2003/02/13(木)「13階段」

 高野和明の江戸川乱歩賞受賞作を「ココニイルコト」「ソウル」の長澤雅彦監督で映画化。主役の刑務官を演じる山崎努の好演もあって、半分ぐらいまではこれは傑作なんじゃないかと思っていたのに、終盤、映画は急速に失速する。詳しくは書かないが、2時間ドラマレベルの終盤だった。プロデューサーの角谷優は脚本に時間をかけたという。最終的なクレジットは森下直(「誘拐」)になっているが、長澤監督や企画協力の岡田裕、山崎努らの意見も取り入れてまとめたそうだ。なのに、なぜこの程度の底の浅い話になるのかわけが分からない。「ボーン・アイデンティティー」も底が浅い話だなと思ったが、あれでも水深50センチぐらいはあった。この映画の水深は5センチほどである。

 傷害致死で服役して仮出所したばかりの三上純一(反町隆史)のところへ、松山刑務所の刑務官・南郷正二(山崎努)が訪ねてくる。死刑囚・樹原(宮藤官九郎)の冤罪を晴らすため13年前に起きた殺人事件の再捜査への協力依頼だった。依頼人は明らかにされていないが、報酬は1000万円。慰謝料に7000万円を支払い、実家が金策に困っていたこともあって純一は南郷に協力することになる。樹原は自分の保護司夫妻を殺したとされたが、オートバイの事故で事件前後の記憶がない。凶器も見つかっていない。新たな証拠を見つけ出す手がかりは最近、樹原が思い出した「階段を上っていた」という記憶だけだった。事件があったのは純一が殺してしまった佐村恭介が住んでいた町。佐村家を訪れた純一は父親の光男(井川比佐志)から「死んで罪を償え」とののしられる。一方、南郷にもかつて死刑囚を殺してしまったという罪の意識があった。2人は贖罪の意識にとらわれながら、死刑囚を助けるため犯行現場付近で階段を探し求める。

 終盤に唖然とするのはあまりにも狭い人間関係の中で事件が起きていること。犯人の作為と偶然が重なったとはいえ、これではもうあんまりである。「誘拐」も犯人の意外性と社会性で見せたから、森下直はミステリーにはある程度の理解はあると思うが、事件の詳細で明らかにされない部分も多く、この脚本はまずい。もっとポイントを絞って、死刑の是非を前面に出すような展開が加われば、映画の格ももう少し上がっていたのではないかと思う。取り上げていることが通り一遍なのである。

 長澤監督は感動するドラマを目指したそうだが、底が浅いドラマでは感動しようがない。死刑執行までのタイムリミットがサスペンスとして効いてこないのも弱い。たぶん、長澤監督はミステリーやサスペンス映画には向かないのだろう。

 なぜ事件の再捜査を刑務官に頼むのか、という釈然としない部分があるにせよ、山崎努の自然な演技は相変わらずうまい。反町隆史も眼鏡を掛けた内向的な役柄をそつなく演じている。刑務所の所長役を「刑務所の中」を監督した崔洋一が演じているのは狙ったことではないのだろうが、崔洋一は「御法度」に続いてまたまたうまい。この人は口跡が良く、外見の貫禄もこうした役柄にピッタリである。

2003/01/29(水)「黄泉がえり」

 「俊介、なんで葵を残して死んだんだよ。葵は俺じゃダメなんだよ」と言いながら、主人公の平太(草なぎ剛)は俊介の角膜を持って鹿児島から阿蘇へと急ぐ。俊介と平太と葵(竹内結子)は聖なる三角関係にある。いや、あった。葵にプロポーズすることを俊介が平太に相談したため、平太は自分の思いを隠し続けてきた。俊介は海で死んだが、葵は今も俊介を愛している、と自分で思っている。

 身近にいる男の良さが分からずに遠くへ行った男のことを思い続けるというのは山本周五郎の小説を持ち出すまでもなく、切ない設定だ。葵が平太の自分に対する気持ちと自分の本当の気持ちを気づく場面がなかなか感動的である。人が甦るには甦ってほしいと強く願う人が必要なのだった。

 同じことはいじめに遭って「死んでみせる」と言って自殺した山田克典(市原隼人)にも言える。山田は甦って自分のことを思ってくれていた森下直美(長澤まさみ)の存在を知る。直美こそが自分の甦りを強く願っていた人だった。

 ラーメン屋で働く中島英也(山本圭壱)は2年間、店主の玲子(石田ゆり子)のことを思っていた。そこへ死んだ亭主の周平(哀川翔)が甦ってくる。傷心の英也のところにも風邪をこじらせて14歳死んだ優一(東新良和)が甦ってくる。両親を亡くして兄弟2人で親戚をたらい回しにされ、あげくに孤児院に預けられたという英也の独白が泣かせる。

 という風に「黄泉がえり」は甦ってくる人々とそれを願う人々のエピソードで構成される。もちろん中心になるのは平太と葵の関係なのだが、塩田明彦監督はまず、こうしたさまざまなエピソードをいくつも積み重ねていく。黄泉がえりの理屈も一応、山中で見つかった巨大なクレーターとの関係で説明されるが、詳しくは描写されない。だからこれはSFではなくファンタジー。甦りを願う人と甦った人とを説得力を持って描いていくのはなかなか難しく、いくつかの傷はあるが、それでも邦画のファンタジーとしては成功の部類に入る出来だと思う。

 誰もが指摘するようにクライマックスのコンサートの場面は長すぎる。あれほど長くするのなら歌手のRUI(柴咲コウ)のエピソードをもっと増やす必要があっただろう。本筋から浮いてしまったのは残念だ。

2003/01/24(金)「AIKI」

 例えば、病院で同室の火野正平から「おまえよー、1年生きてみろよ。1年たってもまだ自殺したいなら、俺は止めないよ」と言われた主人公の加藤晴彦が1年たってもまだ飲んだくれていたり、合気柔術を習った後に、かつてボコボコにされた3人組のチンピラに再会した主人公が再びボコボコにされたり、バイアグラの2倍効くというバイバイアグラを飲んだのに肝心のところで役に立たなかったりという風に映画は少しずつ定石を外している。それにもかかわらず、交通事故で下半身マヒの身の上となった青年が合気柔術を通じて再起するという前向きな話の大筋だけはその軌道をまったく外してはいない。「どうせこうなるだろう」という観客の予想を裏切るのは、ありきたりの展開にしないための工夫であり、小さな場面での定石の外し方は実は観客への大きなサービスなのである。この脚本の作りには相当感心した。

 この青春映画として見事な脚本を火野正平や石橋凌や桑名正博やともさかりえや原千晶や、もちろん主演の加藤晴彦が生き生きと演じており、映画の充実度は極めて高い。前半で障害者のリアルな日常と落ち込んだ精神状態を描きつつ、ユーモアをたくさん挟んでエンタテインメントに仕立てた天願大介監督の手腕は大したもので、キネ旬ベストテン5位にも納得である。主人公がゆっくりと再起へ向かう姿がとてもいい。元気の出る映画であり、気分良く映画館を出られる映画である。

 天願大介は言うまでもなく今村昌平の息子だが、父親とはまったく違う作風。いやイマヘイの映画にもユーモアはあふれているのだが、あの粘っこい描写は見当たらず、さわやかな作風なのだ。どこかアメリカナイズされたところがあり、これが劇場映画2作目(1作目はドキュメンタリーだったから劇映画は初めて)とはとても思えない出来である。父親の作品4本で脚本を務めたことがかなり勉強になっているのではないか。

 それにしても、いかさまのサマ子を演じるともさかりえは良かった。初めて良さを引き出されたのではないかと思う。石橋凌の穏やかな合気柔術の先生役も実にぴったりな感じだった。「下半身マヒの世界へようこそ」と言う火野正平とテキヤを演じる桑名正博も絶妙のおかしさである。脚本が良くできていて、役者のアンサンブルが素晴らしければ、映画が面白くなるのは当然だ。

2003/01/22(水)「壬生義士伝」

 「たそがれ清兵衛」と同じ東北の下級武士が主人公で、清兵衛と同じく剣の達人。主人公が幕末の戦乱で死ぬところまで同じである。しかし、描かれること、描き方は大いに違う。主人公は貧困に苦しむ妻子を救うために脱藩し、新撰組に入るが、「義のために」負け戦に参加し、「義のために」死ぬのである。国家や組織のために自分を捨てて忠誠を誓うという考え方は気持ち悪くてしょうがないので、この映画にもまったく乗れなかった。

 映画の作りとしても、戦いで重傷を負った主人公のその後を延々と描き、その子どものことまで描く構成は何とかならなかったのか。主人公がかなわないと分かっていながら、朝廷の軍へ突撃する場面で終わっていれば、まだ映画の印象は良くなったのかもしれない。余計なことを描きすぎなのである。主人公の話に絞らなければ、長い原作を映画化するのは無理。ダイジェストにしかならない。

 「たそがれ清兵衛」が主人公の貧しさを前半で徹底的に描いたのとは対照的に、この映画での貧しさは記号のようなものである。だから話に説得力が足りないし、薄っぺらなのだ。だいたい、貧しさから抜け出すために人殺し集団の新撰組に入った主人公には共感を持ちようがない。自分の家族を救うためなら、こいつは平気で人を殺すのだ。キネマ旬報1月下旬号で佐藤忠男が指摘しているように、前半は家族のために動いていた主人公が後半、義のために動くのはテーマの突き詰め方が足りなかったためだろう。お涙頂戴のレベルを超えられなかったのはそのためだ。映画の作りが安いのである。

 監督は滝田洋二郎。ひいきの監督なのだが、今回は支持できない。主人公の吉村貫一郎を演じる中井貴一は好演しているものの、多少オーバーアクト気味なところが気になった。妻役の夏川結衣は鈴木京香に似ている。