2004/12/27(月)「ゴジラ Final Wars」

 「ゴジラ Final Wars」パンフレット「ゴジラ」シリーズ最終作。冬休みの平日、第1回の上映開始だが、子供の姿はうちの子供以外になかった。観客は10人足らず。ヒットしていないんですかね。

 2000年の「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」以降の4作はそれまでのシリーズ作品よりワンランク上がったという印象を持っている。手塚昌明、金子修介という怪獣映画を本当に好きな監督が作っていたからだ。手塚昌明は普通のドラマの演出に弱い部分が残るにせよ、ゴジラを一番分かっている監督であることは間違いない。大島ミチル、大谷幸の音楽も伊福部昭をリスペクトしつつ、独自の世界を築いていたと思う。今回は監督が北村龍平、音楽はキース・エマーソン。まずゴジラとは合わない布陣である。北村龍平はゴジラに対して特別な感情を持っているはずはないし、キース・エマーソンに至っては劇場でゴジラを見たことがあるかどうかさえ疑わしい。そんな2人だから、ゴジラシリーズとは別の映画と思った方がいい。いや、これが最終作でなければ、こういう映画化もありかなと思うけれど、最終作としては軽すぎる。エマーソンの音楽が軽さに拍車をかけている。あまり目新しくないストーリーとドラマ部分の大雑把な演出が加わって、決定的にダメではないけれど、最終作としては大いに不満が残る。

 物語は過去のゴジラシリーズを集約したような作りである。世界各地に出現した怪獣たちを謎の宇宙船が一挙に宇宙船の中に収容する。宇宙船に乗っていたのはX星人(地球人には発音できないからX星人と呼んでくれと言う)。X星人たちは地球に妖星ゴラスが接近していると警告し、それに対抗するには地球の軍隊を一カ所に集約する必要があるという。ミュータントを集めたM機関の尾崎(松岡昌宏)と国連の美人科学者・美雪(菊川怜)はそれを嘘であると見抜き、テレビでX星人の正体をばらす。X星人たちは地球人を家畜にしようと考えていたのだ。怒ったX星人たちは再び怪獣を出現させ、世界の各都市は滅ぼされてしまう。怪獣はいずれも遺伝子にX星人と同じM塩基を持ち、X星人に操られていたのだ。尾崎たちはM塩基を持たず、X星人に操られないゴジラを復活させ、怪獣たちに対抗させようとする。

 過去の怪獣を総登場させ、「怪獣大戦争」(1965年)に出てきたX星人まで登場させているが、これはシリーズへの愛情というよりも安直な作りではないかと思えてくる。マトリックスやX-メンの要素までコピーしているのを見ると、なおさらその印象が強くなる。冒頭の雑な演出など頬が引きつってくるほどの出来。南極で轟天号がゴジラと戦っている。轟天号はなんとか、ゴジラを氷の中に封じ込めることに成功するのだが、ここでの描写は描写とは言えないほどのものである。それはこれに続く新轟天号とマンダの戦いにも言える。北村龍平、演出がまるでなっちゃいない。キネマ旬報1月上旬号で樋口尚文はこう書いている。「ちょっとどこがどうとは言い難いほど惨憺たる出来である。その手の施しようのないありさまは、(中略)もうそれに腹が立つというよりは、見る側の惻隠の情をかきかてるくらいに痛ましい。(中略)どうしてこうも『映画』の片鱗すら組み立てることができないのか」。

 僕はそこまでは思わないが、この映画のドラマ部分や構成がかなり雑であるとは思う。日本にいたゴジラが突然、インドネシアに行ってクモンガと戦う場面には驚いた。そしてすぐに日本に戻ってくるのだから、さらに驚く。演出の大雑把さとはこういう部分を言う。細部にこだわらない監督はダメである。ただし、小学3年生の長男は見終わった後、「面白かったねえ」とつぶやいた。お子様には満足できる仕上がりなのだろう。

 そんな不満の残る映画の中で、唯一良かったのはラドンが羽ばたいて飛ぶ姿。衝撃波を周囲にまき散らしながら飛ぶラドンは過去のどの作品よりもリアルで、もっと見たかった。カマキラスとモスラの飛翔シーンも良く、VFXスタッフは頑張っていると思う。ゴジラはもう終わりにしていいから、次は「ラドン」のリメイクを望みたい。

2004/12/24(金)「ぼくんち」

 休みなのだが、まだ映画館に行くのは不安なので家でDVDを見る。阪本順治「ぼくんち」(2003年、キネ旬ベストテン10位)を見ていたら、これがまた肋骨に悪い出来。おかしくて何度も笑って苦しんだ。阪本監督作品としてはちょっと変わった映画だけど、人物のおかしさは「どついたるねん」あたりと共通する。子役2人もかわいいし、観月ありさに何より感心。中盤、トラックの荷台に立って、タンカを切るシーンなどぴたりと決まっている。傑作だと思う。

 しかし大笑いしたのは本編ではなくて、メイキング。岸部一徳と3人の子供のビニールハウスの場面で、阪本監督は岸部一徳に「ここで何かやってください」と頼んだそうだ。アドリブである。そこで岸部一徳が何をやったかというと、飛んでいるハエを手で捕まえる仕草を2回やった。「下妻物語」で樹木希林がやった仕草ですね。これ、本編の方でも笑ったが、アドリブと聞くとますますおかしくなる。

 「ぼくんち」の衣装合わせでは、あまりにもボロボロの衣装に温厚な岸部一徳もさすがにムッとしたそうだが、この人ははまり込むとホントにおかしい。

2004/12/14(火)「誰も知らない」

 「誰も知らない」パンフレットより歩くとキュッキュッと鳴るサンダルを履いて、末っ子のゆき(清水萌々子)が長男の明(柳楽優弥)と一緒に母親を迎えに駅に行く。母親が帰ってくると決まったわけではないが、まだ5歳のゆきはたまらなく母親に会いたかったのだ。自分の誕生日だったから。寒い中、駅の外で座って待っていたゆきはポケットからアポロチョコの箱を取り出して、「最後の1個だあ」とつぶやく。ここを見て、「火垂るの墓」だ、と思った。戦争で両親を亡くした「火垂るの墓」の兄妹は2人だけで必死に生きていく。食べ物が乏しくなる中、妹の節子は好きだったサクマドロップの空き缶に水を入れ、「いろんな味がするわあ」と微笑む。あの場面を思い出した。「火垂るの墓」で食べ物を調達するのは兄の役目だった。この映画の明も同じである。3人の弟妹のために明は必死で動き回る。しかし、悲しいことにゆきは節子と同じ運命をたどることになる。

 1988年に起きた4人の子供置き去り事件を基にして、是枝裕和監督が脚本も書いた。映画化までに15年かかったそうだが、それだけの時間をかけた甲斐があったと思う。これは兄妹の悲劇に焦点を当てた「火垂るの墓」よりもずっと深みのある映画である。ひどい母親を描いただけの映画ではないし、電気もガスも水道も止められて悲惨な境遇に落ちた子供たちを描いただけでもない。子供のたくましさ、しっかりした兄、冷たい社会、温かい人々、友をなくす悲しみ、支え合って暮らすことの必要性、そういった諸々のことが胸に迫ってくる。日常描写を丹念に積み重ねて作ったとても丁寧な映画であり、何よりも実際の事件を単純な結論に結びつけない脚本の視点に感心させられた(「レディ・ジョーカー」はこういう風に映画化すべきだったのだと思う)。実際の事件はもっとひどい状況だったそうだ。是枝監督はしかし、長男の言動に注目して映画を組み立てた。

 パンフレットにある「演出ノート」はその監督の姿勢がつぶさに語られて感動的である。「保護者遺棄の罪を問う裁判で母親に再会した少年は彼女の期待に応えられなかった自分を責めて涙を流したそうである。この一連の事件の中で、唯一この少年だけが、自らの責任を全うしようとした。そして、全うできずに自分を責めていた。…(中略)僕はこの少年がいとおしくてたまらなくなってしまったのである」。だからこそ映画には悲惨なだけではない子供たちの生活の様子がしっかりと捉えられている。母親がいなくなって自由に外出できることの喜び、自動販売機の返金スペースを探る次男のたくましさ。観客を安易に泣かせようなんて微塵も思っていない演出は立派なものであり、その手綱は最後まで揺るがない。

 4人の子供たちの父親はばらばらで、子供の戸籍を作らず、学校に行かせず、外にも出さない母親が「好きな人ができたの」と言って、アパートを出て行く前半は、確かにこのあまりにもしょうがない母親に怒りを覚えるのだけれど、それ以後、子供たちだけの生活が始まって、次第に薄汚れていきながらも生きていく描写を見ていると、母親なんてどうでもよくなってくる。母親は子供たちを捨てたが、同時に子供からも見捨てられた。アパートを出て行く母親を送って、駅前のドーナツ店に入った明は「お母さんは勝手だよ」となじる。それに対して母親は「何が勝手よ。あんたのお父さんの方がよっぽど勝手じゃない。私が幸せになっちゃいけないの」と返す。それは小さな子供を持つ母親が言ってはいけない言葉だ。子供たちが母親の帰りを待っているのは現在の苦境を救ってくれると期待しているからであり、書留で金を送ってくるだけの経済的なつながりだけなら、それは親とは言えない。

 妹の死を乗り越えて、また同じ生活を続ける子供たちの姿に「頑張れ、ガンバレ」と言いたくなってくる。同時に誰か助けてやってくれと思わずにはいられない。映画から受けるのはそうした重層的な思いであり、恐らく子供を持つ親は自分の子供を抱きしめたくなるだろう。

 柳楽優弥はカンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞したが、それは映画の評価にも直結しているのだろう。「オールド・ボーイ」ではなく、この映画がグランプリであっても良かったと思う。4人の子供たちに加えて、それを助ける韓英恵、ダメな母親を演じるYOU、コンビニの店長役の平泉成、中学野球部の監督寺島進らが良い演技をしている。

2004/12/13(月)「レディ・ジョーカー」

 「レディ・ジョーカー」チラシ「グリコ・森永事件」を基にした高村薫の原作を平山秀幸監督が映画化。脚本は鄭義信(チョン・ウィシン)。「愛を乞うひと」「OUT」に続くこのコンビの第3作なのだから期待したのだが、完成した映画はがっかりさせられる出来だった。犯人グループ5人のそれぞれの犯行の動機の描き方が希薄で、物語に説得力がない。これが一番の敗因と思う。平山監督はパンフレットで「(原作の)全体から浮かび上がってくるのは、すきま風だらけの日本の現状です」と言っている。だからといって、すきま風だらけの映画にすることはなかった。僕はなんとなく「新幹線大爆破」を思い出しながら映画を見たが、「新幹線…」にあった犯人たちの切実さがこの映画からは感じられなかった。登場人物の多い原作だから、その中の誰に焦点を当てるかによっても映画の印象は変わってくる。誘拐される社長か、犯人か、合田刑事か。それを単に均等に描いていったのでは映画は面白くならない。どれかに重点を置いた方が良かっただろう。そうしなければ、こうした原作ものによくある原作のダイジェストにしかならないのは自明のことだ。脚本の段階でもう少し詰めが必要だったのだと思う。

 昭和22年、日の出ビールを解雇された物井清二が故郷の青森に帰ってくる場面で映画は始まる。清二は被差別部落出身者とともに不当解雇された。弟の清三は兄が日の出ビールに批判の手紙を出すのを見る。そして現代。清三(渡哲也)は東京で薬局を経営しながら一人暮らし。兄は特別養護老人ホームに入っており、やがて死ぬ。その5カ月前、清三の孫は日の出ビールの入社試験に落ちた後、バイク事故で死亡する。ここが重要なのだが、なぜ清三が競馬仲間4人と共謀して日の出ビールを恐喝するのかがよく伝わってこない。レディ・ジョーカーと名乗る犯人グループの5人はそれぞれに事情があるらしいが、それがはっきり見えないのである。レディとは犯人グループの1人、布川(大杉漣)の重度障害を抱えた娘。布川は自分の境遇を「ババを引かされたようなものだ」と自嘲的に言うが、企業恐喝に向かう理由は見あたらない。同じく刑事でありながら犯行に加わる半田(吉川晃司)についてもその理由は明確ではない。

 加えて、犯行の描き方も不十分で、最初の日の出ビール社長(長塚京三)の誘拐はいいとしても、その後の恐喝の描写がきわめて物足りない。ビールに毒物を入れることをにおわせただけで、企業が20億円もの金を払うのかどうか。犯人グループの日の出ビールに対する明確な優位性をアピールする場面がほしかったところだ。

 平山監督は「これは被差別側が、差別する側に対する復讐劇ですよね」と言ったら、高村薫に「違う」と言われたそうだ。確かに原作は社会の闇を含めてもっと幅が広いけれど、映画にするのならそういう風な単純な映画化もありだなと思う。原作のすべての要素を入れることは無理なのだから、一面的と言われようが、筋の通った映画にした方が良かった。いや、少なくともわかりやすさを捨てて、原作に近づこうとした平山監督と鄭義信の努力は買うべきなのかもしれない。不幸なことにそれが実を結んでいないのだ。

 合田刑事役の徳重聡はやや弱いのだが、渡哲也、長塚京三、大杉漣、松重豊、吉川晃司、吹越満、國村隼、岸部一徳らがことごとく重みのある演技をしている。特に吉川晃司はすさんだ感じがいい。こうしたうまい役者をそろえながら、描写が表面的なもので終わってしまったことが惜しまれる。映画に核がないのである。

2004/11/22(月)「ハウルの動く城」

 「ハウルの動く城」パンフレット前作「千と千尋の神隠し」は2度行って満員で入れず、公開後1カ月にして3度目でようやく見ることができた。今回は平日の朝一番に見に行って、楽々座れた。2館で上映しているためもあるのだろうが、公開が夏休みに重ならなかったことが大きい。大人が見るためにも宮崎駿作品は子どもの休みと重ならない時期の公開が好ましいとつくづく思う。

 さて、今回は一筋縄ではいかない作りである。呪いによって90歳のおばあさんに変えられた少女ソフィーがハウルとその仲間たちと擬似的な家族を築いていく、という表面的な物語自体は簡単なだけに、宮崎駿が込めたテーマが見えにくくなっている。終盤の展開を見れば、宮崎駿が「ハートを取り戻せ」「人間らしく生きろ」と言っているのは明確なのだが、原因と結果の描写を微妙にずらしている(あるいは単純な因果関係にない)ので解釈しにくいのである。これを子どもと一緒に見た親は子どもから「なぜ」を連発されることになるだろう。しかし、そうした描写の仕方によってこれは奥行きの深い物語になった。単純な比喩による一意的な解釈を許さない物語というのは確かにあって、そういう作品は時代によって受け取られ方が異なるものだが、イラク戦争が泥沼化した今の状況を考えれば、これは反戦が大きなテーマと受け取っていいだろう。今さら言うまでもなく、宮崎駿は硬派な人なのである。その意味でこれは「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」という初期作品の延長線上にある作品と言える。

 人の心臓を食べると言われるハウルという魔法使いに街で偶然会った18歳のソフィーが荒れ地の魔女に呪いをかけられ、90歳のおばあさんになる。このままでは家にいられない。家を出たソフィーは荒れ地で、かかしのカブを助けた後、ハウルの動く城にたどりつき、掃除係として一緒に暮らし始める。ハウルの城にはハウルと契約を結んで暖炉に縛り付けられている火の悪魔カルシファーと弟子のマルクルという少年が住んでいる。ハウルは夜になると、どこかへ出かけていく。この4人プラス魔力を失った荒れ地の魔女が次第に家族みたいになっていくと同時にソフィーはハウルに惹かれるようになるというのがメインプロット。併せてこの国で起きている戦争の描写もインサートされる。国王のそばにはハウルの師匠に当たる魔法使いのサリマンがいて、ハウルを戦争に協力させようとしている。このサリマンが一般的に言えば、悪役になるのだが、ここでも宮崎駿は一意的な描き方はしていない。敵を倒して終わらせる物語ではないのである。

 呪いをかける方法は知っていても解く方法を知らないとか、カルシファーの「火薬の炎は嫌いだ。あいつらは作法を知らない」というセリフとか、ハウルが戦争で魔法を使いすぎて魔物になっていく描写(これはフォースのダークサイドに落ちるイメージを思い起こさせる)とか、戦争や愚かな人間を暗示した描写は至る所にある。終盤、ハウルが心臓を取り戻すシーンから一気に戦争の終息を示す描写など見ると、心臓=ハート=人間性を取り戻せば、争いごとはなくなるという主張がくっきりと浮き上がってくる。

 心臓を取り戻したハウルは「体が重くなった」と言う。それに対してソフィーは「心は重いものなのよ」と答える。目に見える敵ではなく、自分の心の中にいる敵。人間の心次第で状況は悪化もすれば、好転もする。映画に戦争はあってもその具体的な理由や戦場の悲惨さはない。戦争を悪いこととして抽象化することで、映画は分かりにくくなっているし、大衆性も伴ってはいないけれど、それによって右翼左翼や宗教上のイデオロギーから独立した普遍的な作品になり得ていると思う。

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