2003/11/03(月)「キル・ビル vol.1」

 撮影中に長くなりすぎて2本に分けたというクエンティン・タランティーノの新作。首が飛んだり、腕が飛んだりするこういう血みどろアクションを3時間以上も見せられたら観客は体力的にもまいっていただろうから、その意味でも2本に分けたのは正解だったと思う。アクションのタッチは劇画調で途中にあるアニメも劇画調。時間軸を前後に動かして話を語るいつものタランティーノのタッチだが、最初に“映画の巨匠”深作欣二への献辞が出て、そのまま映画は70年代の東映アクションを思わせる展開を突っ走る。もうタランティーノの趣味の世界。好きなものをあれもこれもと詰め込んで、独自のアレンジを加えてどこにもないような日本風味を振りかけてある。

 ヤクザの女親分、オーレン・イシイ(ルーシー・リュー)が片言の日本語で「ヤッチィマイナー」と叫ぶ場面とか、その用心棒がゴーゴー夕張(栗山千明)という名前であったりとか、時々ある誤解に満ちた日本ロケ作品を思わせもするのだが、タランティーノの日本趣味はヤクザ映画に偏っているところがもうなんというか、スバラシ過ぎる。ラストクレジットには梶芽衣子「怨み節」まで流れるのだから恐れ入る。「怨み節」のフルコーラスを聴いたのは久しぶりだ(サントラには「修羅雪姫」のテーマソングはあっても「怨み節」は入っていないようだ)。「鬼警部アイアンサイド」のテーマとか他の音楽の選曲も趣味に走りっぱなしである。

 こういうハチャメチャさはとても面白いのだが、惜しむらくはクライマックス、グリーン・ホーネットみたいなクレージー88の軍団とヒロイン、ザ・ブライド(ユマ・サーマン)の壮絶なシーンの弾け具合が少し足りない。単に残虐なだけで、爽快さがない。これは2本に分けたことの弊害で、ヒロインにとってはオーレン・イシイは復讐相手の1人なだけなのだから、凄絶なアクションの理由づけに乏しいのである。あれだけ見せられると、ユエン・ウーピンの殺陣も単調に感じてくる。内容が意外に薄いのも2本に分けたためだろう。上映時間1時間53分だが、1時間ちょっとで収まりそうな内容。間延びした部分がある。

 返り血を浴びながら日本刀を振り回すユマ・サーマンはきれいで殺陣もまずまず決まっていていいのだけれど、こういう復讐のヒロインにはどこか暗い怨念を持つ雰囲気が必要。その意味では少し健康的すぎる気がする。リメイク版「修羅雪姫」の釈由美子や本家の梶芽衣子みたいな暗さ切実さ必死さが欲しかった。「バトル・ロワイアル」を見たタランティーノが抜擢したという栗山千明は出番は少ないが、印象は強く、アメリカ映画界から引き合いがあるのではないか。

2003/11/02(日)「スパイキッズ3-D:ゲームオーバー」

 3Dの長編映画を見たのは「ジョーズ3D」(1983年)以来だから20年ぶり。ストーリーは何ということはない映画で、3Dだけが取り柄なのだが、これもあまり立体に見えないのがつらい。ディズニーシーで見た「アラジン」の3Dの方がよほど立体的に見えた。目の前に見える物体に手を伸ばしてみたくなるほどだったが、これは普通の3Dアニメよりは少しは立体的かというぐらいのレベル。

 赤と青の色がついた眼鏡(「ジョーズ3D」は偏光眼鏡だった)は長時間かけていると、疲れてくる(だから途中からかけさせて、途中でやめさせたり、そのあたりは工夫してある。それでもかけている時間は1時間ぐらいあったはず)。赤の方が少し暗く感じたのは僕の目が悪いせいか?

 監督、脚本、製作、デジタル編集、音楽、プロダクション・デザイナー、編集までロバート・ロドリゲスがやっている。完璧に子供向けなので、つまらなくても怒らない。子供と一緒に戦隊ものを見に行くぐらいの覚悟で見る必要はある。

2003/10/24(金)「エデンより彼方に」

 タイトルロゴから50年代の映画風。セットもファッションも当たり前のことだが、50年代を細部まで再現している。しかし、内容的には現在の視点から50年代の保守的な町の様子を鋭く浮き彫りにしていく。異質のもの、ルールを破ったものを排除する町の人々の冷たい視線には息が詰まる。50年代のアメリカの片田舎にはどこにも本当の自由などなかったのだ。いや、これは同性愛や黒人差別を違うものに置き換えれば、今の時代、他のコミュニティにも通用することだ。

 トッド・ヘインズ監督の脚本・演出は硬派で的確で、揺るぎがない。ジュリアン・ムーアの正確な演技がそれにこたえている。見知らぬ黒人が庭を通っただけで過敏に反応していた上流家庭の主婦が自我に目覚めるまでの変化を見事に表現している。アカデミー主演女優賞はムーアに贈るのが順当だったのではないか。少なくとも「めぐりあう時間たち」との合わせ技ではニコール・キッドマンを超えている。

 1957年のコネチカット州の町ハートフォードが舞台。郊外の家に住むキャシー(ジュリアン・ムーア)は一流企業の重役を務める夫フランク(デニス・クエイド)と2人の子供とともに幸福な家庭を築いている。会社のPRにも登場し、雑誌の取材では理想的な妻として紹介される。人種差別が当然だった時代だが、キャシーは死んだ父親の代わりに庭師としてやってきたレイモンド(デニス・ヘイスバート)とも打ち解ける。しかし、幸福は一瞬にして崩れる。ある夜、帰りの遅いフランクに夕食を届けようと会社に行ったキャシーはフランクの秘密を見てしまうのだ。

 これに加えて、レイモンドとの交流も町の人々の口の端に上るようになる。楽園(エデン)と思っていた家庭や町が、キャシーにとっては苦悩に満ちたものに変わる。というより現状は嘘っぱちの楽園だったのだ。一時は修復も図ろうとするキャシーだが、状況は変わらず、自然と考え方に変化が訪れる。映画はキャシーがどうなるのか明確にしないまま終わるけれど、自我に目覚めたキャシーの将来は明るいのだと思う。現在の目から見れば、キャシーだけがまともで、他がおかしいのである。

 脚本が優れているのは白人社会だけでなく、黒人社会にも白人と黒人の男女が付き合うことを良くない風潮とする描写があること。といっても映画が目指しているのは人種差別問題だけではなく、息苦しく欺瞞に満ちたコミュニティそのものに対する批判だろう。無駄な描写は一切ない1時間47分。見終わって満足度が高かった。

2003/10/23(木)「トーク・トゥ・ハー」

 スペインのペドロ・アルモドバル監督作で、アカデミー賞でオリジナル脚本賞を受賞した。事故で昏睡状態に陥ったバレリーナを一途に愛する看護士を巡るストーリー。ラストが奇跡的な幸福感に包まれるので、つい感動してしまうが、ちょっと変な映画である。この変さ加減は中盤にあるサイレント映画の「縮みゆく恋人」の部分から始まっている。物語の展開が独自のものなので、脚本賞取ってもおかしくはないが、普通に愛の感動作とか言われると違うような気がする。

 「縮みゆく恋人」はもちろんアルモドバルの創作で、一般的には「縮みゆく人間」あたりを参照したと思えるのだが、マッドサイエンティストが登場することや、性的なモチーフが中心だったり(これは映画のその後の展開に深く関わる)、ある種のいかがわしさがあるあたり、僕が最初に連想したのは「フランケンシュタインの花嫁」だった。ついでに言うと、ヒロインに起きる奇跡は「祭りの準備」じゃないか、と思った。アルモドバルは見ていないだろうけれど。

 ベニグノ(ハビエル・カマラ)は病気の母親を15年間看病した過去を持つ。アパートの向かいにあるバレエ教室を見ているうちにバレリーナのアリシア(レオノール・ワトリング)を好きになってしまう。アリシアが落とした財布を拾って届け、ちょっと話をするが、アリシアは間もなく交通事故に遭い、昏睡状態となる。ベニグノは看護士となって、献身的にアリシアを看病する。そして自分の見た舞台や映画のストーリーを一方的に語って聞かせるのである(これがタイトルの由来)。物語の主人公はベニグノではなく、記者のマルコ(ダリオ・グランディネッティ)。マルコは恋人である女闘牛士のリディア(ロサリオ・フローレス)が競技中の事故で昏睡状態となり、アリシアと同じ病院に入院したことから、ベニグノと知り合う。そして、「(アリシアを看病している)この4年間が最も幸せな時」と語るベニグノとの間に友情が芽生える。

 特異なシチュエーション、変な題材を寄せ集めながら、それを愛の感動作に仕立てるアルモドバルの手法は面白い。この題材だと、普通はストーカーものになったり、ホラーになったりしてもおかしくないのである。それなのにどこか文学的な香りまでにじんでくるのは、アルモドバルの演出の手腕だけでなく、本質的にこの物語が愛の真実を描いているからなのだろう。一見、変化球かと思わせながら、実は直球ど真ん中、でもやっぱり投げ方は変、という感じの映画である。

2003/10/20(月)「恋は邪魔者」

 「ブリジット・ジョーンズの日記」「シカゴ」のレニー・ゼルウィガーと「スター・ウォーズ」「ムーラン・ルージュ」のユアン・マクレガーが共演したロマンティック・コメディ。

 1962年のニューヨークを舞台に「恋は邪魔者」(Down with Love)という本を出版した作家と、雑誌記者のプレイボーイの恋の駆け引きを描く。ファッションやインテリアはいかにも60年代風のポップでカラフルにまとめられて面白く、いつものようにキュートなゼルウィガーの演技を見ているだけでも楽しめる。終盤の展開にはちょっと感心。ちゃんと脚本を練っていることに好感が持てる(いったん話をひっくり返した後の展開はあまりうまくはないなと思ったら、そこも仕掛けがあった)。「チアーズ!」に続いて監督2作目のペイトン・リードは軽くリズミカルな演出を心掛けたようで、1時間41分の上映時間を飽きさせない。人工的に作り上げられた空間には少し窮屈さがあるし、本当の60年代のロマンティック・コメディはもっと面白かったような気がするが、少しも深刻ぶらないところに洗練を感じる。

 「恋は邪魔者」というノンフィクションを書いた作家のバーバラ・ノヴァク(レニー・ゼルウィガー)はPRのため、男性誌「ノウ」の記者キャッチャー・ブロック(ユアン・マクレガー)の取材を受けようとするが、プレイボーイのキャッチャーはスチュワーデスとのデートに忙しく、3回続けてバーバラとの約束をすっぽかす。腹を立てたノヴァクはもう絶対会わないとタンカを切るが、それでは本は売れない。ところが、テレビのエド・サリバンショーで紹介され、ジュディ・ガーランドが同名の歌を歌ったことから本はたちまちベストセラー。バーバラは一躍有名人の仲間入りを果たす。おまけにキャッチャーをテレビで「最低な男」と批判。ガールフレンドたちからも嫌われたキャッチャーはバーバラのスキャンダルを暴露しようと、真面目な宇宙飛行士ジップと名乗って、バーバラに接近し、得意の手腕でバーバラを恋に落とす。ついにバーバラにベッドインを約束させるが…。

 この2人の恋模様と並行して編集者のヴィッキー(サラ・ポールソン)とノウ誌のオーナーでキャッチャーの親友デヴィッド(ピーター・マクナマス)のおかしな恋が描かれる。どちらにも共通するのはウーマンリブの先取りをしたような描写であること。バーバラの本がベストセラーになったのは職場で冷遇され、男より低い地位にある女性たちを目覚めさせてしまったからで、出版社の重役たちが自分の愛人に逃げられたと渋い顔をするのが笑わせる。1962年と言えば、ケネディは暗殺されていず、ベトナム戦争の深刻な影もなかった時代。そんな時代を感じさせるおおらかなタッチが好ましく、全編に流れる60年代風の音楽(マーク・シェイマン)もいい。

 ゼルウィガーは「ブリジット…」のイメージがあるので太っているのかと思うが、この映画ではスマート。もっとも「ブリジット…」の続編のためにまたまた10キロほど太っているらしい。クレジットにユアン・マクレガーとのデュエットが流れる。「ムーラン・ルージュ」の時にも思ったが、マクレガーは声が良くて歌がうまい。低い声のゼルウィガーよりよほどうまく、またミュージカルに出ればいいのになと思う。