2002/06/15(土)「ブレイド2」

 なぜかパンフレットが出ていないそうだ。映画館におことわりがあった。版権関係のためらしい(原作はアメコミである)。

 ウェズリー・スナイプス主演のヴァンパイアハンターものの第2作。主人公のブレイドはヴァンパイアと人間の混血で日光に影響を受けないため、デイウォーカーと呼ばれる。しかし、血への渇きは共通しており、ブレイドは血清でそれを抑えている。前作はワイヤーアクションをはじめとした香港映画の影響ありありの展開に驚いたが、それがなくなると、苦しい。いやアクションは今回も豊富なのだが、もはやアメリカ映画の中にある香港アクションには驚かなくなってますからね。こういうアクションはアメリカ映画でも普通のことになってしまった。

 ブレイドは前作でヴァンパイアにされた“心の父”ウィスラー(クリス・クリストファーソン)の行方を追っていた(てっきり死んだものと思ってましたね)。ようやくヴァンパイアの隠れ家を見つけ、そこでウィスラーを救い出し、レトロウィルスでDNAを替えて、人間に戻す(こんなに簡単なら、皆そうしてしまえばいいのに)。次の日、ブレイドのアジトを2人のヴァンパイアが訪れる。ヴァンパイアの突然変異リーパーズ(死神族)が現れ、ヴァンパイアたちを餌食にしているというのだ。ヴァンパイアが皆やられたら、次にリーパーズが襲うのは人間。ブレイドはヴァンパイアの首領ダマスキノス(トーマス・クレッチュマン)に頼まれ、リーパーズに立ち向かう。ブレイドに協力するのはブレイドを倒すために作られた軍団ブラッド・パック(!)。ブレイドたちはリーパーズの隠れ家に攻め込み、大量のリーパーズたちと決死の戦いを繰り広げる。

 リーパーズは顔の下半分がパカッと割れて、大きな口を開ける。エイリアンの卵みたいなメイクアップである。心臓は骨に覆われ、普通に杭を刺して殺すことはできない。銀の弾丸も平気(もともと平気じゃないか? 銀の弾丸に弱いのは狼男だよ)。弱点は日光のみ、と従来のヴァンパイアより数段強力。あちこちに出てくるSFXはあまり上等ではないが、そこそこ見られる。

 監督は前作のスティーブン・ノーリントンに代わって「ミミック」のギレルモ・デル・トロ。「ミミック」ほどの出来にはなっていず、続編の例にも漏れず、前作の8割程度の面白さ。B級アクションファンにはお薦めか。ただ個人的には描写のグロさが気になった。

2002/06/08(土)「KT」

 金大中拉致事件を描くポリティカル・サスペンス。日韓の工作員が暗躍する、こういう闇の部分を描く映画が成立すること自体、日本映画では珍しい。未だに真相が分からない金大中事件は貴重な題材なのだ。

 で、十分面白いかというと、面白いことは面白いがメリハリを欠いたな、というのが率直な感想。韓国大使館の一等書記官でKCIAの命令に従って拉致を決行する金車雲(キム・ガプス)が一直線なキャラクターであるのに対して、日本側のキャラクターはどこかねじれており、拉致に協力する自衛隊員・富田満州男(佐藤浩市)には分からない部分が残る。三島由紀夫に共感し、反共意識を持つ人間というキャラは分かるのだが、それが拉致に協力していく考え方の変化が十分には描かれていない。佐藤浩市の演技そのものは良いのだが、主役がこういうあいまいな状態では困る(荒井晴彦の脚本ではこれが書き込まれていたようだ)。

 富田と恋に落ちる韓国人女性・李政美(ヤン・ウニョン)との関係も、ラストへの重要なエピソードになるわけだからもっと描きこむべきだったように思う。大衆紙の記者・原田芳雄は特攻隊と共産主義のどちらにも愛想を尽かし、右でも左でもない人物だが、やはり事件の中核には関わりようがない。韓国語を話せない在日韓国人・筒井道隆の役柄は最後に泣いて終わるだけではもったいない気がする。

 キム・ガプスの強面の演技と悲劇的なキャラクターは強い印象を残す。興行上の問題は別にして、最初の意図通り、こちらを主演に据えた方が映画としてはまとめやすくなったのではないか。

2002/06/08(土)「模倣犯」

 原作は未読。よく分からない部分が二つほど(結末の赤ん坊とか。でもこれは原作にはないようだ)あったので、本棚に積ん読状態だった原作を読み始めた(この映画、原作の販売促進効果があるのではないか)。で、読んでいない時点での感想をとりあえず書いておくと、あまり面白くはないが、まったくダメではないというところか。

 映画が始まって、豆腐屋の孫娘が殺され、雑誌記者のダンナが殺され、その他何人かの女が殺されるまでの描写は非常に雑である。いったい何人殺されたのかも分からず、本来ならじっくり描くべき豆腐屋のじいさん(山崎努)の無念の思いもあっさり流れている。感情移入しようがないような描写に終始して、とりあえず原作の設定を話し終えましたという感じ。

 ところが、ピース(中居正広)が出てきて、グッと調子が変わる。中居正広が好演しているのである。それまでとは違う映画になり、描写も丁寧になる。頭はよいが、どこかねじれた方向に行ってしまったピースと浩美(津田寛治)の関係はなかなかいいし、それまでの話を別の視点で語り直すのも面白い。

 この部分はなんとなく「アメリカン・サイコ」を思わせる話なのだが、残念なことに「アメリカン・サイコ」同様、犯人が殺人を続ける理由にあまり説得力がない。森田芳光監督としてはシリアル・キラーを描くことよりも犯人と山崎努の対決に話を絞っていくのが狙いだったようだ。しかし、犯人の動機や背景を十分に描いてくれないと、こういう話では面白くないのだ。中居VS山崎の構図は道徳的な結論に至り、意外性はない。

2002/05/25(土)「少林サッカー」

 香港で大ヒットした周星馳(チャウ・シンチー)主演のサッカー・コメディ。今や日本では周星馳よりも馳星周の方が有名だろうが、馳星周が周星馳の名前をひっくり返してペンネームにしたのは有名な話。パンフレットにも「周星馳の作品は全部見ている。サッカーも大好きだ。その上で断言する。『少林サッカー』は21世紀最初の大傑作だ」とのコメントを寄せている。

 パンフレットに寄せられたコメントの中で最も納得したのは、みうらじゅんの「『燃えよドラゴン』以来の感動である。『アストロ球団』以来の突拍子のなさである。正しいCGの使い方に脱帽である」との言葉。これは正しく「アストロ球団」でしょう。いや、「アストロ球団」だけでなく、「あしたのジョー」や「シコふんじゃった。」も入ってる。スポーツ映画の定石を踏まえ、軽快さに徹した作りが極めて気持ちのよい映画である。

 少林寺の達人で少林寺を広めることに情熱を持っているが、社会的には落ちこぼれのシン(チャウ・シンチー)と、20年前、八百長をしたことでスター選手の座を追われたファン(ン・マンタ)が出会う。シンの鋼鉄の足に目を付けたファンはサッカーチームを作り、全国大会に出場しようとする。シンはかつて少林寺拳法をともに学んだ兄弟子、弟弟子たち5人を訪ね歩くが、いずれもかつての技術は残っていない。優勝すれば100万ドルという言葉に釣られて集まったメンバーは、最初の練習試合でボロボロにされるが、ふとしたことでかつての力を取り戻す。全国大会に出場したシンたちのチームは連戦連勝。ついに決勝へと勝ち進む。決勝の相手は20年前、ファンに八百長を持ちかけ、足を折らせたハン(パトリック・ツェー)のチーム魔鬼隊。筋肉増強剤と過酷なトレーニングで人間とは思えない力を持ったチームにシンたちは一人また一人と倒されていく。

 香港では大ヒットしたため、途中からシーンを追加したロングバージョンが公開された。日本公開版もこのロングバージョンで、チームをつくるまでがやや間延びしているのはそのためだろう。それが小さな傷にしか思えないのは、例えば、シンの靴と太極拳の達人のムイ(ヴィッキー・チャオ)を巡るエピソードや、ハンに虐げられるファンの浪花節的エピソードなどが抜群の大衆性を兼ね備えているためだ。これがこの映画の強みだろう。

 「アストロ球団」を思わせるのは、計489カ所に使われたというCGで、登場人物たちの目はメラメラと燃え、蹴ったサッカーボールは炎を上げ、風圧で芝生を抉り、壁をぶち抜く。落ちこぼれが試合に勝っていく快感と描写のエスカレーションがうまく相乗効果を挙げている。

 ゲラゲラ笑わせてハッピーな気分にさせてくれるエンタテインメント。チャウ・シンチーの人柄の良さが画面ににじみ出ているのも良い。

2002/05/19(日)「パニック・ルーム」

 大金持ちが残したニューヨーク中心部の邸宅に引っ越したその日に、3人組の男が隠された遺産を狙って侵入してくる。母と娘が避難用の部屋(パニック・ルーム)に逃れ、男たちを撃退しようとするサスペンス。4階建てのこの家の階下から屋根までを自在に動き回るカメラはヒッチコックを大いに引用している。

 ヒッチコックのカメラは格子をすり抜けるぐらいだったが、デヴィッド・フィンチャーのこのカメラ、コーヒーメーカーの取っ手の間や鍵穴までもワンカット(のような効果)で通り抜けてしまう。3人組が押し入る際の長回しと合わせて、凝ったカメラワークが多い。ハワード・ショアのストリングを強調した音楽もヒッチコック映画のバーナード・ハーマンを思い出させる。

 ただ、結末がどうなるかは分かった話なので、中盤からどうも物足りなくなる。ジョディ・フォスターが閉所恐怖症であるという設定はあまり生かされないし、娘の糖尿病という設定もその場限りのものに終わっている。そもそもが発展しにくい話なのである。

 デヴィッド・コープの脚本は犯人側の仲間割れを挟み、力関係が揺れ動くのが面白い。フォレスト・ウィテカーの役柄なども陰影に富むものにしようとした形跡がうかがえる。だが、まだアイデアが足りないと思う。

 ジョディ・フォスターは基本的に知性派なので、暴力に対抗する場面にはちょっとリアリティがない(フォスターの胸が大きく見えるのは撮影中に子どもが生まれたためか?)。ひ弱な人物が過激な暴力を振るう描写に関して、フィンチャーはサム・ペキンパー「わらの犬」あたりを見習った方がいいだろう。