2017/03/01(水)「ラ・ラ・ランド」

 「僕にとって重要なのは、夢を追う者たちの映画を作ることだった。大きな夢を持つふたり。その夢が彼らを突き動かし、彼らを一緒にし、そして別れさせもするんだ」

 デイミアン・チャゼル監督はインタビューでそう語っている。タイトルの「ラ・ラ・ランド」はロサンゼルス、あるいは夢の国を意味する。映画はそのタイトル通りの内容で、歌と踊りを交えながら夢を追う若い2人のドラマを描いていく。そしてこちらの感情をグラグラ揺さぶるのは歌や踊りのシーンではなく、この核となっているドラマの方だ。夢だけではなく、現実の厳しさを併せ持った大人視線のドラマが素晴らしいからこそ、この映画は多くの観客の支持を集めて成功したのだと思う。

「ラ・ラ・ランド」パンフレット

 冬から冬までの物語(その後にエピローグと言うべきエピソードがある)。冒頭、ロサンゼルスのフリーウェイで渋滞した車のドライバーたちが次々に外に出て歌い踊り始める。曲はリズミカルな「アナザー・デイ・オブ・サン」。カットを割らずに踊り手にクローズアップしたり、クレーンを使ったりして、ワンカットで描かれる楽しくて躍動的なオープニングだ。この渋滞の中にミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)がいて、2人は最良とは言えない出会いをする。ミアは女優を夢見て、カフェで働きながらオーディションを受け続けている。セブは自分の店を持つのが夢のジャズピアニスト。2人の境遇を描く冬のパートに続いて、春のパートがa-haの「テイク・オン・ミー」のメロディーで始まる。

 3度目の出会いをした2人の間には恋が芽生え、夏のパートでそれが燃え上がる。ロスの夜景が美しい高台で2人がタップダンスを踊る「ア・ラブリー・ナイト」はロマンティックでキュート、とても愛らしく微笑ましい。歌と踊りのベストシーンだ。セブは知人のミュージシャン、キース(ジョン・レジェンド)に誘われ、バンドのキーボードを担当することになる。ジャズではないので望まない仕事だったが、ミアとの将来を考えた上での決断だった。

 そして秋(Autumnではなく、Fall)。バンドが売れて忙しくなったセブと、ミアはすれ違いが多くなる。夢を捨てたかのように見えるセブに対して、ミアは怒りをぶつけてしまう。オーディションを落ち続けていたミアは2次のオーディションに進むが、演技をする間もなく簡単に落とされる。ちょっと抵抗しそうになって考え直し、「ありがとう、楽しかったわ」と礼を言うミアの姿が切ない。ここからの展開に胸を打たれた。この後、ミアには残酷で大変な失意のシーンがあるが、ミアはセブの励ましでそれを乗り越えていくのだ。

 主演のエマ・ストーンは15歳からオーディションを受け続けてきたので、この役に共感する部分が多かったという。だから「オーディション(ザ・フールズ・フー・ドリーム)」を熱唱する場面が胸に迫る。それはゴズリングにも監督にも共通することなのではないか。周知の通り、デイミアン・チャゼルは最初にこの映画を撮りたかったが、新人にこれだけの予算を任せる映画会社はなく、自分の実力を証明するために低予算の「セッション」を撮った。その「セッション」、一般的な評価は高かったが、あまりにも主演2人のキャラがバカすぎて僕は褒める気にならなかった。なぜああいう映画になったのか、今にして分かる。チャゼルは2作目と同じ作品になることを避けるために、自分が本当に撮りたかったものを省いて物語を作ったのだろう。「セッション」もまた自分の夢を実現したい男2人の映画ではあったのだ。

 「ラ・ラ・ランド」は何よりもまず今現在、夢に向かって苦闘している人たちへの応援歌になるだろう。そしてかつて夢を追ったことのある人たちもまた熱い共感を持ってこの映画を受け止めるに違いない。すべてがうまく行くわけではないビターな結末だが、これもまたハッピーエンドなのだ。アカデミー賞では監督、主演女優、作曲、歌曲、美術、撮影の6部門を受賞した。

2016/12/20(火)「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」

 帝国に対するスパイ行為や暗殺などの汚い仕事をこなしてきた“ならず者”たちが、主人公ジン・アーソ(フェリシティ・ジョーンズ)の言葉に賛同してデス・スターの設計図を盗む作戦に参加する。こういうプロットであるなら、エクスペンダブルのような扱いを受けてきたならず者チーム(ローグ・ワン)の悲哀を描くのが冒険小説や映画の常道だ。ところが、この映画にはそういう部分がほとんどない。「スター・ウォーズ」のスピンオフという性格上、本編とあまりにかけ離れた描き方をするわけにもいかないのだろうが、主人公とならず者たちのドラマがもっと欲しくなってくる。ギャレス・エドワーズ監督は「GODZILLA ゴジラ」もそうだったが、VFXの使い方など見せる技術は水準以上にあっても、ドラマを盛り上げる力には欠けている。ローグ・ワンたちの運命は悲劇的なのに、それが十分に機能していないのが残念だ。

「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」パンフレット

 それでも終盤、「エピソード4 新たなる希望」(1977年)につながる話になってくると、こちらの気分は高まってくる。なにしろ「新たなる希望」の冒頭、レイアの乗った宇宙船がダース・ベイダーの乗るスター・デストロイヤーに捕捉される場面の直前までを描いているのだ。2つの月が昇る惑星タトゥイーンの場面で終わる「エピソード3 シスの復讐」(2005年)を見た時、「(スター・ウォーズは)28年かかって見事に円環を閉じた」と感じた。この映画にも同じような感慨を持った。いつものジョン・ウィリアムズではなくマイケル・ジアッキーノが担当した音楽は「スター・ウォーズ」のテーマとは少し異なるメロディーで始まり、エンドクレジットで「スター・ウォーズ」そのものになる。「スター・ウォーズ」の正史から弾かれた外伝として始まった物語はここでプリクエルに昇格するのだ。

 ジンの父ゲイレン(マッツ・ミケルセン)は優秀な科学者で、デス・スターを完成させるために帝国に連れ去られる。母ライラ(ヴァレン・ケイン)はこの時、殺された。ジンは反乱軍の過激派ソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)に助けられる。数年後、成長したジンは反乱軍から、父親がデス・スター建造の中心人物であると知らされる。ジンは父の汚名を晴らすため情報将校のキャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)、盲目の僧侶チアルート・イムウェ(ドニー・イェン)、その親友のベイズ・マルバス(チアン・ウェン)、ロボットのK-2SOらとともにデス・スターの設計図がある惑星スカリフに向かう。

 驚いたのはモフ・ターキンが出てくること。「新たなる希望」でデス・スターとともに死んだターキンを演じたのは1994年に亡くなった名優ピーター・カッシング。この映画に出てくるターキンを演じたのはガイ・ヘンリーという俳優だが、カッシングにそっくり、というよりカッシングそのものだ。イングヴィルド・デイラというノルウェーの女優が演じるあのキャラクターもそっくり。どちらもメイクアップだけではなく、CG処理を加えているのだろう。

 ダース・ベイダーももちろん登場して反乱軍の兵士をライトセイバーとフォースでバタバタと倒し、圧倒的な強さを見せつける。声は以前と同じくジェームズ・アール・ジョーンズだが、少しニュアンスが異なっている感じ。動きも若々しい。やはり「スター・ウォーズ」にはダース・ベイダーが出てこないと話にならないなと思う。

2016/11/20(日)「白鯨との闘い」の本筋

 なぜ今ごろ、「白鯨」のような話を映画化するのか疑問で、劇場公開時には見逃した。Netflixで見て後半の展開に驚いた。なるほど、こちらが本筋なのか。

 ナサニエル・フィルブリックのノンフィクション「復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇」をロン・ハワード監督が映画化。2003年に邦訳された原作は映画公開に合わせて昨年、「白鯨との闘い」のタイトルで集英社文庫に入った。映画はハーマン・メルヴィルが新作を書くためにかつての捕鯨船乗組員に話を聞くという設定で始まる。新作とはもちろん「白鯨」のことだが、フィルブリックの原作はマッコウクジラによって船を壊された乗組員の漂流がメインのようで、白いクジラを出したのは映画の脚色らしい。原題はIn the Heart of The Sea。

 前半は邦題通りに、“海の悪魔”と言われる白鯨との闘いが描かれるが、後半は一転、乗組員たちの過酷な漂流の話になる。「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」が比喩的に描いたカニバリズムの話も出てくる。飢えと渇きと疲労で衰弱しきった乗組員たちがくじ引きで誰を食料にするかを決める場面があるのだ。しかし、さすがロン・ハワード、キワモノにはしていない。ハワードは古き良きハリウッド映画の伝統を守り抜いている監督なので、感動的な決着を用意している。夫の悲惨な漂流の実際を初めて知った妻が「それを知っていても私はあなたのそばにいたわ」と話す場面など、ハワードらしい在り方だ。

 僕はハワードの直球ど真ん中という演出が好きなのだが、この映画、アメリカでは評価が高くない。ロッテン・トマトで肯定的評価は43%、IMDbの採点は6.9。後半のダークな部分が受けなかったのかもしれない。主演はハワードの前作「ラッシュ プライドと友情」に続いてクリス・ヘムズワース。

2016/11/13(日)「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」 主張備えたエンタテインメント

 ダルトン・トランボの名前を知ったのは監督作の「ジョニーは戦場へ行った」(1971年)が公開された時。当時はドルトン・トランボという表記だった。赤狩りによって投獄された“ハリウッド・テン”の一人であり、「ローマの休日」を匿名で書いた脚本家であることはその頃、既に知られていた。終戦後、脚本家として活躍していたトランボ(ブライアン・クランストン)は非米活動委員会に召還され、証言を拒否したために投獄される。映画はそこから復権までの道のりを仲間や家族の描写を織り込みながら描いていく。監督のジェイ・ローチはこれまでコメディの多かった人。それが功を奏したのか、ガチガチの社会派映画にはせず、きっちりと主張を備えたエンタテインメントに仕上げた。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」パンフレット

 刑務所から出たものの、トランボに以前のような仕事はない。「ローマの休日」は友人のイアン・マクラレン・ハンター(アラン・テュディック)の名義で映画会社に売り込み、アカデミー原案賞を受賞するが、当然のことながら仕事の依頼が来るわけではなかった。トランボはB級映画を量産しているフランク・キング(ジョン・グッドマン)の会社から安いギャラで仕事を請け負う。偽名で脚本を書いたほか、請け負った仕事は脚本家仲間に回し、それをキングが気に入らなかった場合はトランボが書き直す契約。トランボが優れた脚本を書けた理由は映画からは分からないのだが、仕事に追いまくられてバスタブにタイプライターを持ち込み、3日で1本の脚本を仕上げる姿からは一流の職人のような人だったのだなとうかがえる。そうやって書いたロバート・リッチ名義の「黒い牡牛」(1956年)もアカデミー原案賞を得た。

 映画が唾棄すべき人物として描いているのは元女優でコラムニストのヘッダ・ホッパー(ヘレン・ミレン)。ホッパーは非米活動委員会の手先のような言動と振る舞いをしてトランボたちを苦しめる。一方でトランボの実力を認めて「スパルタカス」の仕事を依頼するカーク・ダグラス(ディーン・オゴーマン)や「栄光への脱出」監督のオットー・プレミンジャー(クリスチャン・ベルケル)がいるし、ラジオからは非米活動委員会の活動に疑問を呈するグレゴリー・ペックやルシル・ボールの声も聞こえてくる。「アメリカの理想を守るための映画同盟」に所属していたジョン・ウェイン(デヴィッド・ジェームズ・エリオット)もホッパーに比べれば悪い男としては描かれていない。

 トランボたちを支援していた俳優のエドワード・G・ロビンソン(マイケル・スタールバーグ)は仕事を干され、非米活動委員会で証言してしまう。かつて支援してもらった金を返しに来たトランボとロビンソンが対峙する場面が印象的だ。匿名でも仕事ができる脚本家と違って、俳優は顔を隠して仕事はできない。ロビンソンは苦渋に満ちた表情でそう話すのだ。

 見ていて思うのは寛容と非寛容ということだ。自分とは異なる他人の思想・信条を全面否定し、平気で踏みにじる。赤狩りで行われたのはそういうことだった。一方的な攻撃・弾圧がまかり通る社会は間違っている。トランボは確かに共産党に所属していたが、重視したのは言論の自由を守ることであり、合衆国憲法修正第一条に明記されている言論の自由が封殺される状況に強く反発していた。映画が描いたことはハリウッドの異常な一時期、過去の話に終わるものではなく、今に通じる。

 トランボを支える妻クレオ役をダイアン・レイン、長女のニコラをエル・ファニングが好演している。ニコラが公民権運動に参加する描写などはしっかり父親の血を受け継いでいるのだなと思わずにはいられない。庭に池がある大きな家を売って、小さな家に引っ越す一家のホームドラマとしての側面が映画の幅を広げている。

2016/10/09(日)「ある天文学者の恋文」 中盤以降が単調

 予備知識一切なしで見たので、最初のクレジットを見て初めてジュゼッペ・トルナトーレの監督作であることを知った。トルナトーレにしては、というか、トルナトーレだからなのか、ツイストが決定的に足りない。死んだ恋人から手紙やメール、ビデオレターが届き続けるという設定だけで話が発展していかないのだ。だから中盤以降が単調に感じられる。

 初老の天文学者エド(ジェレミー・アイアンズ)と教え子エイミー(オルガ・キュリレンコ)は恋人関係にあった。ある日突然、エイミーはエドが死んだことを知らされる。ちょうどメールが届いたばかりだったため、エイミーはなかなかエドの死を受け入れられない。彼女の元にはその後もエドからの手紙やメールや贈り物が届き続ける。エイミーはエドが残した謎を解き明かそうと、彼が暮らしていたスコットランド・エジンバラや、2人で過ごしたイタリアのサンジュリオ島を訪ねる。

 エイミーには自分が運転していた車に同乗していた父親を事故で亡くした過去がある(ファザコン気味だから初老の教授と恋愛関係になったのだろう)。学生の傍ら、危険なスタントウーマンのアルバイトを続けているのも父親の死の責任を感じ、死の願望を密かに抱いているからなのかもしれない。父親の死以来、母親とは疎遠になっている。届き続ける手紙の意図は母親との関係を修復させることにあるのかと思わせるが、そのあたりの描写はあっさりしたものだ。となると、手紙の意図が分からなくなる。死んでからも恋人を束縛し続けるだけとしか思えないのだ。さまざまな場面を想定して、こんなに何通もの手紙を用意しておくにはかなりの時間がかかったはず。恋人への思いがさせたことであったにしても、この教授、実はとんでもなく偏執的な男に違いない。ある意味、気味の悪いキャラクターだ。

 描写も感傷過多で、見ていてうんざり。はいはい、ご勝手にどうぞと思えてくる。撮影当時、妊娠4カ月だったというオルガ・キュリレンコは悪くないが、36歳で大学院生役というのは少し無理がある。20代の女優の方が良かったのではないか。古風な響きがある邦題に対して、原題はCorrespondence(文通、通信)。現代的な通信方法は即物的なのであまりロマンティックにはならないなと思う。

 教授のマニアックさはトルナトーレ自身に共通する部分がある。個人的にトルナトーレの映画に心底から感心した作品がないのはマニアックな部分が人物造型に向けられていて、話に向かっていないからだと思う。

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