2001/08/21(火)「ドリヴン」

 シルベスター・スタローンとレニー・ハーリンが「クリフハンガー」以来8年ぶりに組んだカーレースの映画。脚本もスタローンが書いているが、これがひどい出来。人間関係の描写にリアリティーを欠き、ドラマは盛り上がらず、もうアマチュアが書いたとしか思えない脚本である。スタローンは製作を兼ねているから、ハーリンとしても修正しにくかったのだろう。しかし、演出に関しても見るべき所はほとんどない。

 映画が描くのはF1ではなく、CARTというレース。世界を転戦して順位を競うのはF1と同じで、日本のツインリンクもてぎも出てくる。

 昨年度のチャンピオン、ボー・ブランデンバーグ(ティル・シュワイガー)と無名のルーキー、ジミー・ブライ(キップ・パルデュー)が優勝を競っている今年のレース。シカゴで行われたレースでジミーはボーに敗れ、チームのオーナーであるカール・ヘンリー(バート・レイノルズ)はかつての名レーサー、ジョー・ダント(シルベスター・スタローン)に支援を頼む。ジョーはレース中の事故で引退し、今は隠遁生活を送っていたが、カールの誘いで久しぶりにレースに復帰する。主演とはいってもスタローンは一歩下がった形ではある。年齢的に見て、これは妥当な判断だろう。

 ただし、やはり出たがりのスタローンであるからコーチ役に徹しているわけでもない。自信を失っているジョーの再生を図る物語にすれば良かったのに、とりあえずアドバイスめいた言葉を口にするだけ。この主人公が2人いるような設定が失敗の要因かもしれない。

 人間関係のドラマにしてもボーの恋人ソフィア(エステラ・ウォーレン)がちょっとしたことで別れ、ブライと付き合い、やっぱりボーの元へ帰る描写などどうでもいい感じ。ボーを悪役としては描いていないから、2人の男の間を行ったり来たりするウォーレン(「猿の惑星」)がなんだかバカな女にしか見えない。

 スタローンと元妻の描写に関してもこれは言え、こういうドラマの部分はほとんど雑である。こんな人間関係を描くぐらいなら、もっとレースの本質に迫るべきだった。ハーリンはカーレースが好きと言っているが、本気で好きならマニアックな部分が出てきてもいいはずだ。

2001/07/31(火)「初恋のきた道」

 こんなに胸をときめかせ、心を揺さぶられた映画も最近珍しい。キネマ旬報ベストテン4位、ベルリン映画祭銀熊賞受賞だけのことはある。「グリーン・デスティニー」のチャン・ツィイー(章子怡)のデビュー作。チャン・イーモウ監督の映画だが、そんなことはどうでもよく、純で一途なツィイーがひたすら良い。出てくるだけで画面が輝く。誤解を招くかもしれないが、正統的アイドル映画である。

 父親が心臓病で急死したとの知らせを受けた息子が故郷の村に帰ってくる。母親は町の病院から村まで父親を担いで帰りたいと話す。父と母の愛は村の語りぐさになるほどのものだった。息子は両親から聞かされたその愛の強さを振り返る。というわけで映画は前後の現在の場面に40年前の時代を挟み、回想形式で描かれる。

 1958年、18歳のディ(チャン・ツィイー)は村に赴任してきた教師チャンユー(チョン・ハオ)を見て、一目で恋をする。校舎建設のために村の男たちとともに働くチャンユーに食べてもらいたいと毎日弁当を作り(しかし誰が食べるか分からない)、チャンユーの声を聞くために毎日学校のそばを通って水くみに行く。家が遠い子どもをチャンユーが送ると聞いたディは山道で遠くからチャンユーを見つめるようになる。ある日道ですれ違ったことで、その美しさに目をとめたチャンユーもディに思いを寄せるようになる。と、ストーリーを書いても、この映画の場合は何も伝わらない。チャン・イーモウ監督は丹念に丹念に2人の恋の過程を描いていく。これは描写の映画であり、映画の原初的感動が映像そのものにあることを強く思い起こさせてくれる。

 チャン・ツィイーの笑顔を見せはにかむ姿、思いが通じたうれしさに走る姿、雪の中でじっとチャンユーの帰りを待つ姿、どれもそれだけで感動的なのである。ツィイーでなければ成立しない映画。チャン・イーモウはどういう意図でこの映画を撮ったのか知らないが、ツィイーを見つけた時点で映画の内容そのものも変わったのではないか。でなければ、こんなにツィイーのクロースアップが多いわけがない。

 この映画の唯一の欠点は現在の母親を演じる女優があまりにもおばあさんであること。可憐でかわいいツィイーが40年後とはいってもあんな風に年を取るわけない。これはむしろ父親よりも母親を死なせてしまった方が説得力はあったのではないかと思うが、そうなるとツィイーの視点で物語を語れなくなる。難しいところではある。

2001/07/28(土)「Planet of the Apes 猿の惑星」

 33年ぶりの再創造(リ・イマジネーション)。リメイクではなく、こういう言葉を使っているのは旧作との違いを強調するためのようだ。猿に支配された惑星という構図は同じなので、違いはなぜ支配されたのか、その理由ということになる。いくらメイクアップの技術が進歩しようとも、展開するドラマが同じであるなら、結局のところ、観客の関心はここに向かうしかない。しかし、このアイデアはごくごく小さいものである。夏の大作として公開された映画を引っ張るには小さすぎるアイデアで、ラストを見ると、なんだか肩すかしを食ったような気分になる。大作には合わないオチなのである。

 リ・イマジネーションといいながら、イマジネーションの展開のさせ方が決定的に足りない。旧作を少しアレンジしただけ。脚本はウィリアム・ブロイルス・Jr、ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタールの3人。「アポロ13」「キャスト・アウェイ」のブロイルス・Jrにしても、「スーパーマン4 最強の敵」「マイティ・ジョー」のローゼンタールにしても、あまりSFが得意な方じゃないらしい。旧作はなんといってもロッド・サーリング(「ミステリー・ゾーン」)が絡んでいたのが良かったのだと思う(ただし、ラストのアイデアは当初監督に予定されていたブレイク・エドワーズのものという)。

 贔屓のティム・バートンの作品なのであまり悪口は書きたくないが、この題材をバートン風に移し替えるには徹底的に世界を違うものにする必要があっただろう。それができていないのは残念だ。表面をさらっと描いて終わり。ダークな世界の構築に情熱を傾けるいつものバートンの映画じゃない。この企画にあまり乗り気ではなかったのではないか。

 旧作が公開された時、僕は小学生だったので劇場では見ていない。しかし最初にテレビ放映された日はしっかり覚えている。1973年の12月24日、TBSの月曜ロードショーにおいてである。なぜ、こんなことを覚えているかというと、この日は僕が最初にコンサートに行った日であり、「猿の惑星」の開始時間を気にしながら帰宅した覚えがあるからだ。公開から5年たっていたけれど、それほど旧「猿の惑星」は話題作だったのだ。解説の荻昌弘は番組の中で同時進行で猿のメイクアップをしてみせた。

2001/07/17(火)「パール・ハーバー」

 真珠湾攻撃が終わった後に延々と続く1時間がただただ退屈である。真珠湾攻撃までの1時間半も長かったが、最後の1時間はさらに長く感じる。ここはほとんど不要。やられっぱなしではアメリカ人にとって面白くなかろうという興行上の配慮で追加しただけの場面である。以前書いたようにマイケル・ベイのバカさ加減を確認するために見に行ったのだが、こんなにバカだとは思いもしなかった。救いようがありませんね、これじゃ。

 ハンス・ジマーの音楽が流れて始まった時には、いやこの映画もしかしたら少しは面白いんじゃないかなと余計な心配をしたが、さすがマイケル・ベイ、ジェリー・ブラッカイマーというアメリカを代表する無能コンビの映画。そこから先はことごとくB級C級の出来に終始している。かなり予算をかけているにもかかわらず、真珠湾攻撃とラブストーリーを絡めてちょちょいと1本作っちゃいましたよ、という感じしかない。最新のSFXはそれなりに見応えはあるのだが、せっかくSFX班が頑張っているのに見せ方が凡庸過ぎて長すぎて少しも効果的ではない。見ているうちに飽きてくるのである。

 ラブストーリーの部分に関しては、時々美人に見えるケイト・ベッキンセールと繊細なジョシュ・ハートネットはいいのだが、設定があまりにもありふれていて工夫がない。日本軍の描き方などは30年前のレベルで噴飯もの。本気で真珠湾攻撃の映画など作ろうという気はなかったのだろう。本気ならこんなアホな描写、構成になるはずない。志が低いのである。3時間3分という長すぎる上映時間が最大の欠点で、歯切れが悪いというか、まとまりが悪いというか。ま、マイケル・ベイの頭が一番悪いのだろう。

2001/06/19(火)「マレーナ」

 こちらはジュゼッペ・トルナトーレ監督の「海の上のピアニスト」以来の作品。戦時中のイタリア、シチリア島。村一番の美女マレーナ(モニカ・ベルッチ)に少年レナート(ジュゼッペ・スルファーロ)が恋心を抱く。マレーナは結婚して2週間で夫が出征。海岸近くの家で一人で暮らしていた。その美貌は村中の男たちから憧れの的。ただし、女たちからは憎しみの的となっている。

 ある日、マレーナの夫が戦死した知らせが届く。生活に困ったマレーナは歯医者との交際を経て、娼婦に堕ちていく。終戦の日、村の女たちは「ふしだらな女」と非難してマレーナに集団リンチを加え、村から出ていくよう命じる。半裸の姿でマレーナは逃げるように村を出ていく。映画はこのマレーナの様子を少年の目から描く。イタリア映画によくある思春期の少年の性の目覚めの描写も取り入れられているが、マレーナが村を出ていく場面まではまあ、普通の映画である。ここがロバート・マリガン「おもいでの夏」ぐらいの出来なら、もっと映画の評価は高まるところ。

 「ニュー・シネマ・パラダイス」以降、高い評価を得ているトルナトーレだが、僕はそれほど買っていない。「ニュー・シネマ・パラダイス」は完全版でさえ、単なるすれ違いのメロドラマとしか思えなかったし、「海の上のピアニスト」もラストに感心しなかった。技術的には大したことない監督なのだが、主に大衆性で支持を集めているのだと思う。この映画もほとんどの場面はなんてことない映画である。ただ、今回、ラストの処理には感心した。

 戦死したと思われたマレーナの夫は生きていた。夫はマレーナを捜して村を出ていく。そして1年後、村の大通りを夫に腕を絡ませてうつむき加減で歩きながらマレーナは帰ってくる。村の女たちは「少し目尻にしわができた」などと陰口をたたくのだが、ひどいことをした負い目もあってか、マレーナを受け入れるようになる。さまざまな悲惨な運命にもまれたことを表面に出さず、楚々として存在するマレーナは素晴らしい。決して少年の憧れを砕くようなくだらない女ではなかったのである。モニカ・ベルッチは何となくイザベル・アジャーニを思わせる美人。演技的にはあまりうまくないようだが、セリフが少ないのが幸いしてか、魅力的な雰囲気で映画を支えている。

 2000年度のアカデミー賞ではオリジナル作曲賞(エンニオ・モリコーネ)と撮影賞(ラホス・コルタイ)にノミネートされた。