2001/12/26(水)「バニラ・スカイ」

 スペイン映画「オープン・ユア・アイズ」(1997年)をキャメロン・クロウがリメイクした。主演で製作を兼ねるトム・クルーズの依頼だったらしい。キャメロン・ディアスとペネロペ・クルス(ご存じのようにこの共演がきっかけでトム・クルーズと熱愛中とのこと。そのうちペネロペ・クルス・クルーズになるのか?)共演で、主演3人は魅力たっぷり。クロウの演出も音楽の使い方や映像の凝り方に見どころはある。だが、スピーディーにプロットを綴った予告編の方が面白かった印象。中盤、顔に大けがをしたクルーズがあれこれ悩むシーンなどばっさり短くすべきだったのではないか。このストーリー、ドラマよりもプロットを語るタイプのものなので、余計な描写に思えてくる。

 出版社を経営する裕福な男デヴィッド・エイムス(トム・クルーズ)は自分の誕生パーティーで美しい女ソフィア(ペネロペ・クルス)に出会う。デヴィッドはソフィアの純粋さに惹かれるが、セックス・フレンド(とデヴィッドが思っている)のジュリー(キャメロン・ディアス)はそんな2人を見て激しい嫉妬心を抱く。ソフィアの部屋から出てきたデヴィッドを車に乗せ、ジュリーは猛スピードで街中を走り、橋から落下する。この事故でジュリーは死亡。映画は殺人容疑で収監され、顔に大けがをしたデヴィッドが精神科医マッケイブ(カート・ラッセル)の質問に答える形で進行する。

 と、これ以上のストーリーは書けない。冒頭の人通りの絶えたタイムズ・スクエアをはじめ、キャメロン・クロウの映像はなかなか面白い。夢か現実か分からないシーンを挟み込み、フィリップ・K・ディックの小説を思わせるような世界。「オープン・ユア・アイズ」を見ていないので比較はできないが、かなり忠実なリメイクらしい。だからこれは元の作品の欠陥でもあると思うのだが、こういうオチはあまり褒められたものではない。本当なら、このオチは中盤に持ってきて、そこから物語を展開させたいところ。クロウの本質もじっくり語る方にあるだろう。徹底的に改変してソフィアとの純愛をもう少し前面に出した方が良かったような気がする。

 主人公が友人に語るセックス・フレンド(Fuck Body)というのはひどい言葉で、キャメロン・ディアスが憎悪するのも当然。こういう主人公ならば、ああいう目に遭っても仕方がないか。

2001/12/09(日)「シュレック」

 数年前、「政治的に正しいおとぎ話」という小説がベストセラーになった。白雪姫やシンデレラなど名作とされるおとぎ話を社会的差別や男女差を撤廃して語り直したもので、意図はよく分かるのだが、まあそれほど笑えるものではなかった。このドリーム・ワークス製作の映画も“政治的に正しい”CGアニメと言える。ただし、キャラクターが描き込まれているのでエンタテインメントとして十分に通用する仕上がりだ。

 沼地に住むシュレック(マイク・マイヤーズ、吹き替え版は浜田雅功)は緑色の怪物で、村人たちから「骨を粉にして、パンにして食う」と恐れられている。ある日、シュレックのところにおとぎ話のキャラクターたちが大挙、押し寄せる。この国のファークアード卿(ジョン・リスゴー、伊武雅刀)は完璧な国を作るのにキャラクターたちが邪魔になると考え、追放したのだ。一人で暮らすのが好きなシュレックは、キャラクターたちの騒がしさに怒り、「お前たちを元いたところへ追い返してやる」とファークアード卿に掛け合いに行く。

 ファークアード卿はシュレックの強さに目を付け、ドラゴンが守る城に閉じこめられたフィオナ姫(キャメロン・ディアス、藤原紀香)を助けたら、沼を元通りにしてやると持ちかける。美人の姫と結婚して王になろうと考えているのだ。シュレックはおしゃべりなロバのドンキー(エディ・マーフィー、山寺宏一)と協力してドラゴンを撃退し、フィオナ姫を救出。国へ帰る途中、シュレックとフィオナ姫には愛が芽生えるが、フィオナ姫にはある秘密があった。この秘密が従来のおとぎ話とこの映画を分けるポイント。「白鳥の湖」や「美女と野獣」を逆にした設定で、人間は(怪物も)外見じゃないよというテーマ通りの結末を迎えることになる。

 製作のジェフリー・カッツェンバーグはディズニーで「美女と野獣」「アラジン」などを製作し、低迷していたディズニーの復活に貢献した人物。美男美女のめでたしめでたしで終わる普通のおとぎ話の裏返しとして、このアニメを作ったらしい。設定は裏返しでも物語は真っ当で、ひねりすぎてはいない。子どもよりも大人が見て楽しめる佳作と言えるが、「美女と野獣」の力強さにはかなわなかったなという印象。

2001/12/04(火)「ハリー・ポッターと賢者の石」

 J・K・ローリングの世界的ベストセラーを「ホームアローン」「アンドリューNDR114」などのクリス・コロンバスが監督した。SFXは満載で主役のハリーを演じるダニエル・ラドクリフや、おしゃまな優等生ハーマイオニー役のエマ・ワトソン、ホグワーツ魔法魔術学校のタンブルドア校長役リチャード・ハリス(ほとんど素顔見えず)ら出演者も申し分ない。しかし、映画はいまいち面白さに欠ける。

 ハリーは両親を交通事故でなくし、意地悪な叔父・叔母、従兄弟と一緒に暮らす。部屋は階段下の物置。プレゼントなんかもらったこともない。だが、ハリーには隠された力があった。ということは冒頭から描かれるので観客にはすべて分かっている。隠された力に徐々に目覚めていく過程を描けば、SFにもなりうるが、映画は(原作も)ファンタジーなのでそうした部分はあっさりしている。ハリーの11歳の誕生日にホグワーツ魔法魔術学校から招待状が届き、入学を許される。両親は交通事故ではなく、悪い魔法使いヴォルデモートと戦って死んだのだった。

 この悪い魔法使いとの戦いをメインに描くのならば、それなりに面白くなったのかもしれない。ところが、第1作の哀しさ、魔法学校の授業など背景までも描かなくちゃいけない。別にそれぞれの描写が悪いわけでもないのだが、本筋から離れたこういう描写はどうも面白くないのである。ハリーが授業を通じて能力を高めるわけでもない。中盤が単調に感じられるのはこうした描写が多いからだろう。ストーリーに意外性はなく、悪役がだれかはすぐに分かる。この程度の物語を面白がっていいのかどうか。

 SFXに関して言えば、魔法のほうきの描写は「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」に登場したスピーダー・バイクの発展形だろう。魔法のほうきが多数登場するゲーム・クィディッチのシーンはスピーディーでよくできているが、それだけのこと。トロール(「となりのトトロ」の元ネタ)やチェスのシーンも感心するほどのものではなかった。

 生活保護を受けながら、この原作を書いたというJ・K・ローリングには現実逃避の気持ちが少なからずあっただろう。いや、物語というのは多かれ少なかれそうしたものである。小説や映画は、今の自分はホントの自分じゃないはずだという理想と現実のギャップから逃れる手段として有効なのである。だから「スター・ウォーズ」や「マトリックス」や「ダーク・シティ」などなどSFでは毎度おなじみの、不遇の生活を送る主人公が実は世界を救うヒーロー(選ばれし者)だったという設定は観客(読者)の願望そのものといっていい。

 問題はヒーローが覚醒した後の活躍にあるわけで、この映画の場合、ハリーの活躍が物足りないものに終わっている。個人的な好みの問題だが、魔法ではなく、超能力だったらもう少し楽しめたのかもしれない。

 脚本は「恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」のスティーブ・グローブス。原作を過不足なくまとめた感じ。もっとポイントを絞り込む必要があったのだと思う。

2001/11/27(火)「ポワゾン」

 R-18指定(といっても大したことはない)。ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)の原作「暗闇へのワルツ」の2度目の映画化。ちなみに一度目はフランソワ・トリュフォー「暗くなるまでこの恋を」(1969年)で、ジャン=ポール・ベルモンドとカトリーヌ・ドヌーブが共演した。今回はアントニオ・バンデラスとアンジェリーナ・ジョリーの激しい愛を描く。

 19世紀後半のキューバが舞台。コーヒー会社を経営するルイス・バーガス(アントニオ・バンデラス)は愛など信じない男。新聞の交際欄を通じて知り合ったアメリカ女性と一度も会わずに結婚を決める。船から下りたジュリア・ラッセル(アンジェリーナ・ジョリー)は写真とは異なる美しい女だった。「外見で判断しないよう試した」と話すジュリアだったが、ルイスも自分が会社社長であることを偽っていた。2人はすぐに結婚、ルイスは情熱的なジュリアに夢中になる。ある日、ジュリアはルイスの預金を全額引き出し、結婚指輪を置いて姿を消す。探偵を名乗るダウンズ(トーマス・ジェーン)はルイスの妻は本物のジュリアを殺し、すり替わっていたのだと話す。絶望と憎悪に駆られたルイスはダウンズとともにジュリアを捜し始める。

 ミステリなのでこれ以上は書かないが、映画は中盤でネタをばらし、その後はルイスとジュリアの愛を描いていく。ちょっとヒッチコックを意識したのかと思える構成ではある。しかし、例えばプロットが似ているヒッチコック「めまい」に比べると、どうも主演の2人に切実さが足りない。アンジェリーナ・ジョリーは個性的な美人ではあるが、だれもが認める美人とは言えないだろう。だから、2人の初対面の場面がなんだか落ち着かない。ファム・ファタール(宿命の女)を演じるには少し若いような気もする。バンデラスは悪くないけれど、愛に翻弄され、破滅への道筋をたどる男の苦悩を十分には見せてくれない。もっとこの男の心情を緻密に描く演出が必要だったように思う。凡庸なのである。

 監督のマイケル・クリストファーは劇作家、脚本家出身で、これが劇場用映画監督2作目。原題はOriginal Sin。パンフレットにはどこにもこの表記がなく、知らない人は原題をPoisonと勘違いしてしまうのではないか(ま、映画ではちゃんとタイトルがOriginal Sinと出ますが)。

2001/11/20(火)「ムーラン・ルージュ」

 オビ=ワンことユアン・マクレガーが歌のうまさを見せる。始まって間もなく映画がぐじゃぐじゃな描写を見せるあたりで、それを一掃するようにエルトン・ジョン「僕の歌は君の歌」を高らかに歌い上げるシーンに感心した。いや、ホントにうまい。ニコール・キッドマンも下手ではない(歌声が可愛いので驚く)が、マクレガーに比べると劣る。

 この映画、「サウンド・オブ・ミュージック」や「チルドレン・オブ・ザ・レボリューション」(「リトル・ダンサー」でも使われていましたね)「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラブ・ユー」(「ボディガード」)「ライク・ア・ヴァージン」「ダイアモンドは女性の親友」(「紳士は金髪がお好き」)などなど過去の名曲を使ってミュージカルに仕立てている。曲の使い方は悪くないし、それなりの効果も挙げているのだけれど、ミュージカルとしてはオリジナルな歌がほしいところだった。バズ・ラーマン(「ダンシング・ヒーロー」「ロミオ&ジュリエット」)のミュージカル好きは分かるのだが、もっと本格的に取り組むべきだったのではないか。姿勢が安易というわけではなく、惜しいのである。どこか偽物の匂いが付きまとうのだ。

 偽物というのはこの人工的な空間における撮影も影響している。猥雑な描写が多いことで「ロッキー・ホラー・ショー」との比較をよく見かけるけれども、確かにその通りで、主演の2人を除いてはフリークスのような、あるいはフェリーニ的なメイクアップばかりである。男ばかりで「ライク・ア・ヴァージン」を歌うシーンなどは笑うことはできても趣味的にどうか。

 1900年のパリで女優を夢見る高級娼婦と貧しい作家の恋という単純な物語をごてごてに飾り立てたレビューで見せているわけで、どうも好き嫌いがはっきり別れそうな映画である。

 基本的にミュージカルは好きなので、それほど退屈はしなかった。しかし、わくわくするようなシーンもあまりなかった。ムーラン・ルージュでのレビューよりも主演2人のミュージカル的場面の方がよほど好ましく、もっとこういう場面を増やせば良かったのにと思う。全体的にどうも日本人には濃すぎるテイストのような気がする。