人になりたい」という願いを達成したかもしれない。しかし病気がなければ、入院中に将棋に出合うこともなかった。こうしたジレンマよくあるし、深刻なものでなくても人は何らかのハンディやコンプレックスを抱えているものだ。志半ばで29歳で亡くなった村山に強い共感の念を覚えるのは村山がそうした弱さを抱えているからであり、「敗れざる者たち」というフレーズを思い浮かべずにはいられない。

 WOWOWの「映画工房」にゲスト出演した森義隆監督によると、クライマックスの対局で村山が締めているネクタイと羽生が掛けている眼鏡はどちらも本物だそうだ。この場面、2人に全部の棋譜を覚えてもらい、2時間半かけて実際に指して対局を再現したのだという。

 原作の感想は1999年にReading Diary, Maybeに書いた。

2016/10/19(水)「GANTZ:O」 熱狂的な支持も納得

 「あんなぁ……こーゆーときは嘘でも、頷いとくもんやって」。「おたがい、死なれへん言うたやろ、待ってる人がおるんやろ」。「君を死なせへんっ」。「あのバカ、偽善者全開や」。関西弁の山咲杏(M・A・O)が映画の大きな魅力の一つであることは明らかだ。23歳で3歳の子どもを持つ杏は死んでGANTZに召還される。大阪の街で17歳の高校生・加藤勝(小野大輔)と出会い、老夫婦と孫を助けようとする加藤の真っ直ぐな行動を見て「偽善者星人や」と、からかいながらも、惹かれていくのだ。そして「生きて帰ったら、(息子と加藤の弟と)4人で暮らそう」と無理矢理、加藤に約束させる。

「GANTZ:O」パンフレット

 妖怪型星人が跋扈する大阪でのすさまじい戦闘を描く96分。最初はのっぺりした顔のCGキャラにうーんと思いながらも、脚本の出来は悪くなく、アクションに次ぐアクションに徹した展開を一気に見せる演出も水準をクリアしている。続編もありだろうと思った。

 奥浩哉原作の「GATNZ」(全37巻)で最も評価が高いという「大阪編」の3DCGアニメ化。原作は佐藤信介監督の実写版「GANTZ」と「GANTZ Perfect Answer」(2010年と2011年)が公開された際に5巻ぐらいまで読んだ。大阪編に関してはまったく知らなかったが、「大阪編」を知らなくても、「GANTZ」自体に触れたことがなくても、この映画を見るのに支障はない。これはこれで完結した話になっている。

 加藤は地下鉄のホームで通り魔に刺され、気づいたらマンションの一室にいた。GANTZと呼ばれる黒い球体の指示でわけが分からないまま、大阪に転送され、そこで妖怪型宇宙人たちと戦う羽目になる。東京チームの仲間はアイドルのレイカ(早見沙織)、おっさんの鈴木(池田秀一)、中学生の西(郭智博)の3人。宇宙人を倒せば、点数を与えられ、合計100点になれば、より強い武器をもらうか、死んだ人間を生き返らせるか、記憶を消されて元の生活に戻るかを選択できる。戦いのまっただ中に送られた加藤はたった一人の家族である小学生の弟・歩(森尾俐仁)のために「必ず、生きて帰る」と決意する。

 チームに与えられたのは撃って数秒後に爆発するX-GUN。お歯黒べったりや、一本だたらなどX-GUNですぐに倒せる相手から始まって、次々に登場する妖怪型星人の強さは徐々にパワーアップしていく。巨大な牛鬼やX-GUNの効かない天狗、そして大ボスのぬらりひょん。ゲームを何度もクリアしている凄腕の大阪チームのメンバーも一人また一人と倒されていくほど強い。特にぬらりひょん。次々に形態を変え、つかみどころがない。どうやって倒すかがポイントになるが、ここはもう少し工夫があると良かったと思う。それ以外はまず満足できる出来で、大阪チームの凄腕2人を演じるレイザーラモンHG&RGやケンドーコバヤシら意外な声優陣の頑張りがCGキャラにリアリティーを与えている。

 ハリウッド製の3DCGは興業面を意識するためか、ヒューマンなファミリー映画が多いが、これはPG-12ぎりぎりの描写で若い世代にアピールしている。熱狂的な支持が多いのもうなずける。ただ、個人的には表情の乏しいCGキャラよりも生身の俳優が演じた方がしっくりくる。「ジャングル・ブック」のように主人公以外はすべてCGという映画もできるのだから、日本映画でも考えてほしいところだ。

2016/09/20(火)「怒り」 今年のベストを争う作品

 東京・八王子の夫婦が自宅で惨殺され、現場に大きな血文字の「怒」が残されていた。という発端から映画は東京、千葉、沖縄に現れた殺人犯かもしれない3人の男とその周辺の人々のドラマを描く。映画の主眼はだれが犯人かということではなく、周辺の人々の心の揺れ動きの方にある。

 これは吉田修一の原作でもそうだ。個人的に深い感銘を受けた原作を同じ吉田修一原作の「悪人」に続いて李相日監督が映画化すると聞いて大いに期待した。期待はまったく裏切られなかった。見ながら、いくつかの場面で胸が熱くなる。登場人物たちの慟哭、後悔、悲しみ、やりきれなさが胸に迫ってくるのだ。多くの登場人物たちのさまざまな感情の渦に巻き込まれたよう。見事な脚本と編集とリアルな絵づくりと俳優のリアルな演技に坂本龍一の美しい音楽が加わって、ケタ違いに充実した映画になった。今年のベストを争う作品であることは間違いない。

「怒り」パンフレット

 八王子の事件から1年後、沖縄の無人島に現れた男(森山未來)は田中と名乗る。高校生の小宮山泉(広瀬すず)は同級生の知念辰哉(佐久本宝)のボートで島に遊びに行き、田中と出会う。どこか田中のことが気になった泉は交流を深めるようになる。東京で藤田優馬(妻夫木聡)はゲイのパーティーで大西直人(綾野剛)と出会い、お互いに惹かれ合って一緒に暮らすようになる。直人は自分のことを一切語らなかった。千葉の漁港で働く槙洋平(渡辺謙)は娘の愛子(宮崎あおい)を歌舞伎町の風俗店から連れ戻す。槙の下では3カ月前にやってきた田代哲也(松山ケンイチ)が働いていた。コンビニ弁当を食べている田代を見て、愛子は弁当を作るようになる。やがて愛子は田代と一緒に住みたいと言い出す。

 3つの場所で進行する物語が交錯することはない。素性不明の3人の男と関わる人々の姿がそれぞれに描かれていく。凡庸な監督が撮ったら、エピソードの羅列に終わっただろうが、李相日監督は沖縄から東京、東京から千葉へと転換する場面でフラッシュフォワードを使ったり、エピソードに軽い関連を持たせ、エモーションをうまく持続させている。

 渡辺謙も宮崎あおいも松山ケンイチも妻夫木聡も綾野剛も広瀬すずも森山未來も、それぞれが1人で主演を張れる俳優。それが束になって出てくるのだから、画面の厚みがただごとではない。松山ケンイチと綾野剛に関しては受けの役柄のため演技の見せ場がないのだけれど、それでもこの2人が演じることによる効果は大きい。最も儲け役なのは宮崎あおいで、予告編を見た時からうまいと思ったが、「少し人とは違う」女を演じきっている。これで女優として大きく成長したのではないか。それはアイドル女優だったらやらないような難しい役を演じる広瀬すずにも言えることで、試写を見た事務所の社長が「いい映画になって良かった」と涙ぐんだ(キネ旬2016年9月下旬号)というのもよく分かる。

 空撮を交えた笠松則通の撮影も見事。どの場面もないがしろにしないという強い意志が伝わってくる。隙がない映画というのはなかなかないし、原作を無茶苦茶にする映画も多いのだが、李相日が書いた脚本は原作のエピソードを削りながら、そのエッセンスは少しも損なわれていず、驚くほど原作に忠実なイメージになっている。ストーリーを知っていても圧倒されるのは画面と脚本の構成、出演者の演技が高いレベルにあるからだろう。上映時間2時間22分。それでも短い。3時間でも4時間でも見ていたくなる。

2016/07/31(日)「シン・ゴジラ」 日本映画の総力戦

「シン・ゴジラ」パンフレット

 総監督を務めた庵野秀明の代表作は言うまでもなく「新世紀エヴァンゲリオン」だが、「エヴァ」はこの映画を作るための習作だったのではないかとさえ思えてくる。「シン・ゴジラ」はそれぐらいの傑作だ。第3新東京市に使徒が攻めてくる「エヴァ」に対して、「シン・ゴジラ」では現実の東京をゴジラが襲う。現実の東京にはエヴァのような兵器もNERV(ネルフ)という特務機関もないから、自衛隊と新設された巨大不明生物特設災害対策本部(略称:巨災対)が人知を尽くしてゴジラに対抗することになる。その過程を映画は緊張感たっぷりに描いていく。

 鷺巣詩郎の音楽をはじめとして「エヴァ」との類似点・共通点は随所に見られるが、映画を見ながらもう一つ思い浮かべたのは押井守「機動警察パトレイバー2」。“TOKYOウォーズ”がキーワードだったあの傑作にはテロ対策のために警察庁の面々が議論する場面があった。この映画の序盤も内閣の対策会議が中心になる。首都東京壊滅の危機をどう救うのか。早口の大量のセリフと短いカット割りが映画のテンポを速め、緊張感を高めていく。この政府と避難民の描写は巷間よく言われるようにゴジラによる災厄を3.11のような巨大災害になぞらえているのだが、しかし、それ以上に重要なのはゴジラという存在を定義し直したことだ。

 庵野秀明は核兵器や放射能というゴジラとは切っても切れない基本ポイントと外見をほぼ受け継ぎながらも、まったく新しいゴジラを定義した。「ゴジラ」第1作のゴジラは水爆実験によって生まれた怪獣だが、「シン・ゴジラ」では放射性廃棄物を食らって誕生した設定になっている。迫り来る核兵器の時代と核エネルギーの時代の違いを踏まえて、これは小さいようで大きな変更点だ。ゴジラに対して通常兵器ではまったく歯が立たないことに加え、その生態を調べた巨災対によって、ゴジラが単為生殖で増殖する可能性があることが分かる。東京という一地域および日本だけの問題ではなく、これは地球全体にとって未曾有の危機だ。怪獣が一地域に被害をもたらしているという単純な状況ではないのである。

 だから、後半、ゴジラ殲滅のために国連による核兵器使用のカウントダウンという大きな危機を迎えることになる。「核兵器使用を許せば、廃墟からの復興に各国の支援が得られる」との思惑を持つ政府上層部に対して、「日本で3度目の核兵器を使わせるな」と懸命に作業を進める巨災対メンバー。その思いは声高ではないからこそ、こちらの胸に響く。

 中盤にあるゴジラが初めて光線を吐くシーンは見事と言うほかない。「ガメラ2 レギオン襲来」で草体の爆発が仙台市を消滅させたように東京の3区が一瞬にして消滅する。ゴジラの吐く光線のとんでもない破壊力は樋口真嗣が特技監督を務めた平成ガメラ3部作を明らかに継承して発展させたものだ。ギャレス・エドワーズ版「Godzilla ゴジラ」はその平成ガメラの設定を無断借用した映画としか思えず、怪獣映画・SF映画ファンの目から見て新しい部分などほとんどなかった。過去の作品を寄せ集めて攪拌し、VFXで見栄えを良くしただけの作品だった。「シン・ゴジラ」の作りの新しさは今後、怪獣映画に求められる水準を数段階押し上げることになるだろう。

 長谷川博己や竹野内豊、石原さとみなどの主要キャストのほかに、多くの名のある俳優たちがセリフを一言吐いてさっと消えてゆく。300人以上に及ぶというキャストの豪華さにも驚く。「シン・ゴジラ」は庵野秀明という一人の作家の創造力だけに依って建つ作品では決してない。日本映画の伝統と現在の技術を結集させた総力戦の結果生まれた作品なのだ。