2004/07/04(日)「シャーロット・グレイ」

 「何か私にできることがあるはずだわ。しなくてはいけないことが…」。匿っていたユダヤ人の子ども2人をドイツ兵に連れ去られたシャーロット・グレイ(ケイト・ブランシェット)は必死に考える。そしてタイプライターに向かう。

 列車の中でフランス語に堪能なところを買われて、諜報員の誘いを受けたイギリス人のシャーロットはフランスのレジスタンスに協力する理由を「国のため」と答える。最初の理由としてはフランスへ行ったパイロットの恋人に会えるかもしれないという期待もあったのだろう。しかし、フランスでナチスの手先となった卑しい人間を目の当たりにし、レジスタンス仲間の死に立ち会い、ユダヤ人なら子供でさえ連れ去られてしまうという厳しい現実を知ることで変わっていく。ブランシェットはいつものようにその変化を絶妙の演技で見せる。

 セバスチャン・フォークスのベストセラー(1999年)を女性監督のジリアン・アームストロングが映画化。甘すぎるラストなど見ると、全体的には女性映画の範疇に収まってしまう映画だが、ブランシェットの演技を見るだけでも価値がある。ブランシェットは例えば、ニコール・キッドマンやナオミ・ワッツのような正統的な美人ではないけれど、その雰囲気と演技のレベルの高さがとても魅力的な女優と思う。

 シャーロットと愛し合うようになるレジスタンスにビリー・クラダップ、その父親をマイケル・ガンボン(「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のダンブルドア校長役)が演じていて、特にガンボンの存在感が圧倒的だ。

2004/07/03(土)「シルミド」

 韓国で「ブラザーフッド」に抜かれるまで興行収益のトップだった作品。これも1200万人が見たという。誤解しやすいのだが、大ヒットする作品の質が必ずしも高いわけではない。「ブラザーフッド」とこの映画を見て、改めてそう思う(キネマ旬報によると、韓国で観客動員数が増えたのはシネコンの増加が背景にあるという)。まずまず面白い映画に仕上がってはいるけれど、絶賛するほどではない。

 死刑囚やヤクザを集めて訓練し、北朝鮮の金日成暗殺部隊を組織する話。実話を基にしたフィクションだが、こういう話ならば、もう少しキャラクターが立ってほしいと思う。指導官役の名優アン・ソンギや部隊のリーダー格ソル・ギョングなど渋くていいキャラクターだし、他の兵士もそれぞれに描き込まれているのだけれど、まだまだ物足りない。もっと強烈なキャラが欲しいところだ。

 1968年に北朝鮮の特殊部隊が朴大統領を暗殺するため韓国に潜入する。暗殺は阻止したが、韓国政府はショックを受け、逆に金日成主席暗殺を計画。死刑囚など重罪を犯した犯罪者31人を集め、無人島のシルミ島で空軍の684部隊の訓練兵として過酷な訓練が始まる。訓練の途中で死ぬ者も出るほどの過酷さだが、次第に隊員たちは実力を付け、隊員同士の結束も生まれる。3年が過ぎ、やっと金日成暗殺の指令が下るが、途中で中止命令が出る。南北関係は対立から対話に変化しつつあり、684部隊も邪魔な存在になってきたのだ。韓国政府は訓練兵たちの抹殺を命令する。

 物語は1968年から順を追って語られる。事件はクライマックスのバスジャックで明らかになったわけだから、ここを冒頭に持ってきて振り返るという構成がハリウッド映画などでは一般的なのではないかと思う。そういう意味ではあまり工夫がない構成である。前半の訓練シーンが長すぎるのをはじめ脚本の出来は決して良くない。こういう男ばかり出てくる映画で、史実に絡む話だと、ついつい脚本家には笠原和夫のような才能が必要と思いたくなる。

 はぐれ者たちが途中で国家に裏切られ、国家への反逆を決意するという話は冒険小説にもよくあるタイプの話で個人的にはとても好きなのだが、この映画の場合、どうも入り込めない部分が残った。描写がうまくないのである。監督はカン・ウソク。2時間15分の上映時間はもっと刈り込んだ方が良かったと思う。

2004/06/30(水)「ジーパーズ・クリーパーズ」

 フランシス・コッポラ製作、ヴィクター・サルヴァ監督作品。ネットで調べると、感想ムチャクチャですね。確かにこのラストは納得いかないけれど、テレビで見るだけなら、そんなにひどい映画ではない。続編ができたのはこのラストに怒った人が多かったからか、製作者の方でも消化不良と考えたからか。

 映画は「激突」的な描写に始まって、サイコ殺人みたいな描写が続き、すぐにB級モンスター映画になる。モンスターの姿形は、はっきり見せるが、その正体はあいまい。姿形から想像してくれということか。こういうタイプのモンスターというのも久しぶりに見た。魔物という形容の方が似合いそうだ。

 しかし、これはモンスターなど出さず、前半にあるようなアメリカの田舎の怖さを描いた映画にした方が良かったのではないかと思う。アメリカ南部の閉鎖的な田舎町には本当にサイコなやつらがウヨウヨいそうだ。正体不明の何かに追われる姉弟が入ったダイナーの人々の冷たい視線など、それを思い起こさせる。まずまずの出来の前半に比べて、後半が腰砕けなのは脚本にアイデアが足りないからだろう。モンスターの正体にもっと肉薄する描写がほしいところだ。モンスター映画はモンスターを子細に語ることが必要なのだ。

 主演のジーナ・フィリップスは美人に思えたが、IMDBにある写真を見ると、ちょっとがっかり。

2004/06/29(火)「ブラザーフッド」

 「俺はお前のために靴磨きになった。母さんはお前のために市場で働いて腰が曲がっても、少しも苦に思っていない。お前は家族の夢であり、希望なんだ」。兄弟2人一緒に無理矢理徴兵されたジンテ(チャン・ドンゴン)は高校生の弟ジンソク(ウォンビン)にそう話す。地獄のような戦場から弟を無事に帰すため、ジンテは地雷埋設の危険な任務に進んで参加し、奇襲作戦の提案もする。武勲を挙げ、勲章をもらえば、弟を除隊させることができるからだ。しかし、ジンテのあまりに非情な振る舞いにジンソクは次第に反発するようになる。

 南北統一への悲痛な思いをスパイ戦に絡めて描いた傑作「シュリ」のカン・ジェギュ監督が朝鮮戦争を題材に取った戦争映画。韓国で史上最高の1,200万人以上の観客を動員したという。同じ民族同士で殺し合わねばならなかった朝鮮戦争の悲劇を詳細に描き、戦場の惨禍を徹底的に描き出す。これに兄弟の泣きのドラマを入れて、隙のない映画になるはずだった。残念ながら戦場シーンは「プライベート・ライアン」に及ばず、泣きの部分も作りがうまくない。細部の作り込みに荒さが残る。

 冒頭、平和な時代(とはいっても第2次大戦終結から1950年までの5年間にすぎない)の兄弟の交流にはわざとらしさを感じるし、軍隊から列車に乗せられ、恋人ヨンシン(イ・ウンジュ)と母親に別れを告げるシーンの演出は大仰に思える。演出過剰の部分は「シュリ」にも見られたのだが、「シュリ」にはそれを超えて見る者を納得させる熱い思いがあった。もちろん、この映画にもその熱さは受け継がれているのだけれど、ジンテの終盤の行動は常軌を逸したものにしか見えてこない。

 イデオロギーに立脚せずに戦争を描くことは、興行上の意味から見ても有利だし、広く大衆性に訴える利点がある。だからこの映画は韓国で大ヒットしたのだろう。ただし、ドラマの作りとしては、兄弟愛を中心に据えるのもいいが、バカな戦争を引き起こした者たちへの批判も必要に思う。この映画の終盤が極端な展開になったのはこの批判の視点が甘いからだと思う。共産主義勢力とアメリカの代理戦争的側面を描き出し、戦争によって苦しめられる民衆の怒りの矛先を明確にしないと、小さな兄弟愛の話だけで終わってしまうことになる。

2004/06/08(火)「21グラム」

 それぞれの場面をシャッフルした後に再構成したように時間軸を前後に動かして物語を語っている。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の前作「アモーレス・ペロス」を僕は未見だが、これも同じ構成という。この構成にどんな意味があるのかよく分からない。例えば、クリストファー・ノーラン「メメント」やクエンティン・タランティーノ「パルプ・フィクション」には時間軸を動かすこと自体に意味があったが、この映画の題材の場合、普通に語っても何ら構わないはずである。主演3人の演技を含めてかなりの力作であり、寂寥感漂う厳しさを備えた映画ではあると思うが、この構成は気になった。

 交通事故で夫と娘2人を亡くしたクリスティーナ(ナオミ・ワッツ)と、その事故を起こしたジャック(ベニチオ・デル・トロ)と、クリスティーナの夫の心臓を移植されたポール(ショーン・ペン)の物語。クリスティーナは薬物中毒を乗り越えて幸せな生活をしていた矢先に家族を失う。ジャックは前科のある生活から足を洗い、真面目に信仰心篤く暮らしていた時に事故を起こす。ポールは余命1カ月と宣告されていた時に心臓移植を受けるが、その心臓も拒絶反応を起こしていたことが分かる。3人それぞれに不幸と孤独に苛まれている。クリスティーナは家族を亡くしたから孤独なのだが、あとの2人は妻がいても妻子がいても基本的に分かり合えないものがあって、孤独なのだ。「それでも、人生は続く」“Life is just going”というセリフを3人とも慰めの言葉としてかけられるけれど、そんな言葉ではどうしようもないほど3人の絶望は深い。

 その3人が出会った時に何が起きるのか、というのが映画のクライマックスとなる。ただし、映画は最初の方で3人に何が起きたかをワンカットだけ見せる。それはミステリ的な興味を観客に持たせる意味合いはあるにしても、物語の悲劇性や観客のショックを薄める効果としても作用してしまう。題材と手法が合わない。本格の題材を変格で語っている。この手法に観客の目をくらませる以上の意味はない。端的に僕はそう思う。物語をどう語るかに腐心することは大事なことだけれど、それを余計に感じる題材というものもあるのだ。

 孤独を共有しているからこそ、クリスティーナとポールは惹かれ合う。2人が惹かれ合うのは恋愛感情のためではなく、仲間意識みたいなものだろう。そしてこれとは対照的にクリスティーナが幸せを奪ったジャックに憎しみを抱くのは当然のことだ。「右のほほを打たれたら、左のほほを出せ」という聖書の教えを忠実に守るジャックはクライマックスでもその教えを守ることになる。ただ、僕はこのクライマックスも突然、21グラム云々のナレーションが流れるラストの処理にも物足りなさを感じた。イニャリトゥ監督は構成に凝るより、物語をもっと突き詰めることに時間を割いた方が良かったと思う。

 ナオミ・ワッツが分かりやすい熱演なのに対して、デル・トロとペンの演技は奥が深く、見応えがある。観客が感動するのは題材よりも細部なので、この3人の繊細な演技が映画を支えているのだと思う。