2002/12/04(水)「ジョンQ 最後の決断」

 これが実話なら言うことはなかった。病院に立てこもったデンゼル・ワシントンが自殺しようとしたその瞬間に救いが訪れるクライマックスの設定は、いくら何でもご都合主義と言われるだろう。ニック・カサベテス監督は、というよりも脚本のジェームズ・キアーンズは冒頭からその伏線を張っているのだが、やはりどうしてもこの展開は都合が良すぎる。デンゼル・ワシントンは熱演しているし、取り上げたテーマ(医療保険)も真っ当なもので面白く見たのだが、これだけはどうしても気になった。

 主人公のジョン・クインシー・アーチボルド(デンゼル・ワシントン)は不況のため勤めている工場で半日勤務にさせられ、年収は1万8200ドルしかない。家賃の支払いが滞り、妻(キンバリー・エリス)の車は没収される。ある日、野球の試合に出ていた息子マイク(ダニエル・E・スミス)が突然倒れる。診断の結果、息子は重い心臓病で助かるには移植手術をするしかなかった。入院した病院の院長(アン・ヘッシュ)は手術費用に25万ドル、名簿に名前を載せるだけで前金の7万ドルが必要と話す。医療費を支払えるはずの保険は半日勤務のため2万ドルしか出ない。ジョンは金策に走り回るが、十分に集められず、病院側はマイクを退院させようとする。思いあまったジョンは病院に立てこもり、息子を移植者名簿に載せるよう要求する。

 ジョンが入っていた保険はHMO(健康維持組織)のもので、この制度に対する批判が映画のテーマである。この保険、低コストを追求して十分な治療が受けられず、過小医療の問題を生んでいるそうだ。おまけにジョンの勤めている会社はジョンに内緒で保険の内容を半日勤務者用の不十分なものにしてしまっており、治療費が2万ドルしか出ない事態になったわけである。国がかかわった医療保険制度がないアメリカの実態を批判して、この部分なかなか見応えがある。

 ジョンが立てこもった病院内で人質とジョンとの間に交流が生まれたり、テレビ局がジョンの姿を放映したり、ジョンを支持する人々が病院の周囲に集まってくる場面などはシドニー・ルメット「狼たちの午後」を思わせる。深刻なだけでなく、ユーモアも挟んであり、ニック・カサベテスの演出はエンタテインメントの本質をよくわかっているなと思う。それだけに話の決着の付け方が惜しい。こういう展開だと、「現実はそんなにうまくいかないよ」と言われるのがオチなのである。現実にはありそうにもない設定の話をいかに観客に信じ込ませるかが、演出や脚本の手腕を問われるところ。この映画にはその力が少し足りなかった。

 病院の心臓外科医にジェームズ・ウッズ、シカゴ市警の警部補役にロバート・デュバル、本部長役でレイ・リオッタが出ており、それぞれにうまい演技を見せている。

2002/12/03(火)「es[エス]」

 1971年にスタンフォード大学で行われた実験に基づく。24人の被験者を看守役と囚人役に分け、監視カメラ付きの模擬刑務所に入れて、その変化を2週間かけて観察する実験。しかし、わずか7日間で実験は中止され、以来、この実験は禁止されているのだという。ほぼ展開の想像がつく設定だが、クライマックス以降はちょっと想像を超えていた。状況のカタストロフを残酷に描くこの脚本はなかなかうまい。

 映画は実際の実験とは異なり、フィクションではあるが、状況によって人間はどう変わるのかを克明に描き出してみせる。この実験は、実験をコントロールする教授らの研究スタッフ、看守役、囚人役という序列(階級)を作る。看守たちが力を笠に着て囚人をいたぶるのは予想内のこと。しかし、看守役を務めるという目的を守るために上の階層である研究スタッフをも排除しようとするのが面白い。目的に固執する硬直した考え方になってしまうのだ。あるいはそれはルールを守るということで自分たちの行為を正当化するものでもあるだろう。そして看守たちの暴走を研究スタッフもコントロールできなくなる。

 警棒や手錠を持たされただけで人間は変わる。多くの人間は権力を持つと、弱い階級に対して支配的な態度に出るのだろう。力を持っても変わらない人間は自分たちの階級から追い落としてしまう。このストーリーは容易に戦争の状況を思い起こさせるし、ドイツ映画だけにナチスのユダヤ人迫害をも想起させる。普通の会社や組織や学校の状況にあてはめられることでもあり、普遍的なものを持っていると思う。

 人間の心理の邪悪な部分を剥き出しにするので見ていてあまり快くはないけれど、クライマックス以降は模擬刑務所を脱出できるかどうかのサスペンスを伴うエンタテインメント的な演出になっている。監督はこれがデビューのオリバー・ヒルツェヴィゲル。モントリオール国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した。主人公の囚人役は「ラン・ローラ・ラン」のローラの恋人役モーリッツ・ブライプトロイが演じている。

2002/11/25(月)「ハリー・ポッターと秘密の部屋」

 ホグワーツ魔法学校で2年目に入ったハリー・ポッターとハーマイオニー、ロンの3人が学校にある秘密の部屋を巡って冒険を繰り広げる。キャラクターの紹介は前作で終わっているので、早く本筋を展開させればいいのに、秘密の部屋がメインになるのは中盤以降。それまでは前作の繰り返しみたいな描写が多い。中盤のクモやヘビが出てくるあたりからSFXが多くなり、それなりに見せるが、話自体はなんというか、簡単ですね。このあたり、原作が童話であることの限界のようだ。

 よく分からないのはなぜハリーにもっと活躍させないのかということ。いや、もちろん、事件を解決するのはハリーの力なのだが、特に能力的に優れた部分は見当たらないのだ。ヒーローがヒーローたり得ていないところが、大いに不満。なぜ周囲がハリーを英雄視するのかよく伝わってこない。これは端的に脚本のミスではないのか。

 目新しさが減った分、前作よりも面白みには欠ける。幼稚で他愛ない話と出来そのものはあまり良くないSFXだけで、どうしてこんなに支持されるのか疑問だ。もう一つ分からないのはハーマイオニーをはじめ数人が○○にされる場面を描いていないこと。この映画のSFXなら難なくできると思うが、一様に終わった後の描写しかない。一つには敵の正体を見せたくなかったからなのだろうけれど、描写はどのようにでも出来ると思う。

 監督は前作に続いてクリス・コロンバス。大きく失敗はしてはいないが、成功もしていないといういつも通りの演出である。大人のファンタジーとしてはやはり「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」を待つしかないか。ダンブルドア校長役のリチャード・ハリスは先日亡くなった。遺作はこの映画ではなく、来年、もう1本公開予定作品があるようだ。「ジャガーノート」(1974年)のカッコ良さにしびれた者としては、おじいちゃん役はあまり見たくなかった。

2002/11/18(月)「ショウタイム」

 「シャンハイ・ヌーン」のトム・デイ監督の第2作。というよりも、ロバート・デ・ニーロとエディ・マーフィーの初の共演作と言った方が通りがいいだろう。デ・ニーロは最近、コメディにも数多く出演しているが、その中では良い方の出来になる(それほどつまらない作品が多いのだ、デ・ニーロのコメディは)。かといってこの映画の出来が良いわけでは決してない。原因はまるでリアリティを欠いた脚本にあるのだが、デ・ニーロのうんざりしたような表情とアメリカでは復活を遂げたというエディ・マーフィーのかつてのような面白さの一端を見るだけでもいいか、と思う。

 ただ、この2人の相手をするレネ・ルッソ(個人的には好きなんですがね)や前半に自分自身の役でちょっとだけ出てくるウィリアム・シャトナーも含めて、どうも盛りをすぎたスターたちの共演作という印象は拭いきれない。いや、デ・ニーロはまだまだスターで名優ではあるのだが、いい加減、こういうB級作品ばかりに出ているのはまずいんじゃないか、と言いたくなる。「初の共演作」というのが少しも売りにならないのがつらいところだ。

 ロス市警のベテラン刑事ミッチ・プレストン(ロバート・デ・ニーロ)が事件現場に来たテレビ局のカメラを撃ったことから、上司に強要されてテレビシリーズに出演する羽目になる。俳優志望で落ちこぼれ警官のトレイ・セラーズ(エディ・マーフィー)はプロデューサーのチェイス・レンジー(レネ・ルッソ)に売り込みをかけ、ミッチとコンビを組んでテレビ出演を果たす。ミッチはマスコミ嫌いで、映画やテレビの刑事ドラマのような演技をするのもまっぴらという設定。2人の刑事は対立しながら、強力なマシンガンを作る組織を追い詰めていく。

 典型的なバディ・ムービーの展開でテレビ局が絡むところなど昨年のデ・ニーロ主演「15ミニッツ」を思わせる。デ・ニーロとマーフィーが頑張っているので「15ミニッツ」ほどつまらなくはならなかったが、アクション映画としてはあまり見るべき部分もない。いくらコメディだからといっても、話の設定にまったくリアリティがないのは困ったものだ。3人クレジットされている脚本家のうち、アルフレッド・ガフとマイルズ・ミラーは現在「スパイダーマン」の続編を書いているという。大丈夫か、「スパイダーマン」。

 エディ・マーフィーは少しスリムになってかつてのマシンガンのようなしゃべりを復活させ、悪くない。しかし、かつての強烈なイメージを復活させるのはもはや無理だろう。常識人になってしまったのだなと思う。デ・ニーロは近年、キャリアのプラスにならないような作品ばかりに出ているような印象。アル・パチーノの作品を厳選して出演する姿勢を、見習った方がいいのではないかと思う。

2002/11/11(月)「チェンジング・レーン」

 無理な車線変更をした白人ヤッピーが黒人ブルーカラーの男の車と接触、示談の話もせず、白紙の小切手を押しつけて早々に現場を立ち去る。ヤッピーは弁護士で裁判所に遅れてはと思ったのだ。焦っていたヤッピーは裁判所に提出するはずの重要な書類を現場に落とす。黒人の方も裁判所に行く用事があった。事故のせいで20分遅れ、妻に親権を取られてしまう。黒人は書類を拾っていたが、ヤッピーの仕打ちに腹を立て、返そうとしない。怒ったヤッピーは脅迫のため黒人をコンピューター操作で破産させてしまう。

 という予告編以上のものがあるかどうかあまり期待せずに見たら、面白かった。この脚本はよく考えてある。「チェンジング・レーン」というタイトルは単なる車線変更ではなく、間違った人生の変更も意味しているのだった。

 弁護士が落とした書類はある財団の運営を弁護士の事務所に委託することを証明するものだった。弁護士自身が死にかけた老人にサインさせたものだが、振り返ってみれば老人がサインの意味を理解していたかどうか、疑わしい。そして事務所の経営者2人が財団から300万ドルを横領していたことが分かる。弁護士は経営者の娘と結婚しており、そうした不正を暴けば、自分の首を絞めることになる。それは安楽な生活を捨てることを意味する。妻はすべての事情を知った上で、偽の書類を裁判所に提出するよう頼む。

 なかなか考えてあるシチュエーションなのである。そしてこれはアメリカ映画であるから、当然、弁護士は今まで歩んできたレーンを変更しようとするのだ。弁護士を演じるのはベン・アフレック、黒人ブルーカラーはサミュエル・L・ジャクソン。事務所の経営者をシドニー・ポラックが演じる。アフレックは登場したときには嫌な男なのだが、その後の変化をうまく演じたと思う。

 脚本が優れているのは、安っぽい正義感を否定した上でやはり理想的な結末に至らせていること。ポラックはアフレックに対して、自分は(不正もしているが)トータルでは公益のある仕事をしていると話す。人生はトータルで評価される、善と悪を差し引けば、自分は善だというのが実に偽善者らしい言い分である。普通なら主人公はこうした偽善的な世界からドロップアウトするのかと思うが、これもよく考えた結末となっている。脚本は主人公の心変わりの契機として、車線変更による事故のほかに、事務所に面接に来た青年の理想的な言葉も用意している。ある1日の体験が弁護士をかつて志した道へと戻すわけだ。

 監督は「ノッティング・ヒルの恋人」のロジャー・ミッチェル。見応えのある作品にまとめた手腕に感心した。