2006/06/20(火)「神々の深き欲望」

 今村昇平監督の1968年の作品(キネ旬ベストテン1位)。前回見たのはビデオで20年近く前だった。その時ほどの驚きはないが、土着的な生と性を突き詰めると、こういう神話的な世界になるのだなと思う。「楢山節考」もこの路線の映画である。映画のラストはホラー映画だったら、ここからクライマックスになるところ。当然そうはならず、幻想的な雰囲気を残して映画は終わる。

 出演者の名前に長谷川和彦があったので目を凝らしてみたが、分からず。夜ばいをする青年役らしい。長髪にサングラスじゃないと、分かりませんね。

2006/06/18(日)「グッドナイト&グッドラック」

 「グッドナイト&グッドラック」パンフレットアカデミー賞6部門ノミネート。1部門も取れなかったが、ジョージ・クルーニーの「シリアナ」での助演男優賞受賞はこれとの合わせ技と考えていいのかもしれない。最初と最後のエド・マローの演説は感動的で、マローがテレビに対して希望を捨てていないのがよく分かる。「テレビは人間を教育し、啓発し、情熱を与える可能性を秘めている。だが、それはあくまでも使い手の自覚次第だ。そうでなければ、テレビはメカの詰まった“ただの箱”だ」。この映画もまたマローの言葉に沿うようにただの娯楽作品ではない。安っぽいヒロイズムやエモーションとは無縁の堅い演出で、圧力をはねのけてジョゼフ・マッカーシー上院議員を批判する番組を作るマローとそのスタッフの姿を真摯に描き出す。マッカーシーの赤狩りは恐怖政治と同じことで、刃向かえば自分の身に火の粉が降りかかかる。それに立ち向かう勇気の必要さを映画を訴えており、いつの時代にも通用する話である。マローを演じるデヴィッド・ストラザーンの厳しい硬質の演技に感心するが、それ以上にこれはクルーニーのスタンスをはっきりさせている映画だと思う。「シリアナ」とこれでクルーニーはハリウッドの良心を一人で背負って見せた。クルーニーはアメリカの自由を信じているのだろう。

 パンフレットによれば、赤狩りは「時代と偶然が生んだデマゴーグ」という。共産主義への恐怖が広がっていた時代の潮流にマッカーシーは運良く乗った。実際には下品で知性も持ち合わせていなかったようだが、そんな人間でも時代によっては社会の中心になってしまうことがあるのだ。とりあえず反共は当時のアメリカでは正義だったろうし、共産主義への支持は悪とされる雰囲気が一気に広まっていった。CBSの報道番組「シー・イット・ナウ」のキャスターを務めていたマローはそんな中で地方紙の小さな記事に目を留める。空軍予備役士官のマイロ・ラドロヴィッチの家族が共産主義であることを疑われ、除隊処分にされかけているという記事。マローとプロデューサーのフレッド・フレンドリー(ジョージ・クルーニー)はこの事件を番組で取り上げ、真相は分からないのに、なぜ除隊処分になるのかと、マローは番組で呼びかける。これがマッカーシーとの戦いの始まり。マッカーシー側も反撃に出て番組スタッフにはさまざまな圧力がかかってくる。

 デマゴーグを排除するのにジャーナリズムは知性と勇気で立ち向かう。そうとらえてもいいのだろうが、もっとこの映画は広い範囲を見つめているように思う。勇気と知性の重要さは何もジャーナリストだけには限らない。僕らはついつい権力者の言うことに流されてしまうけれども、マローやフレンドリーのように一人ひとりが物事の本質を見抜く能力を持たなくてはならないのだろう。デマであっても世間を席捲すれば、実際に被害は起きる。ハリウッドでも犠牲者が出た。僕はこの映画で初めてマッカーシーの映像を見た。マッカーシー役に既存の俳優を使わなかったことは正解で、それに合わせたモノクロームの映像がドキュメントタッチの効果を上げている。

 先に挙げたマローの演説はジャーナリズムが世間に迎合することを戒めた言葉でもある。安い製作費で視聴率が取れるクイズ番組をCBS上層部は「シー・イット・ナウ」の代わりに放送することにする。報道機関にいる人間がすべてジャーナリストではない。ジャーナリストは外ばかりでなく、内でも戦わなければならない。これまた世間一般の組織にも当てはまることだろう。

2006/06/17(土)「昭和のまぼろし 本音を申せば」

 「昭和のまぼろし 本音を申せば」表紙週刊文春に連載されている小林信彦のエッセイをまとめた8冊目の本。自宅に帰ったら、届いていたので読む。疲れていたので読み始めてしばらく寝てしまい、起きてまた読み、実家に行って酒を飲んだ後も読み、帰ってまた読んで読み終えた。小説はなかなか読み終わらないのにこういうエッセイはすらすら読める。というか、小林信彦の本は好きなので、読めるのだ。

 毎回感じることだが、論旨のはっきりしている文章を読むとほっとする。この本の中にも「今のような異常な時代になると、<意見がブレない>ことが何よりも大切だと思う。田中知事には日常の別の戦いがあり、麻木久仁子は家庭・子供を守るという立脚点がある。二人とも、外からの強風によって<ブレない>信用があるのだ」(105ページ)とある。

 小泉首相批判は以前から徹底していて、「小泉なにがしという小派閥の手代がヒトラーまがいの暴政で国民を苦しめる」(109ページ)という表現がある。今の日本が完璧に戦前の雰囲気になったのは間違いないようだ。小泉首相もあと少しの任期だが、その後が問題。今より良くなるか悪くなるか。一番人気の人ではたぶん悪くなる方に行きそうな気がする。

 映画に関しては「ビヨンドtheシー」「ミリオンダラー・ベイビー」「スター・ウォーズ シスの復讐」「奥様は魔女」「タッチ」などに触れてある。「タッチ」の長澤まさみについて、はっきりスター性があると書いている。スターというのはあくまでも主役を張れる俳優のことで、演技はうまくてもどこまでいっても脇役でしかない俳優がほとんどなのだ。

2006/06/11(日)「鴛鴦歌合戦」

 1939年のマキノ正博監督作品。戦前のキネ旬はこうした娯楽映画をまったく評価していないのでベストテンには入っていない。「日本映画作品全集」も見たが、触れられていない。1980年代に再発見されて評価が高まったという。いわゆるカルト的な作品なのだろう。

 「僕は若い殿様~」とディック・ミネのバカ殿様が登場するところからおかしく、登場人物が次々に突然歌い始める唖然とする映画。志村喬と片岡千恵蔵も歌う。これまた女優陣が総じて良く、好感の持てる作品だった。しかし、睡魔が襲ってきた。ところどころでうつらうつらとしながら見たのが残念。何度かBSで放送されたらしいし、DVDも出ている。見直してみたい。

2006/06/11(日)「間宮兄弟」

 兄弟の小さな失恋を除けば、事件らしい事件も起きない映画だが、微妙なおかしさがいい。過去の森田芳光映画の中では「の・ようなもの」に一番近い。沢尻エリカと北川景子の姉妹をとてもキュートに撮っているのはさすが森田監督。特に北川景子は、美穂純に似た感じがとてもよろしい(美穂純はああ見えて、とても読書家なところに僕は好感を持っている)。

 戸田菜穂と常盤貴子も良く、女優に関しては文句がない。出来としては「の・ようなもの」の方が上と感じるのは間宮兄弟の描写にやや人工的な部分があるからか。「の・ようなもの」は主演の伊藤克信の素のおかしさが映画にマッチしていたが、この映画の場合、佐々木蔵之介と塚地武雅はやや作った部分が見受けられるのだ。でも、僕は好感を持った。

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