2004/06/08(火)「21グラム」

 それぞれの場面をシャッフルした後に再構成したように時間軸を前後に動かして物語を語っている。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の前作「アモーレス・ペロス」を僕は未見だが、これも同じ構成という。この構成にどんな意味があるのかよく分からない。例えば、クリストファー・ノーラン「メメント」やクエンティン・タランティーノ「パルプ・フィクション」には時間軸を動かすこと自体に意味があったが、この映画の題材の場合、普通に語っても何ら構わないはずである。主演3人の演技を含めてかなりの力作であり、寂寥感漂う厳しさを備えた映画ではあると思うが、この構成は気になった。

 交通事故で夫と娘2人を亡くしたクリスティーナ(ナオミ・ワッツ)と、その事故を起こしたジャック(ベニチオ・デル・トロ)と、クリスティーナの夫の心臓を移植されたポール(ショーン・ペン)の物語。クリスティーナは薬物中毒を乗り越えて幸せな生活をしていた矢先に家族を失う。ジャックは前科のある生活から足を洗い、真面目に信仰心篤く暮らしていた時に事故を起こす。ポールは余命1カ月と宣告されていた時に心臓移植を受けるが、その心臓も拒絶反応を起こしていたことが分かる。3人それぞれに不幸と孤独に苛まれている。クリスティーナは家族を亡くしたから孤独なのだが、あとの2人は妻がいても妻子がいても基本的に分かり合えないものがあって、孤独なのだ。「それでも、人生は続く」“Life is just going”というセリフを3人とも慰めの言葉としてかけられるけれど、そんな言葉ではどうしようもないほど3人の絶望は深い。

 その3人が出会った時に何が起きるのか、というのが映画のクライマックスとなる。ただし、映画は最初の方で3人に何が起きたかをワンカットだけ見せる。それはミステリ的な興味を観客に持たせる意味合いはあるにしても、物語の悲劇性や観客のショックを薄める効果としても作用してしまう。題材と手法が合わない。本格の題材を変格で語っている。この手法に観客の目をくらませる以上の意味はない。端的に僕はそう思う。物語をどう語るかに腐心することは大事なことだけれど、それを余計に感じる題材というものもあるのだ。

 孤独を共有しているからこそ、クリスティーナとポールは惹かれ合う。2人が惹かれ合うのは恋愛感情のためではなく、仲間意識みたいなものだろう。そしてこれとは対照的にクリスティーナが幸せを奪ったジャックに憎しみを抱くのは当然のことだ。「右のほほを打たれたら、左のほほを出せ」という聖書の教えを忠実に守るジャックはクライマックスでもその教えを守ることになる。ただ、僕はこのクライマックスも突然、21グラム云々のナレーションが流れるラストの処理にも物足りなさを感じた。イニャリトゥ監督は構成に凝るより、物語をもっと突き詰めることに時間を割いた方が良かったと思う。

 ナオミ・ワッツが分かりやすい熱演なのに対して、デル・トロとペンの演技は奥が深く、見応えがある。観客が感動するのは題材よりも細部なので、この3人の繊細な演技が映画を支えているのだと思う。

2004/06/08(火)「デイ・アフター・トゥモロー」

 SPFXという懐かしい表記もあったが、映画のクレジットに流れるビジュアル・エフェクトスタッフの数の多さに驚く。これだけのスタッフを動員して、リアルな竜巻や津波、吹雪、氷の世界を描き出したわけであり、ビジュアルだけが眼目としか思えないほどストーリーは恐ろしく簡単なものである。

 地球温暖化の影響で極地の氷が溶け、海水に流入したことで、海流の流れが変わり、それが異常気象を引き起こして、結果的に氷河期が訪れる。ローランド・エメリッヒ監督はこのプロットに、事態を予見した古代気象学者の主人公(デニス・クエイド)がニューヨークの氷の世界に閉じこめられた息子(ジェイク・ギレンホール)を救出しようとする姿を加えて、映画を構成している。ちょうど昨年の今ごろ公開された「ザ・コア」では科学者たちが止まってしまった地球の核の流れを動かそうとする姿を描いて失笑するしかない内容に終わっていたが、さすがにエメリッヒはそんなバカではない。もう最初から最後までビジュアルに徹している。

 水を使ったVFXが難しいと言われたのは昔の話のようで、この映画で描かれるニューヨークを襲う巨大な津波のシーンは見事なものである。氷の世界となったニューヨークの風景も面白い。しかし、そうしたビジュアル面に感心しながらも、やはりこんなにストーリーが簡単では、映画としての深みには欠けてくると思わざるを得ない。大統領が最後に取って付けたように温暖化問題啓発の演説をするけれども、京都議定書の批准さえしなかった国であるから説得力を著しく欠く。人に言う前にまず自分で実行しろ、と思えてくるのだ。

 そう、本来ならば登場するはずの悪役がこの映画に一人も見あたらないのは温暖化問題の真の悪役がアメリカ政府であり、企業であるからにほかならないだろう。メジャーの映画であるため、最初から批判の姿勢は封じ込められており、なんとなく映画に勢いが感じられないのはそのためでもある。技術的には一流、話は三流なのである。

 今年24歳のジェイク・ギレンホールが高校生の役を演じるには少し無理がある。そのガールフレンド役エミー・ロッサムにちょっと注目。

2004/06/07(月)「星願 あなたにもういちど」

 「星に願いを。」の元ネタとなった香港映画(1999年製作)。というか、ストーリーもそのまま。僕は評判ほど良いとは思わなかった。いや、もちろんセシリア・チャン(「少林サッカー」に出ていた)の初々しさには参りましたが、リッチー・レンの演技に問題あり。交通事故に遭う前のぴょんぴょん跳びはねる演技とか、何をやっておるのかと思う。

 クライマックスの盛り上がり方などは「星に願いを。」より上だが、部分的に負けているところもある。監督はジングル・マ。やはり、こういうストーリーだと、傑作「天国から来たチャンピオン」と比較してしまいますね。

2004/06/04(金)「ランダウン ロッキング・ザ・アマゾン」

 「ハムナプトラ2 黄金のピラミッド」のスコーピオン・キングことザ・ロック主演のアクション。アマゾンの奥地へ秘宝探しに行ったまま帰らない息子を連れ戻すよう頼まれた賞金稼ぎの主人公が、ジャングルの鉱山で人々を奴隷のように扱う悪玉(クリストファー・ウォーケン)と戦う。よくある設定だが、ザ・ロックのアクションは切れ味がよくて楽しめる。中盤にあるゲリラの小柄な兵隊たちとのアクションは肉弾相打つといった様相と同時にワイヤーも駆使して軽やかだ。こんなに身のこなしがいいとは思わなかった。やはりプロレスラーだから空中戦も得意なのだ。その相手となるゲリラのリーダー・マニート役のアーニー・レイズ・ジュニアは元格闘技チャンピオンという。アクション指導をしたのはスタントマン出身のアンディー・チェン。

 冒頭、ゲスト出演のアーノルド・シュワルツェネッガーとすれ違うシーンがあり、アクション俳優の世代交代を感じさせた。今のところ、この映画がシュワルツェネッガーの最終出演作となるのか?

 主人公のベック(ザ・ロック)は暗黒街の賞金稼ぎ。賭けの5万ドルを支払わないNFL選手の元に押しかけ、ボディガード数人を簡単に倒す。ベックにはレストラン経営の夢があり、借金を帳消しにすることを条件に暗黒街のボスの息子トラビス(ショーン・ウィリアム・スコット)を探しにジャングルの奥地に行く。そこはハッチャー(クリストファー・ウォーケン)という男が支配しており、鉱山で膨大な人々を安い賃金で働かせていた。ベックはマリアナ(ロザリオ・ドーソン)が経営する酒場でトラビスを見つけるが、トラビスが秘宝のありかを探し当てたことを知ったハッチャーが酒場に手下を連れてやってくる。ベックとトラビスはジャングルに逃げ、ハッチャーが執拗に後を追う。最初は反目していた2人が次第にうち解けるバディ・ムービーのような調子で映画は進む。これにハッチャーの支配を脱しようとするゲリラが絡み、映画は終盤のアクションへとなだれ込んでいく。

 CGも使ってあるが、全体的にユーモアを盛り込んだB級アクションとしてそつなくまとまっている。ザ・ロックの現代劇デビュー作としてはまず無難な作品と思う。監督はピーター・バーグ。俳優としての出演作も多いが、劇場用映画は「ベリー・バッド・ウェディング」(1998年)に続いて2作目の監督作品となる。3作目はビリー・ボブ・ソーントン主演の「フライデイ・ナイト・ライツ」。近くアメリカで公開されるらしい。

2004/06/01(火)「下妻物語」

 茨城県下妻市を舞台に、ロココ時代のフランスに憧れてフリルひらひらの洋服を着る桃子(深田恭子)とヤンキーのイチゴ(土屋アンナ)のおかしな友情を描く。監督の中島哲也はCMディレクター出身のためか、編集に冴えがあり、アニメも取り入れた人工的でポップな映像と速いテンポの佳作に仕上がった。

 ジャージ世界の大阪からジャスコファッションの下妻に来ることになった桃子とテキヤの父親(宮迫博之)のこれまでを描く冒頭から快調である。桃子の母親(篠原涼子)は桃子を生んだ病院の医師と不倫して、桃子が小学生の時に両親は離婚。父親はヤクザの下でバッタものの洋服を売って儲けていたが、ブランド側からイチャモンを付けられそうになり、桃子と一緒に下妻の実家に逃げてくる。ロリータなファッションに目覚めた桃子は洋服を買うため、父親のバッタ製品を売りに出す。そこに平仮名だらけの手紙を送ってきたイチコ(本名はイチゴ)が洋服を買いに訪れる。対照的な2人だが、桃子のパチンコの才能と刺繍の才能が2人を結びつけ、何だか変な友情関係が出来上がる。

 と、ストーリーを書いてもあまり面白くない。映画の面白さはそのデフォルメされてぶっ飛んだキャラクターと類型的なセリフを笑い飛ばす演出にある。イチゴの頭突きで桃子がぴょんと跳ばされる場面とか、ジャスコに関するセリフとか、狂騒的でゲラゲラ笑える場面が多い。しかも桃子のキャラクターが「人は人、自分は自分」という徹底的な個人主義であるのが面白い。酸いも甘いもじゃなくて、甘い物ばかり食べていきたい女の子なのに、芯は硬派なのである。

 この設定が成功の大きな理由だろう。ロリータファッションをしていても、バカじゃない。しかも、その個人主義の桃子が終盤、イチゴを助けるために奔走することで、観客の共感も十分に得られることになっている。桃子にはテキヤの父親の血がしっかりと流れているようで、クライマックス、けじめを付けられそうになったイチゴを助けるためヤンキー集団を相手に啖呵を切る場面などピタリと決まる。桃子以外のキャラクター、祖母の樹木希林や八百屋の荒川良々、ヤクザの本田博太郎、一角獣の龍二役の阿部サダヲ、ロリータファッション会社の社長・岡田義徳などまともなキャラクターが1人もいないのが素晴らしすぎる。しかし、そのキャラクターが綴る話には共感できるのである。中島監督の演出の計算はなかなか正確だと思う。

 深田恭子は演技がうまいというレベルではないが、少なくとも桃子役にはピッタリ。「女はな、人前で涙を見せちゃいけないんだよ」という土屋アンナは失恋して涙をこらえるシーンが良かった。同じ女の子の友情を描いた岩井俊二「花とアリス」の上品さとは対照的にハチャメチャな映画だが、そのパワーは侮れない。ただ、少しぜいたくを言うなら、クライマックスの盛り上げ方にはもっと工夫が必要とは思う。