2001/11/27(火)「かあちゃん」

 山本周五郎の同名原作を和田夏十(故人)が脚本化、市川崑が監督した。市川崑にとっては昨年の「どら平太」に続く山本周五郎原作ものとなる。パンフレットによると、この原作は1958年に西山正輝監督によって「江戸は青空」(大映)という映画になっている。これは60分余りの中編だそうで、「日本映画作品全集」(キネマ旬報)にさえ収録されていないから、あまり重要な作品ではないのだろう。脚本のクレジットは久里子亭(市川崑と和田夏十の共同ペンネーム)。原作に惚れ込んでいた市川崑は、いつか自分で監督したいとの思いがあったのだそうだ。

 落語によく登場する人情長屋を舞台にした、いかにも山本周五郎原作らしい味わいの作品になっている。天保末期、飢饉による米価の高騰と過酷な税の徴収により江戸の庶民の生活は貧窮を極めていた。貧乏長屋に住むおかつ(岸恵子)は5人の子どもと暮らしているが、吝嗇として知られ、長屋の付き合いもそこそこにかなりの金を貯め込んでいる。それを聞きつけた勇吉(原田龍二)がおかつの家に泥棒に入る。一人起きていたおかつは勇吉を諭し、なぜ一家が金を貯めているかを話す。3年前、長男の市太(うじきつよし)の大工仲間・源さん(尾藤イサオ)が盗みを働いた。こんな世の中に罪を犯さざるを得なかった源さんの将来を案じたおかつは、源さんが牢から出てきた時のために、家族が協力して新しい仕事の元手となる金を貯めることにしたのだ。事情を聞いて家を去ろうとする勇吉に、おかつは「行くところなんてないんだろ」と引き留める。勇吉は家族同様に扱われて、この家に居候することになる。

 牢から出てきた源さんのために一家は魚を焼き、ごちそうを作り、源さんの一家をもてなす。おかつは「このお金は貸すのでもあげるのでもない。あんたのお金なんだよ」と源さんに金を渡し、一家も源さんの家族も勇吉も泣き崩れることになる。この場面が大きな見せ場で、映画もここで一つの区切りとなる。その後に描かれるのは勇吉が本当に家族同様となるエピソード。これもいいのだが、クライマックスの後の長いエピローグのような印象を受けてしまう。逆に言えば、源さんを助ける場面が盛り上がりすぎなのである。映画全体とのバランスを少し崩している。

 しかし、これは小さな傷と言うべきだろう。市川崑はセピア調の画面で温かい物語を描き出している。大作ではなく、しっかりと作られた小品で、同じ現像処理(銀残し)を施した「幸福」(1981年)と同じく、職人としての技を見せられたような印象を受けた。

 おなじみの明朝体の文字と、和田誠のイラストで幕を開けるタイトルから市川崑らしい映像に彩られる。出演者も人情長屋の話にふさわしいメンバーがそろっている。大家の小沢昭一、長屋に住む春風亭柳昇、コロッケ、江戸家子猫、中村梅雀、石倉三郎といった面々とおかつ一家のうじきつよし、勝野雅奈恵らいずれも好演している。

2001/11/20(火)「ムーラン・ルージュ」

 オビ=ワンことユアン・マクレガーが歌のうまさを見せる。始まって間もなく映画がぐじゃぐじゃな描写を見せるあたりで、それを一掃するようにエルトン・ジョン「僕の歌は君の歌」を高らかに歌い上げるシーンに感心した。いや、ホントにうまい。ニコール・キッドマンも下手ではない(歌声が可愛いので驚く)が、マクレガーに比べると劣る。

 この映画、「サウンド・オブ・ミュージック」や「チルドレン・オブ・ザ・レボリューション」(「リトル・ダンサー」でも使われていましたね)「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラブ・ユー」(「ボディガード」)「ライク・ア・ヴァージン」「ダイアモンドは女性の親友」(「紳士は金髪がお好き」)などなど過去の名曲を使ってミュージカルに仕立てている。曲の使い方は悪くないし、それなりの効果も挙げているのだけれど、ミュージカルとしてはオリジナルな歌がほしいところだった。バズ・ラーマン(「ダンシング・ヒーロー」「ロミオ&ジュリエット」)のミュージカル好きは分かるのだが、もっと本格的に取り組むべきだったのではないか。姿勢が安易というわけではなく、惜しいのである。どこか偽物の匂いが付きまとうのだ。

 偽物というのはこの人工的な空間における撮影も影響している。猥雑な描写が多いことで「ロッキー・ホラー・ショー」との比較をよく見かけるけれども、確かにその通りで、主演の2人を除いてはフリークスのような、あるいはフェリーニ的なメイクアップばかりである。男ばかりで「ライク・ア・ヴァージン」を歌うシーンなどは笑うことはできても趣味的にどうか。

 1900年のパリで女優を夢見る高級娼婦と貧しい作家の恋という単純な物語をごてごてに飾り立てたレビューで見せているわけで、どうも好き嫌いがはっきり別れそうな映画である。

 基本的にミュージカルは好きなので、それほど退屈はしなかった。しかし、わくわくするようなシーンもあまりなかった。ムーラン・ルージュでのレビューよりも主演2人のミュージカル的場面の方がよほど好ましく、もっとこういう場面を増やせば良かったのにと思う。全体的にどうも日本人には濃すぎるテイストのような気がする。

2001/11/13(火)「エボリューション」

 アイバン・ライトマン監督が「ゴーストバスターズ」のノリで作ったエイリアン撃退コメディ。「ゴーストバスターズ」よりも弱いのは出演者にクセがないからか。主演のデヴィッド・ドゥカブニーにコメディができないのがダメだし、転んでばかりいるジュリアン・ムーアはまだしも、短大で地質学を教えるオーランド・ジョーンズと消防士志望のショーン・ウィリアム・スコットにもう少し存在感がほしいところ。ビル・マーレー、ダン・エイクロイド、ハロルド・ライミスと芸達者がそろっていた「ゴーストバスターズ」にはかなうわけない。

 さまざまな宇宙生物を見せるSFXはフィル・ティペットが担当し、水準的。白眉はショッピング・センターを飛び回る(ラドンやプテラノドンを思わせる)翼手竜のような生物。いや、これをもっと見たかった。クライマックスに登場する巨大生物にはアイデアが足りないと思う。しかも下品。登場人物が○○まみれになるのは、これまたマシュマロマンの泡をかぶった「ゴーストバスターズ」と同じ趣向だけれど、今回は汚いです。いくら前半に伏線があるとはいってもちょっとね。

2001/11/13(火)「ブロウ」

 アメリカにコカインを広めた密売ディーラーを描く実話。フランカ・ポテンテ(「ラン・ローラ・ラン」)のハリウッド・デビュー作ともなった(「ラン・ローラ・ラン」の時より美人なので驚いたが、前半で消える)。

 小さな会社を経営する実直な父親(レイ・リオッタ)と金への執着が強い母親(レイチェル・グリフィス)との争いに嫌気が差した一人息子のジョージ・ユング(ジョニー・デップ)は1960年代末に家を飛び出し、カリフォルニアへ行く。そこでマリファナを密売。メキシコで直接マリファナを買い付け、密輸して大金を得るが、やがて発覚し逮捕される。刑務所に服役中、コロンビア人と知り合い、出所後はコカインの密輸に手を出す。メディジン・カルテルのボス、パブロ・エスコバルの信頼も得て巨万の富を築き、知り合いの婚約者マーサ(ペネロペ・クルス)を横取りして結婚。一人娘のクリスティーナを溺愛する。しかし、幸福は長くは続かなかった。

 ブルース・ポーターの原作がどうなっているか知らないが、デヴィッド・マッケンナの脚本はユングの人生を家庭の幸福の観点から構築している。諍いを続けた両親と同じようにユングとマーサも金をめぐって争うようになるのは皮肉。テッド・デミの演出に際だったところは見られないけれど、手堅くまとめている。ジョニー・デップも相変わらずうまい。なお、ユングは2015年まで服役するという。

2001/11/06(火)「アカシアの道」

 アルツハイマー病にかかった母親(渡辺美佐子)と娘(夏川結衣)の物語。痴呆の母の介護という現実的な問題を扱った映画でもあるのだが、それ以上にこれは松岡錠司監督(「バタアシ金魚」)が言っている通り、母と娘の葛藤の物語になっている。回想で描かれる娘の小学生時代の描写に心が痛む。娘を生んですぐに離婚した母親は教師をしながら一人で娘を育てるが、しつけに異常に厳しい。友達が来て騒げば、頬をぶたれる。狭い団地で「お前なんか生まなけりゃ良かった」という言葉を投げつけられる。ほとんど虐待に近いとも言えるこの環境は娘にとって地獄だっただろう(パンフを読んだら、原作の近藤よう子は児童虐待をテーマにした漫画を描いた後、その裏返しでこれを描いたそうだ。やっぱり)。逃げ場がない

環境での虐待は悲劇としか言いようがない。「お前のためを思って」という言葉とともに押しつけられる親の理想ほど、子どもにとって迷惑なものはないのだ。

 娘が高校卒業後、家に寄りつかず、編集の仕事をしながら一人で生活しているのも当然なのである。しかし娘は母の痴呆症状の連絡を受け、団地に帰って来ざるを得なくなる。母親の痴呆は徐々に進み、記憶が混乱し、必然的に以前のように罵詈雑言を浴びせられる。徘徊して家に戻れなくなる、アイロンをつけたままにする、火事になりそうになる。その一方で娘の恋人は母親がアルツハイマーと知って離れていく。介護を頼もうと思っても、公的介護は順番待ち。民間に頼めば費用がかかる。そんな風に主人公は追いつめられていく。

 娘は叔母(藤田弓子)から母親がすぐに離婚したのはその前に失恋があったかららしいと聞かされる。父親との結婚もその反動だったらしい。それと子どもに対する虐待とは次元の違う話なのだが、人間の心理はそう簡単ではないのだろう。

 結論を出しにくいテーマで、ラストの処理も難しい。「私、小さい頃、こうやってお母さんに手を握ってもらいたかったの。お母さんはしてくれなかったけど、私は握ってあげる」。母親の生き方を理解できたことで、娘は痴呆がさらに進んだ母親にそう話す。家族の再生、というよりは真の親子関係への変化を示唆して映画は終わる。松岡監督は重いドラマを緊密に演出し、ただの介護問題啓発映画などにはしなかった。渡辺美佐子は当然のことながらうまく、夏川結衣も好演している。