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2008年02月23日の記事

2008/02/23(土)「ラスト、コーション」

 「ラスト、コーション」パンフレットくるくる回る風車が印象に残る。ラスト近く、主人公のワン・チアチー(タン・ウェイ)が乗る人力車(自転車タクシー)に付いた風車。自転車をこぐ男も底抜けに明るい笑顔を見せる。これが印象的なのはそういう無邪気なものをチアチーが失ってしまっているからだ。そして、通りを封鎖され、マンションに帰ることができなくなったチアチーは覚悟を決める…。4年前の1938年、香港で学生生活を送っていたチアチーは抗日の演劇が喝采を浴びたのに気をよくした仲間たちとともに、卑劣な売国奴の暗殺計画を立てる。演劇だけではなく、それを実行に移そうという軽い乗りの計画はしかし、手痛いしっぺ返しを食うことになった。なかなか死なない男をめった刺しにする中盤の長く凄惨な殺人シーンが強烈だ。ここでチアチーたちは何か大事なものをなくしてしまった。青春時代に別れを告げることになったのだ。

 通過儀礼というにはあまりにショッキングな出来事。後半のハードコアな描写に気を取られがちだが、この映画、前半に青春時代の愚かな行動と挫折を描き、それで映画全体を包み込んでいる。自分たちの存在価値を守ろうとして、あるいはかつて失ったものを取り戻そうとして再び暗殺を企てる仲間たちの中で一人、チアチーだけは暗殺対象のイー(トニー・レオン)との性愛に溺れていく。いや、別の価値観を知ると言った方がいいかもしれない。アン・リー監督はそうした枠組みの中で男女の性愛を活写し、死とエロスをテーマにした作品に仕上げた。チアチーと仲間たち、孤独なイーのラストの姿にはそれぞれに時代に翻弄された人間たちの悲哀がにじみ出る。ヴェネツィア映画祭金獅子賞は当然の結果だろう。

 ここまで書いて、アイリーン・チャンの原作「色・戒」を読んだ。文庫本で43ページと短く、エロスを強調したものではない。「欲情を戒める」というタイトルはイーの立場を表したものである。映画はほぼ同じプロットながら、チアチーの立場で物語が進行する。原作でイーとの性交渉についてチアチーはこう振り返っている。

 「易(イー)と一緒に過ごしたあの二回は、びくびくし通しで、気を抜くどころではなく、どういう感覚なのかと自分に問いかける余裕さえもなかった」

 映画とは随分違う。性愛に目覚めるどころではなく、舞台の延長でチアチーはずっと緊張したまま演技しているのだ。しかし、映画同様に原作のチアチーはイーへの愛を突然自覚し、「早く行って」(映画の字幕では「逃げて」)とイーを助けてしまう。

 「この人は本当に私を愛している。いきなりそう思った。すると激しい炸裂音が胸の中で起こり、何かを失ってしまったように感じた」

 この失ったものを丁寧に描いたのが映画なのだと思う。ワン・フィリンとジェイムズ・シェイマスの脚本(当然のことながら、アン・リーの意見が取り入れられているだろう)は原作の細部を膨らませ、豊かで激しい情感を加えて素晴らしいというほかない。原作に殺人場面はなく、クァン・ユイミン(ワン・リーホン)へのチアチーのほのかな恋心にも描写を割いてはいないのだ。何よりも映画が物語を青春の喪失の観点から組み立て直したのは卓見と言うべきだろう。前半の遊びの延長のような甘い暗殺計画と後半の命をかけた暗殺計画が見事な対となっている。

 中国の現代史を知らないと、分かりにくい部分があり、僕は映画を見た時点ではイーのキャラクターに疑問を持った。卑劣な売国奴があんな風にクールでカッコイイか。パンフレットと原作を読んで、イーが日本の傀儡政権である汪精衛(ワン・ジンウェイ)率いる南京国民政府の諜報機関のトップであり、蒋介石の国民党と対立していた時代背景を知って、こういうキャラクターなのにも納得できた。

 驚くほどの美人とは思えなかったタン・ウェイは映画が進むにつれて魅力を増していく。アレクサンドル・デスプラの哀切な音楽も心に残った。「ブロークバック・マウンテン」をはるかに超えてアン・リーのベストだと思う。

 蛇足的に付け加えると、映画は後半だけだったら、色仕掛けで近づいた敵の男を愛してしまうという「ブラックブック」と同じ趣向の作品になっていただろう。その「ブラックブック」の監督ポール・バーホーベンはヴェネツィア映画祭の審査員を務めていたそうで、そうなったら、バーホーベン、金獅子賞には反対していたのではないか。