2004/03/17(水)「クイール」

 崔洋一監督がベストセラーの実話「盲導犬クイールの一生」を映画化。パンフレットによると、少年少女から大人まで“万人が楽しめる娯楽作品”を狙ったそうだ。だからといって、別につまらないわけではないが、どこにも感心する部分がなかった。目新しい部分もなかった。犬の表情を粘って撮ったとはいえ、普通の感動作である。いや、普通の感動作は必要だし、事実、きょうは観客も多かった。良い映画、泣けるという口コミが広まっているのだろう(女性の日のためでもあるが)。

 崔洋一がこういう映画を作ったこと自体驚きで、撮っても構わないけれど、どこか崔洋一らしい部分が欲しいところだった。いつもうまさに感心する香川照之は演技のしどころがない役柄だし、昨年の主演女優賞を総なめにした寺島しのぶも同様。中心となる視覚障害者を演じる小林薫にはちょっと見所があるけれど、それとて映画を引っ張っていくほどのものではない。テレビ東京創立40周年記念映画なのだそうだ。テレビ放映だけでも十分な作品である。

 だいたい、人の死や犬の死を感動に結びつける話は嫌いである。そういう部分で感動を狙う手法は古いし、あざとい。その前の部分で話を面白くする工夫が必要だろう(脚本は丸山昇一、中村義洋)。崔洋一監督には次作の「血と骨」を期待したい。

2004/03/12(金)「イノセンス」

 「Ghost in The Shell 攻殻機動隊」を今、見直してみると、「マトリックス」にどれほど大きな影響を与えたかよく分かる。「マトリックス」は結局、設定を生かし切れずに「レボリューションズ」では現実世界の戦争アクションにしてしまったが、押井守はウォシャウスキー兄弟とは違って、テーマを突き詰め9年ぶりの続編を思索的なSFミステリに仕上げた。タッチは「ブレードランナー」、基本テーマはアイザック・アシモフの小説を思い起こさせる(一番近いのは「夜明けのロボット」か)。両者を融合させてデジタルで再構成したSFミステリと言うべき作品である。デジタルエフェクトを使った都市のイメージなどのビジュアル面と75人の女性民謡コーラスを使った音楽(川井憲次)の素晴らしさに比べて、観念的なセリフが多い脚本は大衆性とはかけ離れているけれど、それだけで批判もできないだろう。押井守の映画に観念的なセリフが多いのは今に始まったことではない。

 刑事2人が殺人事件の謎を追うという構成はシンプルだ。人とサイボーグとロボットが共存する2032年。愛玩用のアンドロイド(ガイノイド)が暴走し、所有者を殺害する事件が頻発する。犠牲者に政治家が含まれ、テロの可能性も否定できないことから公安九課の荒巻はバトーとトグサに事件を担当させる。ガイノイドを作ったのはロクス・ソルス社。事件を起こしたガイノイドの電脳にエラーは見つからなかった。バトーとトグサは事件に関係しているらしい暴力団「紅塵会」の事務所に殴り込み、ロクス・ソルス社の本社がある択捉の経済特区に向かう。

 「ブレードランナー」はリドリー・スコットがディック原作のスペキュレイティブな部分をばっさり切り落とし、未来のハードボイルドとして単純に映画化したのが成功の一つの要因。これに未来都市の魅力的な造型が加わって、もはやSFの古典というべき映画になった。「イノセンス」はこの2つの要素を踏襲した上で、ディックの思索を付加した観がある。人間とサイボーグとロボットの関係にまつわる思索。「人はなぜ自分に似せてロボットを作るのか」。事件の捜査に合わせて、これに絡んだ箴言が登場人物の口から次々に引用される。

 事件が解決した後、サイボーグの主人公バトーは事件の犯人に対して「ガイノイドを傷つけることが分からなかったのか」と怒りを見せる。愛犬と暮らす孤独なバトーは自身がサイボーグでもあるため、ロボットと人間の関係に敏感なのである。ただ、夥しい箴言が散りばめられながらも、それが明確にテーマに昇華していかないもどかしさは残る。主人公の造型とテーマをもっと明確に結びつける物語に構成した方が良かっただろう。

 「バトー、忘れないで。あなたがネットにつながる時、私は必ずそばにいる」。“均一なるマトリックスの裂け目の向こうに”消えた前作の主人公「少佐」こと草薙素子は言う。クライマックス、ロクス・ソルス社の船の中でガイノイドにロードした素子はバトーを助け、再び去る。こういうセンチメンタルな部分を補強すれば、映画はもっと大衆性を得たと思う。その意味で今回、伊藤和典が脚本に加わっていないのは惜しい。

2004/02/26(木)「ゼブラーマン」

 「この格好でジュース買いに行っちゃおうかな」。

 ゼブラーマンのコスチュームを身に着けた市川新市(哀川翔)がつぶやく。コスチュームは自分でミシンで縫ったものである。昭和53年に視聴率低迷のため7話で打ち切られた「ゼブラーマン」の絶大なファンである主人公は大人になってもゼブラーマンに憧れている。学校の教師だが、生徒からは馬鹿にされ、そのため息子はいじめられている。娘は援助交際しているらしいし、妻は不倫しているらしい。映画は序盤、スーパーヒーローものの冗談のような展開なのだが、やがて本気になり、ダメな父親、ダメな先生が復権し、スーパーヒーローが誕生して宇宙人を撃退するまでを描く。

 これは監督の三池崇史の趣味というより、脚本の宮藤官九郎の思い入れなのだろう(と思ったが、パンフレットを読むと、三池崇史が手を入れた部分もかなりあるらしい)。「先生、聞きたいことがあるんです。…先生はゼブラーマンじゃないんですか」。鈴木京香が主人公に尋ねるセリフはなんだか「ウルトラセブン」を思い起こさせた。ちょっぴり冗長な部分はなきにしもあらずだが、僕は面白かった。Anything Goes。願えばかなうという字幕が最初に出て、映画はその通りの展開を見せる。そういう真正面から言われると恥ずかしくなるようなことを、スーパーヒーローものの設定を借りて言っている力強さがこの映画にはあり、本筋は非常にまともである。これが見ている人を熱くさせる理由なのだろう。

 スーパーヒーローになぜあんなコスチュームが必要なのか、現実世界にはまるで合わないのではないかという疑問が実はスーパーヒーローものにはつきもので、「バットマン リターンズ」でティム・バートンはそのあたりまで描いて見せた。しかし、この映画を見ると、人はコスチュームを着けることで別人になれるという効果があるのが分かる。ゼブラーマンがなぜ、あんな力を持てるのか、映画では詳しく説明されないけれど、それでもいいんだ、ヒーローになったんだからという説得力が十分にあるのだ。日常の自分とは違う格好をすることで、人は何らかの力を得るのだろう。テレビの「ゼブラーマン」は空を飛べなかったために宇宙人に負け、人類は支配されてしまう。そのためもあって主人公は飛ぶことに執着する。何度も何度も飛ぶことに挑戦し、傷だらけになる。だからようやくゼブラーマンが校舎の屋上から落ちた生徒を助けるために空を飛ぶシーンは「E.T.」の自転車が空を飛ぶシーンに近い感動がある。「俺の背中に立つんじゃねえ」「白黒つけるぜ」という序盤に出てきたセリフはクライマックスに熱を込めて繰り返される。

 主演の哀川翔は硬軟織り交ぜた演技で主演100本目にふさわしい出来。鈴木京香のゼブラナースのコスチューム(絶品!)に驚き、渡部篤郎の防衛庁の役人の面白いキャラクターにも感心させられた。志の低いパロディにしなかったスタッフと出演者を賞賛したい。

2004/02/19(木)「この世の外へ クラブ進駐軍」

 主人公の父親役で楽器店を営む大杉漣がリヤカーにオルガンを積んでいる。「ああ、ちょっと上げて。もういいですよ、下げて」と言ってオルガンを積み終えた大杉漣は「どうもすいません。通りすがりの人に」と礼を言うのだった。この場面、もう一度繰り返され、おかしさを煽る。あるいは、新宿のバーでジャズバンド「ラッキーストライカーズ」の面々に客の復員兵がいちゃもんを付け、険悪な雰囲気になる場面。カットが切り替わると、彼らは一緒に肩を組んで演歌を歌っている。この場面も2度繰り返される。こういう場面を見ると、阪本順治の細部の描写のうまさが際だっていることが良く分かる。「この世の外へ クラブ進駐軍」はそうした描写の積み重ねで戦後の日本の一断面を切り取った映画だ。

 実際、この映画に出てくる戦後の焼け跡や闇市の様子はここしばらく日本映画では描かれなかったことで、非常に新鮮さとリアルさを感じる(かなり力を入れた造型である)。そこに住み、生きる人々の顔つきもいかにも戦後の日本人という感じであり(オーディションでそういう古風な顔つきの人を選んだそうだ)、当時の様子が詳しく再現されている。

 主人公の広岡健太郎(萩原聖人)はフィリピンのジャングルで終戦を知らせるビラと飛行機から流れるジャズ(「A列車で行こう」)を聞く。健太郎は復員後、ジャズバンドを組んで進駐軍の基地で演奏することになる。広岡は一応の主人公ではあるけれど、阪本順治の狙いは主人公の生き方などではなく、ジャズバンドの仲間(オダギリジョー、松岡俊介、村上淳、MITCH)や米兵たちのそれぞれの生き方を描いて、群像劇のような趣を出し、戦後そのものを描くことにあったのだろう。歌手を演じる前田亜季やパンパンの高橋かおり、ストリッパーの長曽我部蓉子などの女優にもそれぞれにいいエピソードが与えられている。その意味では非常に充実した描写のある映画である。

 そうした描写のうまさに比べると、話の展開はそれほどうまくない。ラッキーストライカーズは禁じられた「ダニーボーイ」を演奏したことで、基地への出入りを禁じられ、他の事情も重なってバラバラになっていく。「ダニーボーイ」の演奏が禁止なのは軍曹ジム(ピーター・ムラン)が事故で亡くした息子ダニーを思い出してしまうからだ。バンドは仲間の死をきっかけに再び結集し、基地で演奏することになる。そこで歌うのは朝鮮戦争で死んだ米兵ラッセル(シェー・ウィガム)が作った「Out of This World(この世の外へ)」であり、「ダニーボーイ」である。この部分があまりうまくない。バラバラになっていく過程が簡単すぎるし、ジムが「ダニーボーイ」をリクエストする心情もよく伝わってこない。いやもちろん、朝鮮戦争への出征を命じられ、ピストル自殺をしようとした米兵をなだめる意味があるのは分かるのだが、あまり説得力がないのである。ここは物語のポイントになる部分なので、もっと緻密に描く必要があっただろう。

 阪本順治は米同時テロをきっかけにこの映画の製作を決めたそうだ。エキストラとして出てくる米兵の中には映画撮影の後、イラク戦争に行った者もいるという。暗い世相がジャズや歌謡曲によって癒されるように、戦後の日本は復興の道を歩んだ。それとは裏腹に米兵たちはまた別の戦争に行かなければならない。ジャズを楽しめるのが「この世」であり、「その外へ」行くとは戦争へ行くことなのだと思う。

2004/02/12(木)「人間蒸発」

 失踪した婚約者を捜す女性を描いた今村昌平のノンフィクション(1967年)。いや確かに前半は早川佳江という女性と俳優の露口茂が消えた婚約者の足跡を追うノンフィクションなのだが、映画は後半、次第にノンフィクションを離れていく。そしてめっぽう面白くなる。婚約者捜しよりも姉と婚約者の関係疑惑に焦点が置かれ、内容がどんどん先鋭的になっていくのだ。クライマックス、路上に集めた関係者を前に「これはフィクションなんだから、フィクションなんだから」と強調する今村昌平がおかしい。唖然呆然の傑作。

 婚約者を一緒に捜しているうちに早川佳江は露口茂を好きになり、カメラを意識して女優みたいになっていくという過程も面白いのだが、姉を追及するシーンが白眉。「2、3回一緒に歩いているのを見た」という目撃証言を元に早川佳江は(女優のような風情で)姉に事実を問いただす。「私は覚えがない。一緒に歩く理由がないじゃない」と涙を流す姉に対して、早川佳江は「それなら、(目撃した人と会って)話してみてよ」と答える。そこへ目撃者と今村監督が現れ、「確かに見た」「覚えがない」の水掛け論が始まる。さらに驚くのは「セット壊せ!」の号令とともに部屋の壁や襖が外されるシーン。どこかの部屋かと思っていたのは撮影所のセットだったのだ。

 虚実皮膜という言葉が容易に浮かぶ。今村昌平は実を元に虚を組み立て演出しているのだが、それによって実の部分にある人間性が浮き彫りにされていく。この姉妹、幼いころから仲が悪かったそうで、追及シーンで長年の確執が一挙に噴出してしまうのだ。人間を見つめる視点は他の今村作品と同じように鋭く粘着質である。

 元々は「24人の失踪者」というタイトルでテレビ番組を製作する企画だった。題材となる失踪事件のうち、警察官に「探している人が美人だから」と早川佳江を紹介されて、撮り始めたら撮影期間が長くなり(7カ月)、これ1本で終わってしまったという作品。ATGが出資した第1回作品でもある。DVDの特典映像には天願大介による今村昌平のインタビューが収録されている。