2003/09/26(金)「サハラに舞う羽根」

 原作は1902年に刊行されたA・E・W・メイスンの冒険小説。過去に6度、映像化(テレビも含む)されているという。それを「エリザベス」のシェカール・カプール監督で映画化した。戦地に赴く寸前に除隊して、友人3人と恋人から白い鳥の羽(臆病者の印)を送られた主人公が、その汚名を晴らすために奮闘する。スーダンに潜入し、砂漠でひげ面でボロボロになるあたり、リチャード・ハリス「荒野に生きる」やロバート・レッドフォード「大いなる勇者」のようである。冒険小説のルーティンを踏んでいる描写であり、冒険小説の好きな人にならこういう描写は理解されるだろう。しかし、映画全体として見ると、主人公の行動に違和感がある。その違和感の根本にあるのは軍隊批判や反戦意識を持つ主人公なのに結局、戦地に行き、アフリカ人を殺すことになることだ。これではどうも首尾一貫しない。というか、汚名を晴らす方法が間違っているとしか思えない。

 もちろん、カプール監督は列強支配も経験したインド出身の人だから、そのあたりの気遣いは細部に感じられるのだが(アフリカ人を殺すのは友人を助けるためである)、イギリスの支配に対する「マフディーの反乱」を背景にした物語と主人公の設定では共感は得にくいだろう。一時は将軍の父親から勘当同然となった主人公にラスト近く、「お帰り、ハリー」と呼びかけさせてしまっては、政府や軍の在り方を肯定していることになる。原作を離れても、「僕は誰のためにでも戦争になど行きたくない」と言うセリフに沿ったキャラクター、物語にすべきではなかったのか。

 中盤にCGを使わないスケールの大きいモブシーンがある。こういうシーンも久しぶりで、見応えのあるシーンに仕上がったのはセカンドユニットのアクション監督にヴィク・アームストロング(「ダイ・アナザ・デイ」「トゥモロー・ネバー・ダイ」など)が加わっているためか。物語のまとめ方に難があるので、ここも十分に楽しめないのは残念だ。

 主人公のハリーを演じるのは「チョコレート」などのヒース・レジャー。恋人役でケイト・ハドソン、親友役に「アメリカン・ビューティ」のウェス・ベントリー。ケイト・ハドソンは別にハドソンでなくても良いような役柄。いくら、軍人になり、国のために死ぬことが栄誉とされた時代であっても、恋人に羽根を送るようなヒロインなんて最低である。

2003/09/24(水)「トゥームレイダー2」

 2年ぶりの続編で、監督がサイモン・ウエストから、「スピード」のヤン・デ・ボンに代わった。しかし、映画の印象は変わらない。アンジェリーナ・ジョリーとアクションは良い出来なのに、ドラマの部分が食い足りない。ヤン・デ・ボンの起用はアクション重視の結果だろうから仕方がないが、もう少しドラマティックな盛り上がりも欲しいところ。ララ・クロフトと元恋人の関係などはドラマティックな面を意識したのだろうし、クライマックスの処理はなかなかハードボイルドチックだが、これだけでは物足りない。これは相手役の男優(ジェラルド・バトラー)が弱いためでもある。アクションカタログであることを承知の上なら、それなりの満足はできるかもしれない。

 今回はパンドラの箱を巡る冒険である。ギリシャの大地震で海底にアレクサンダー大王の神殿が姿を現す。現場に着いたララ・クロフト(アンジェリーナ・ジョリー)は神殿で黄金の珠とメダルを見つけるが、不審な男たちが神殿を訪れ、ララから珠を奪い、ララの仲間2人を殺す。男たちの黒幕はノーベル賞受賞の科学者ジョナサン・ライス(シアラン・ハインズ)で、ライスは究極の生物兵器を手に入れようとしていた。珠は「生命の揺りかご」と呼ばれる地に隠された「パンドラの箱」の場所を示すものだった。パンドラの箱がライスの手に渡れば、人類滅亡の危機。ララはかつての恋人で収監されているテリー・シェリダン(ジェラルド・バトラー)の助力を得て、珠を奪い返そうとする。

 ギリシャから香港、上海、アフリカと舞台を変えて大がかりなアクションが繰り広げられる。基本は「インディ・ジョーンズ」なのだが、空中アクションが多いのを見ると、007も意識しているようだ。香港の繁華街でのアクションや高層ビルから飛び降りて滑空する場面など見事な出来と言ってよい。二丁拳銃を操るジョリーはカッコイイし、ちゃんと弾倉を替える描写があるのがうれしいところ。クライマックスには正体不明の怪物も出てくるなどサービス精神旺盛である(ここは何となく「ロード・オブ・ザ・リング」の雰囲気)。

 ビジュアル面では十分成功しているのだから、なおさら脚本に工夫が欲しいところ。アリステア・マクリーン的な仕掛けを取り入れるとか、ララと元恋人の描写を充実させるとか、いくらでも方法はあるはずだ。脚本のディーン・ジョーギャリスはこれがデビュー作とのこと。第3作を作るなら、脚本にも力を入れてほしい。

2003/09/19(金)「ロボコン」

 高専のロボットコンテストをテーマにした理数系の青春映画。「ウォーターボーイズ」などのスポ根映画のように落ちこぼれチームが勝っていく物語を古厩智之監督は淡々と端正に演出し、好感の持てる作品に仕上げた。クライマックスの全国大会は長回しで撮影しており、本当の大会のように思える出来。そこまでの物語を必要以上にドラマティックにせず、大会の場面で一気に盛り上げる演出はうまい。この大会の試合展開も出場するロボットのバラエティと内容の多彩さで面白い(手も足も出ないと思われた相手チームの「八の字積み」を攻略する手法に感心した)。しかし、一番の魅力は映画初主演の長澤まさみ。これまでの出演作(「クロスファイア」「なごり雪」「黄泉がえり」)ではほとんど印象がなかったが、何事にもやる気のなかった女の子が競技に燃える姿を素直にさわやかに好演しており、これでブレイクしそうな感じがある。

 映画で描かれるロボットコンテストは3つの台にラジコン操作のロボットで段ボールの箱を積む。これは昨年の大会で課題となった競技(「プロジェクトBOX」と言うらしい。NHKが絡んでいるからか?)。映画にも昨年の大会に出たロボットがいろいろ出てくる。

 主人公の葉沢里美(長澤まさみ)は山口の徳山高専の生徒。冒頭、保健室でぼけーっとベッドに横たわっている姿に象徴されるように、高専生活で何も目的がない。里見はロボット作りの課題でも手抜きをして担任教師(鈴木一真)から1カ月の居残り授業かロボット部への入部かを迫られる。入部させられたのは第2ロボット部。部員の多い第1ロボット部と違って、部員は部長の四谷(伊藤淳史)と設計担当の航一(小栗旬)、組み立て担当でほとんど幽霊部員の竹内(塚本高史)の3人だけである。練習試合では第1ロボット部にあえなく敗れ、馬鹿にされる始末。中国地区大会でも初戦敗退するが、ロボットのユニークさを評価されて全国大会に出場することになる。4人は旅館で働きながら合宿してロボットを改良。里美は俄然やる気を出し、他の3人も大会に向けて一丸となる。

 部員たちのキャラクターを徐々に鮮明にしていく演出は確かなもので、やる気がなかったり、内気だったり、いい加減だったり、ニヒルだったりしていた生徒たちが、競技を通じて変化していく姿を自然に見せる。4人の好演と相俟って、気持ちのいい展開である。特に木訥な感じをうまく表現した伊藤淳史に感心した。長澤まさみは笑顔が良く、合宿に行く途中のトラックの荷台で「夢先案内人」を歌うシーンや、4人でラーメンをすすりながら「ずっときょうが続けばいいのにね」とポツリと言うシーンなど良い感じである(そこを特に強調しない演出もいい)。役者ではこのほか、「ピンポン」でも独特のセリフ回しで笑わせた荒川良々(よしよし)が第1ロボット部の部長の役でまたまたおかしい。

 生徒たちをデフォルメしてコメディに徹した「ウォーターボーイズ」も僕は好きだが、古厩監督の淡々とした演出も悪くないと思う。ただ、淡々とした分、メリハリに欠ける面はあるし、1時間58分の上映時間も少し長い気がする。1時間40分程度にまとめると、もっと締まっただろう。

2003/09/15(月)「閉ざされた森」

 「ダイ・ハード」のジョン・マクティアナン監督のミステリ。パンフレットでミステリ作家の有栖川有栖と貫井徳郎が「『翻弄される快感』に満ちた映画だ」「ここまで見事にだまされた経験はここ数年では憶えがない」と誉めているが、多分にリップサービスではないか。プロット自体は良くできているけれど、中盤、兵士の証言によって真相が“藪の中”に入っていくくだりが今ひとつ面白くなく、真相が明らかになっても「ああ、そうですか」という感じにしかならないのだ。「そうだったのか!」とハタと膝を打つようなシーンはないし、これはミステリのためのミステリ。伏線は細かく張ってあり、いわゆる本格ものに近い感触はあるが、物足りない思いが残る。

 脚本は「Darkness Falls」(日本未公開)に続く2作目のジェームズ・ヴァンダービルトのオリジナルらしい。ハリケーンの中、パナマの米軍基地から訓練に出たレンジャー隊のウエスト軍曹(サミュエル・L・ジャクソン)以下7人がジャングルの中で行方不明になる。救出に向かったヘリの目の前で隊員同士の銃撃戦があり、1人は死亡。救助された2人のうちケンドルは重傷を負い、ダンバーはジャングルで何が起こったか完全黙秘を続けている。捜査に当たったジュリー・オズボーン大尉(コニー・ニールセン)の手には負えないと判断したスタイルズ大佐(ティム・デイリー)は元レンジャー隊員で麻薬取締局捜査官のトム・ハーディ(ジョン・トラボルタ)に捜査を依頼する。ハーディには捜査に絡む収賄容疑がかかっており、ジュリーには信用できないのだが、黙秘を続けていたダンバーから見事に供述を引き出す。しかし、続いて供述したケンドルはダンバーとはまったく別の話を真相として語る。

 証言者によって話が二転三転するというパターン。事件の背景として同性愛や麻薬や上官への憎しみなどが出てくるが、どれもこれも通り一遍の描写で物語に深くかかわってはこない。真相が明らかになってみると、それは仕方がないかなという気もする。ゲームのような話なのである。頭の中だけで組み立てた話、パズルを組み合わせることだけに心を砕いた話であり、物足りない思いはそこから来ている。「羅生門」のようにヒューマニズムを出せとは言わないけれど、パズラーにプラスαとなるものが欲しいのだ。行方不明の7人の描き分けも今ひとつである。観客に罠を仕掛けるのなら、もう少しうまく仕掛けて欲しい。ヴァンダービルトの脚本はその意味で若書きの感じが拭いきれない。マクティアナンの演出も、どうもミステリの基本をわきまえたものとは言えない。

 終盤、タマネギの皮をむくように新たな真相が顔を出す展開は小説で読むと楽しいのだろうが、映画では目まぐるしいだけ。映画の場合、謎だけで引っ張っていくのはなかなか難しいのだなという思いを強くした。

 ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンはいつものように好演といって良い。コニー・ニールセンは「ミッション・トゥ・マーズ」「グラディエーター」ではもう少し魅力的だったような気がする。

2003/09/12(金)「ムーンライト・マイル」

 心に傷を持つ若い2人の切ないラブストーリーと見てもいいし、娘を失った中年夫婦が失意のどん底から再生する物語と見てもいい。重たいセリフが散りばめられながら、独りよがりにならずに娯楽映画として仕上げることを忘れなかったブラッド・シルバーリングの脚本・演出はとても充実している。キャラクターの彫りの深さは賞賛に値する。ダスティン・ホフマンとスーザン・サランドンがうまいのは当然にしても、主演のジェイク・ギレンホールとメジャー映画デビューとなった女優エレン・ポンペオも非常に魅力的である。脚本と俳優の演技が高いレベルでマッチしており、一部に甘い部分があるにしてもアメリカ映画の良い伝統が息づく良質の作品と思う。

 ストーリーはシルバーリング監督の体験に基づく。1989年、シルバーリングの恋人だった新人女優のレベッカ・シェーファーはストーカーによって銃で殺されたのだ。映画は1973年のマサチューセッツ州のある町を舞台にしており、ベン・フロス(ダスティン・ホフマン)とジョージョー(スーザン・サランドン)の一人娘ダイアンがコーヒーショップで流れ弾に当たって死ぬという設定である。

 ダイアンの婚約者だったジョー(ジェイク・ギレンホール)は葬儀後、ベンの精神分析医から失意の2人を励ますためにしばらく一緒に暮らすよう頼まれる。ジョーにはある秘密があって気が進まないのだが、ベンもジョージョーも哀しみをまぎらすためにジョーを必要としていた。ジョーはベンの不動産の仕事を手伝うようになる。ある日、結婚式の招待状を回収するために町の郵便局に行ったジョーは局で働くバーティー(エレン・ポンペオ)と出会う。偶然にもバーティーはベンが地上げを計画する商店街で「キャルの店」という酒場を手伝っていた。

 中盤、ジョーがバーティーに秘密を打ち明けるシーンが胸を打つ(アメリカの予告編はこの秘密を伏せているのに日本の予告編は平然とネタを割っている。これはいかがなものか)。バーティーは自分を偽って生きていくジョーの弱さをなじるが、お互いに苦悩を抱える2人は急速に接近していく。ベンとジョージョーの夫婦関係も陰影に富んだもので、悲しんでいるばかりではなく、他人から安易な同情を受けることも拒否している。親子の関係、夫婦関係、恋人同士の関係を深い視点で描いてあり、シルバーリング監督、題材を長年温めてきただけのことはある。ダイアンを撃った犯人の裁判で自分の本当の思いを訴えるジョーの姿は何だかジェームズ・スチュワートを彷彿させた。

 ホフマンとサランドンに比べて、同じオスカー女優でも弁護士役のホリー・ハンターはやや演技のし甲斐がない役柄で損をしている。エレン・ポンペオはこの映画の後、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」と「デアデビル」にも出ているそうだが、どの役だったのかまるで印象がない。ボストン出身で年齢は不詳だが、今後に注目したい。