2001/05/14(月)「ショコラ」

 ラッセ・ハルストレムはうますぎる。うーん、感心しました。物語の奥行きが深いです。

 フランスの片田舎の村に北風とともにやってきた親子ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)とアヌーク(ヴィクトワール・ディヴィソル)がおいしいチョコレートの店を開き、保守的な村人の心を解放していく物語。赤いコートを羽織った親子は魔法使いのよう。しかし村人には悪魔と映る。

 その筆頭が村長で伯爵のレノ(アルフレッド・モリーナ)。ヴィアンヌは村長の妨害に負けず、徐々に村人の心をとらえていく。奥行きが深いのは因習からの解放を目指すヴィアンヌ自身、因習に縛られているのが分かること。もちろん、最後にヴィアンヌも因習から解放される。

 キャリー=アン・モス、レナ・オリン、ジュディ・デンチ、レスリー・キャロンといった女優陣が脇を固め、ウェルメイドに作られたファンタジー。親子の素性をさらりと描写するあたりもうまい。なるほど南米の魔法使いのような女がおばあちゃんなわけですか。

 考えてみると、ジュリエット・ビノシュとレナ・オリンは「存在の耐えられない軽さ」以来の共演なのかな。オリンはあまり変わってないけど、ビノシュは老けましたね。

2001/05/08(火)「スターリングラード」

 スターリングラード攻防戦をスナイパーの立場から描いた戦争映画。主演のスナイパーをジュード・ロウ、敵対するドイツ軍の凄腕スナイパーをエド・ハリスが演じる。戦闘場面は「プライベート・ライアン」に負けない迫力。荒廃したスターリングラードでの銃撃戦、空襲シーン、無謀な突撃作戦、退避する兵士を容赦なく撃ち殺すロシア兵などなど戦争の惨禍が描かれる。突撃作戦で2人に一丁の銃しか渡さないというのは無茶苦茶である。

 しかし本筋はスナイパー同士の対決で、冒険小説ファンとしては、こういう展開は好みである。好みではあるけれど、それだけ点は厳しくなる。ロウとハリスは数度、スコープを向け合うが、クライマックスの対決はもう少し長く見たいし、工夫がほしい。こういう対決でギャビン・ライアル「もっとも危険なゲーム」あたりを思い浮かべるこちらが悪いのか。

 映画では例えば、「フルメタル・ジャケット」で女狙撃兵の恐怖が描かれていたし、「プライベート・ライアン」にもそれを引用したような描写があった。「山猫は眠らない」というスナイパーそのものを描いた傑作もある。こういう前例がある場合、描写にオリジナリティーがないと苦しいことになる。

 ジャン・ジャック=アノーはあまりこういうジャンルに関心がないのではないかと思う。その代わり、ジュード・ロウと恋に落ちるレイチェル・ワイズの描写はよく、2人が秘かに愛を交わすシーンには切なさがあふれる。

 全体的に悲惨な場面はあるものの、切実さや悲壮感は意外に希薄である。これはスターリングラード攻防戦の位置づけがフランス人のアノーにはそれほど切実なものではないからだろう。ロシアの監督が担当していれば、もっと違った視点になったにちがいない。自分の国で起こったことか、他の国の出来事かで描写の重みも変わってくるのだと思う。

2001/05/01(火)「トラフィック」

 緊密な構成、数多い登場人物、ドキュメンタリー・タッチ。「トラフィック」はどこを取っても完璧な仕上がりである。マイケル・ダグラス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズの夫婦共演も悪くないが、下っ端警官を演じるベニチオ・デル・トロとドン・チードルの在り方に共感する。この2人が映画に大衆性を持たせたと思う。

 特にデル・トロは焦点深度の深い役柄で、単純な正義感でも悪に対する憎しみでもなく、殺された同僚の死に報いるために麻薬組織壊滅に力を貸す。感心すべき演技で、アカデミー助演男優賞は当然の結果だろう。ドン・チードルは「フレンチ・コネクション」のジーン・ハックマンに相当する役柄と言える。

 スティーブン・ソダーバーグの演出に無駄な部分は一切なく、麻薬戦争という主題と戦うべき理由を簡潔に浮かび上がらせている。僕は演出の技術そのものに感心する傾向があるが、これはその好例。「フレンチ・コネクション」が刑事の立場から麻薬コネクションを追いつめる話だったのに対して、「トラフィック」の場合はテーマの取り上げ方が多角的、重層的であり、映画の印象も深いものになる。事件は何も解決しないけれど、希望を持たせたラストの処理などは極めて真っ当だ。

 一方でこの演出は足し算によるものとの思いもする。これとこれとこれを組み合わせて、こういう風に描けば、こんな効果が出るという正確な計算に基づいたもの。余計な部分がないので密度も濃くなるのだけれど、映画の遊びとは無縁であり、テーマに関心を持てない人にはあまり面白くない映画なのだろうな、と思う。

2001/04/24(火)「ザ・メキシカン」

 ジュリア・ロバーツとブラッド・ピットの“夢の競演”が売り。ところがですね、2人が同じ画面にいるのは合計15分あったかどうか。要するに2人とも忙しくスケジュールが合わなかったのだろう。映画の出来もサイテーである。

 最初の場面で2人が一緒にいたかと思ったら、ピットはメキシコ、ロバーツはラスベガスに行って、それぞれ話が進行する。なぜラスベガスで殺し屋とロバーツの交流など長々と見せられなければならないのかね。ピットの方のエピソードも締まりがなく、監督はユーモアを入れようとしたのだろうが、見事に失敗している。

 リアルかユーモアかどっちつかずなのが、まず失敗の要因。ゴア・ヴァービンスキー(「マウス・ハント」)の緩みっぱなしの演出がそれに輪をかけた。そもそもロバーツとピットのカップルという設定からして、年齢的に無理があるような気がする。

2001/04/17(火)「ハンニバル」

 クラリス・スターリング(ジュリアン・ムーア)の扱いを除けば、ほぼ原作通り。というか、原作のダイジェストに過ぎない。ちゃんとあの問題のシーンも映像化されている。しかし、やはり原作のような優雅さを備えることは無理だった。

 アカデミー主要5部門を制した前作「羊たちの沈黙」を僕は原作ほど面白いとは思わなかった。あの5部門受賞というのは消えゆくオライオンへの同情票が多かった結果ということを覚えておいた方がいい。ジョナサン・デミの演出、ジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンスの演技には確かに見るべきものはあったけれど、あの映画もまた原作のダイジェストだった。

 今回の失敗はキャラクターの整合性を取れなかったことにあるようだ。クラリスへの執着を見せるレクターは分かるにしても、クラリス自身のキャラの描き込みが足りないし、そのクラリスをいじめるクレンドラー(レイ・リオッタ)も原作ほど嫌な人物として描けていない。レクターの幼いころの回想を省いたのは仕方がないが、筋を追うのに精いっぱいで全体的に描写が足りないと思う。

 小説「羊たちの沈黙」はサイコ・スリラーのジャンルを1作で売れるジャンルに押し上げたが、小説「ハンニバル」はそのジャンルの中でやや上位に位置するだけの作品である。その原作をほぼ忠実に映画化するだけで、前作を超える映画が生まれるはずがない。

 笑ったのはアンソニー・ホプキンスが「タイタス」と同じような痛い場面を演じていること。ホントに「タイタス」はこの映画の予告編みたいなものだったのだな。それと最後の場面。原作では中盤にあり、最もユーモラスなシーンを最後に持ってきて、別の意味を与えたのは面白かった。