2002/10/22(火)「ノー・マンズ・ランド」

 ボスニア・ヘルツェゴビナの戦争を描いて、今年のアカデミー外国語映画賞を受賞した。中間地帯(ノー・マンズ・ランド)の塹壕にボスニア人とセルビア人の3人が取り残される。1人の体の下には地雷が埋められて、身動きできない状態。互いにいがみ合うが、そのうち共通点が見つかるものの、やっぱりふとしたことで対立する。国連軍が駆けつけて救出を図り、マスコミも押し寄せて塹壕の中が報道される。不条理なシチュエーションで描く風刺劇である。

 「殺戮に傍観者はあり得ない。傍観は殺戮に加担することだ」というメッセージは分かるし、国連軍がただの一人も助けることが出来ない存在であることへの風刺や皮肉もよく分かるのだが、「OUT」のようなストレートな映画の後に見ると、分が悪い。傑作なのは認めますが、今ひとつ心に響かなかった。

2002/10/21(月)「9デイズ」

 予告編ではテロリストの手に渡った核爆弾を9日間の期限内に取り戻すシリアスな話のように描かれていたが、本編はまったく違う。殺されたエージェントの身代わりを務めるため、その双子の弟が9日間で訓練を受ける(双子の弟がいるとは実に都合の良い設定だ)。テロリストとの交渉はそこから始まるわけで、なんで「9デイズ」というタイトルなのさ、という感じである(原題は“Bad Company”)。

 主人公を演じるのはスタンダップ・コメディアン出身で、「サタデー・ナイト・ライブ」で人気を得たクリス・ロック。もともとの設定がコメディにしかならないような類のものなので、コメディタッチで作れば良かったものを、ジョエル・シュマッカー監督の演出はほとんどシリアス(この監督は「セント・エルモス・ファイアー」とかシリアスな映画の方がいい)。主人公を代えるか、監督を代えるかしなければ、成立しない映画である。

 だいたい、クリス・ロックとアンソニー・ホプキンス(CIAで作戦の現場指揮を務める)という組み合わせがまずダメである。ホプキンスをキャスティングしたのは映画興行の保険みたいなものだろうが、ホプキンスはシリアス、クリス・ロックはコメディ路線を勝手に進むだけだから、バランスが悪いことこの上ない。クリス・ロック自身、映画の主演を張るほどの風格はないし、字幕がセリフの面白さを伝えていないことを差し引いてもほとんど退屈である。

 冒頭のエピソードから描き方の手際が悪いが、話がその後ちっとも面白くならないので、後半に連続するアクションは見ていて虚しいだけ。ジョエル・シュマッカーという人はつくづくB級から抜け出せない人だな、と思う。

 パンフレットにあるホプキンスのインタビューを読むと、ホプキンス自身、まったくこの映画に愛着を持っていないことがよく分かる。エージェントから勧められたので出たのだそうだ。そう、金のためだけに出たんですよ、きっと。

2002/10/07(月)「ロード・トゥ・パーディション」

 マフィアのボスの息子と父親の殺人の場面を見たために、マフィアに追われることになる父と息子の物語。妻と次男は殺され、父親は復讐を誓い、長男とともに逃亡生活をしながら反撃に出る…。「アメリカン・ビューティ」のサム・メンデス監督は実にオーソドックスな物語をオーソドックスかつ映画的技法を駆使して、立派な作品に仕上げた。言うまでもなく、「アメリカン・ビューティ」より完成度は上であり、話の行く末は分かっていながらも、深い感銘がある。

 特に感心したのは映画的な技術を過不足なく使っていることで、例えば、殺し屋のジュード・ロウが登場する場面の逆ズーム(トラックバックしながらのズームアップ)とか、ここぞという場面のアクセントとして実によく決まっている。あるいはジュード・ロウとダイナーで対峙するトム・ハンクスのこめかみをゆっくりと流れる一筋の汗、長い逃亡生活を反映したワイシャツのえりの汚れなど、映画でなければ表現し得ない見せ方をメンデスは各所に駆使している。メンデスは演劇出身だが、映画的な技法を十分に身につけており、今やこういうオーソドックスな監督の方が少なくなってしまったからとてもとても貴重な存在である。

 話としてはありふれてはいるのだが、アメリカの田舎の農家の夫婦を出してきて、古き良きアメリカを感じさせたり(この老夫婦が再び顔を出すラストは絶対そうなると分かっていながらも涙、涙である)、父親と息子の誤解と愛情の深さをクライマックスの前に十分に描き出したりとか、メンデスの演出は緩急自在かつ間然とするところがない。

 これに加えて、トム・ハンクス、ポール・ニューマン、ジュード・ロウの演技の凄さ。二枚目のジュード・ロウはよくぞここまでという感じの怪演で、儲けどころの役柄をきっちりと演じきっている。息子役のタイラー・ホークリンも繊細な感じがよく、トーマス・ニューマンの音楽も素晴らしく、美術、撮影、衣装に至るまで充実しまくりの映画。父親と息子の関係を核にもってきたことで、大衆性までも備えており、これはもうロード・トゥ・オスカーは間違いないのではないかと思える。「アメリカン・ビューティ」でのアカデミー受賞はフロックではなかった。メンデスはこの映画で本当に一流監督の仲間入りをしたと思う。

2002/09/30(月)「ジャスティス」

 第2次大戦中のドイツの捕虜収容所を舞台にした映画。こういう舞台設定の映画も久しぶりに見た。監督は「オーロラの彼方へ」のグレゴリー・ホブリットで、「オーロラ…」同様、詰めが甘い。いやそれ以前に話がさっぱり面白くない。話の中心になってくるのは捕虜収容所内で起きた殺人事件で、冤罪の黒人士官を救おうとする主人公ハート中尉(コリン・ファレル)を描くのだが、事件が発生するまでに1時間近くかかる。ハート中尉が捕虜になるまでの描写などは、ばっさり切り捨てて、黒人士官が収容所に来る場面から始めるとか、もっと焦点を絞るべきだっただろう。あれもこれもと欲張りすぎなのである。

 原題はHart's Warで、ジョン・カッツエンバック原作の映画化。ハート中尉はエール大学で法律を学び、上院議員の息子であるため前線には出たことがなかったが、上官を車で送る途中、MPを装ったドイツ兵に捕らわれる。拷問を受けて、燃料庫の場所を教えたハートは捕虜収容所に送られる。収容所はマクナマラ大佐(ブルース・ウィリス)が米兵をまとめていた。ハートの嘘を見抜いたマクナマラ大佐は「士官宿舎は満員」との理由で、ハートを一般兵の宿舎に入れる。そこはベッドフォード(コール・ハウザー)という二等軍曹が仕切っていた。不自由な収容所生活の中でタバコや靴も巧みに用意するベッドフォードは黒人への人種差別意識があり、収容所に来た黒人士官2人を上官にもかかわらず迫害する。黒人士官の1人はベッドフォードの罠で冤罪を着せられ、処刑される。そしてベッドフォードが何者かに殺される事件が起きる。容疑はもう一人の黒人士官にかかった。マクナマラ大佐は収容所を統括するドイツ軍のビッサー大佐(マーセル・ユーレス)に軍法会議を開くよう要求。ハートに黒人士官の弁護を命じる。

 「大脱走」と「ア・フュー・グッドメン」を組み合わせたような映画といえば、聞こえはいいが、先に書いたように焦点が絞れず、どちらも中途半端。凡作という表現がぴったりの作品である。ホブリット監督はテレビ出身のためか、だらだらした作風。この人、物語のポイントがどこか分かっていないのではないか。だいたい、「ジャスティス」というタイトルの映画は過去にアル・パチーノ主演のものがあるのだから、他に考えるべきではなかったか。ま、これは日本の配給会社の責任だ。

2002/09/27(金)「サイン」

 「シックス・センス」のM・ナイト・シャマランの新作。みんなラストでがっかりしているようだが、その理由、よく分かる。結局、そういうありきたりのことが言いたかったのかね、シャマラン君。ジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽はヒッチコック映画のバーナード・ハーマンを思わせて、シャマランもヒッチコックを意識したのかもしれない。しかし、ヒッチコックは間違ってもこんな教条主義的なことは映画に持ち込まなかった。決定的に脚本がまずい。シャマランに必要なのは(普通の出来なのに評価されすぎた)「シックス・センス」はフロックで、自分は脚本は下手なのだという認識と、もっと面白い話を書けるスタッフなのだと思う。こんな脚本に8ケタのギャラを払う映画会社もバカだ。

 例によって、ストーリーは詳しく書けないたぐいの映画である。ペンシルバニア州バックス郡のグラハム・ヘス(メル・ギブソン)のトウモロコシ畑にミステリー・サークルが出現する。同時に飼い犬のフーディニが凶暴化し、幼い兄妹を襲う。街でもおかしなことが起こり始める。やがてミステリー・サークルは世界各地に出現していることが分かる。短時間で大量に出現したことをみると、いたずらではあり得ない。これは何かの兆候(サイン)なのか。という予告編で描かれたことまでしか書けないが、映画は表面上、50年代SF映画風に進行する。古くさい手法だが、これでもまともに撮れば、それなりの映画にはなっただろう。事実、シャマランの演出は決して悪いわけではない。小さな街の一家族に焦点を絞り、世界各地の異常現象の恐怖とサスペンスを集約させている。「光る眼」や「盗まれた町」が成功したのは舞台を広げすぎなかったからで、シャマラン、その点では過去のSFを踏襲しているのである。

 グラハムは弟(ホアキン・フェニックス)と2人の子どもとともに家の窓を塞ぎ、地下室に逃げる。この描写は外で何が起こっているか分からないという点で、核戦争の勃発でシェルターに逃げたような感じを受けるが、なかなかのサスペンス。ただ、子どもが喘息にかかっているという設定は「パニック・ルーム」に似てしまった。先行する映画があるのだから、変えたいところだが、ここを変えると、終盤の主人公の心境の変化が描きにくくなるし、少なくとも、単にサスペンスの一要素に過ぎなかった「パニック・ルーム」よりは必然性がある。

 困るのはこの50年代SF風の話にシャマランがちっとも興味を持ってないらしいこと。SFを愛していないと言ってもいい。ここで語られるのはすべて主人公の変化を語るための材料なのである。これはどこかの団体の宣伝映画かと思えるほど。というか、そのまんま使えるでしょう、宣伝に。アメリカではどうだか知らないが、日本ではこんな結論、受けないだろうと思う。