2004/07/15(木)「スパイダーマン2」

 「スパイダーマン2」パンフレット同じサム・ライミ監督による2年ぶりの続編。ダニー・エルフマンの音楽に乗って、前作のストーリーをイラストで見せるオープニングがいい感じである。前作の話をそのまま引きずっており、スパイダーマンことピーター・パーカー(トビー・マグワイア)とMJことメリー・ジェーン・ワトソン(キルステン・ダンスト)の恋の行方と、グリーン・ゴブリンだった父親(ウィレム・デフォー)を殺され、スパイダーマンに復讐心を燃やすハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)のドラマを軸にしている。これに絡めて、核融合実験の失敗から機械のアームを持つ怪人ドック・オクとなった科学者ドクター・オクタビウス(アルフレッド・モリーナ)とスパイダーマンの対決が描かれる。

 前作は「大いなる力には大いなる責任が伴う」というテーマを抱えながらも、ドラマ部分が軽かったのが不満だったので、ドラマ重視の作りは悪くない。高層ビルの壁面で展開されるアクションなどVFXも充実している。十分に面白いことを認めた上で不満な点を書くと、主人公の悲壮感が決定的に足りないと思う。どうもスパイダーマンとして生きる主人公の苦悩が響いてこない。その苦悩とはMJへの思いである。MJが自分と親しくなれば、悪いやつらから狙われる。だからパーカーはMJに思いを打ち明けられない、というわけだ。

 このほかパーカーが家賃の支払いを迫られたり、仕事や大学の講義に遅刻したり、伯母が銀行からの融資を断られたりするエピソードがあるけれど、こうしたエピソードがスーパーヒーローものに必要だったかどうか疑問に思う。もちろん、サム・ライミは人間的な部分を強調したいがためにこうしたエピソードを入れたのだろうが、これはスーパーヒーローのキャラクター形成方法としてはほとんど間違っているとしか思えない。

 宿敵ワルダスターを倒すために民間人を巻き添えにした「宇宙の騎士テッカマン」とか、近いところで言えば、地球生態系を守るために人間の犠牲をも厭わない「ガメラ3 邪神覚醒」のガメラの設定を見習って欲しいところだ。こういう悲壮な決意を持つ孤高のヒーローに比べると、サム・ライミのスパイダーマンはいかに表面で深刻な問題を抱えていても根底にはアメリカらしい脳天気さがある。スパイダーマンはNYの人々からスーパーマンのように正義の味方として認知されており、人々に理解されない孤高のヒーローではない。登場人物が深刻に悩んでいても基本的に明るいのはライミの資質が影響しているのかもしれない。僕のスパイダーマン原体験が平井和正原作、池上遼一作画の悲壮な スパイダーマン(このコミックは現在、メディアファクトリーから再刊中だ)にあるので、そういう部分に不満を感じてしまう。

 主人公はスパイダーマンであることをそのコスチュームとともに一度は捨て去るが、伯母の言葉とMJをドック・オクにさらわれたことで復帰を決意する。このエピソードは「スーパーマンII 冒険篇」などを参考にしたのだろう(ロイス・レーンと結婚するためにスーパーマンの能力を捨てたクラーク・ケントは街のチンピラに叩きのめされたことと、スーパー3悪人が行っている悪行を見て復帰を決意する)。「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉は「大いなる力」を持った者は不用意にそれを捨てることは許されないという意味もあるのだと思う。スーパーヒーローには個人の幸せよりも社会の平和を優先する義務があるのだ。

 だからクライマックス、ドック・オクがブレーキを壊して暴走した列車をスパイダーマンが身を挺して止める場面は、それを象徴している場面と言える。ここでスパイダーマンは前作同様、マスクを脱ぎ去る。そしてMJにもハリーにも素顔をさらすことになる。明らかに第3作が作られそうなラストの処理だが、スパイダーマンの苦悩の一つが解決したことで、この路線での第3作は相当に脚本を練らないと難しいような気がする。バットマンシリーズのように第3作ではそういう部分をばっさり切り捨てて映画化することもできるが、それではあまりにも芸がない。サム・ライミ、次が正念場だ。

2004/07/07(水)「スキャンダル」

 ヨン様人気と女性の日が重なって、映画館は満員で整理券を発行していた。しかも男は僕ひとりだけだったような気が。オバさまパワーに恐れ入りました。

 ラクロの「危険な関係」を18世紀の朝鮮に翻案した作品。監督のイ・ジェヨンはスティーブン・フリアーズ版「危険な関係」を見て、映画化を決めたという。数ある「危険な関係」の映画化のうち、僕はフリアーズ版しか見ていないが、この「スキャンダル」はそれに劣らない出来だ。危険な恋愛ゲームの首謀者チョ夫人がラストに見せる深い後悔と喪失感は秀逸。人の心を弄ぶゲームによって、当事者さえも傷つき、破滅していく様子を象徴的に見せた。チョ夫人を演じるイ・ミスクが映画を引き締めている。

 李朝末期の朝鮮。政府高官の妻チョ夫人(イ・ミスク)は子どもに恵まれず、夫は16歳の側室ソオク(イ・ソヨン)を迎え入れることにする。内心穏やかでないチョ夫人は従兄弟のチョ・ウォン(ペ・ヨンジュン)にソオクを妊娠させるよう持ちかけるが、プレイボーイのチョ・ウォンは簡単すぎてつまらないと断る。その代わりに提案したのが婚約者の死後9年間も貞節を守り続けているチョン・ヒョン(チョン・ドヨン)を落とすこと。それに成功すれば、褒美として初恋の人でもあったチョ夫人と関係を持つとの条件つきだった。チョ・ウォンはあの手この手でチョン・ヒョンにアタックをかける。チョン・ヒョンが参加している天主教の組織に多額の寄付をしたり、暴漢に襲わせたチョン・ヒョンを助けたり、何通も手紙を出したり。次第に心を開いたチョン・ヒョンは突然チョ・ウォンに熱烈なキスをされて、すべてを投げ出す決意をする。そしてチョ・ウォンも本気でチョン・ヒョンを好きになっていく。それを知ったチョ夫人は嫉妬からチョン・ヒョンを陥れようと画策する。

 ペ・ヨンジュンは「冬のソナタ」のイメージを一掃して好演しているが、惜しいのは貞淑なチョン・ドヨンが普通の女優でありすぎること。フリアーズ版のミシェル・ファイファーのような美人じゃないので、プレイボーイが本気で好きになる対象としてあまり説得力がない。やはり恋愛ゲームの犠牲者である側室役イ・ソヨンの方が美人だった。エンドクレジットの途中でぞろぞろ席を立ったオバさま方には分からないでしょうが、イ・ソヨンが最後の最後に出てくる。この恋愛ゲームの犠牲者の一人でありながら、溌剌としていてちっとも犠牲者という感じがしないイ・ソヨンのたくましさ(若さ)がいい。

 イ・ジェヨン監督の演出は端正かつ情感のこもったものだが、前半は話の展開が分かっているためかメリハリに欠けると感じた部分もあった。朝鮮の貴族社会を詳しく再現した美術と衣装はよい仕事をしている。バロック調の音楽もいい。

2004/07/04(日)「シャーロット・グレイ」

 「何か私にできることがあるはずだわ。しなくてはいけないことが…」。匿っていたユダヤ人の子ども2人をドイツ兵に連れ去られたシャーロット・グレイ(ケイト・ブランシェット)は必死に考える。そしてタイプライターに向かう。

 列車の中でフランス語に堪能なところを買われて、諜報員の誘いを受けたイギリス人のシャーロットはフランスのレジスタンスに協力する理由を「国のため」と答える。最初の理由としてはフランスへ行ったパイロットの恋人に会えるかもしれないという期待もあったのだろう。しかし、フランスでナチスの手先となった卑しい人間を目の当たりにし、レジスタンス仲間の死に立ち会い、ユダヤ人なら子供でさえ連れ去られてしまうという厳しい現実を知ることで変わっていく。ブランシェットはいつものようにその変化を絶妙の演技で見せる。

 セバスチャン・フォークスのベストセラー(1999年)を女性監督のジリアン・アームストロングが映画化。甘すぎるラストなど見ると、全体的には女性映画の範疇に収まってしまう映画だが、ブランシェットの演技を見るだけでも価値がある。ブランシェットは例えば、ニコール・キッドマンやナオミ・ワッツのような正統的な美人ではないけれど、その雰囲気と演技のレベルの高さがとても魅力的な女優と思う。

 シャーロットと愛し合うようになるレジスタンスにビリー・クラダップ、その父親をマイケル・ガンボン(「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のダンブルドア校長役)が演じていて、特にガンボンの存在感が圧倒的だ。

2004/07/03(土)「シルミド」

 韓国で「ブラザーフッド」に抜かれるまで興行収益のトップだった作品。これも1200万人が見たという。誤解しやすいのだが、大ヒットする作品の質が必ずしも高いわけではない。「ブラザーフッド」とこの映画を見て、改めてそう思う(キネマ旬報によると、韓国で観客動員数が増えたのはシネコンの増加が背景にあるという)。まずまず面白い映画に仕上がってはいるけれど、絶賛するほどではない。

 死刑囚やヤクザを集めて訓練し、北朝鮮の金日成暗殺部隊を組織する話。実話を基にしたフィクションだが、こういう話ならば、もう少しキャラクターが立ってほしいと思う。指導官役の名優アン・ソンギや部隊のリーダー格ソル・ギョングなど渋くていいキャラクターだし、他の兵士もそれぞれに描き込まれているのだけれど、まだまだ物足りない。もっと強烈なキャラが欲しいところだ。

 1968年に北朝鮮の特殊部隊が朴大統領を暗殺するため韓国に潜入する。暗殺は阻止したが、韓国政府はショックを受け、逆に金日成主席暗殺を計画。死刑囚など重罪を犯した犯罪者31人を集め、無人島のシルミ島で空軍の684部隊の訓練兵として過酷な訓練が始まる。訓練の途中で死ぬ者も出るほどの過酷さだが、次第に隊員たちは実力を付け、隊員同士の結束も生まれる。3年が過ぎ、やっと金日成暗殺の指令が下るが、途中で中止命令が出る。南北関係は対立から対話に変化しつつあり、684部隊も邪魔な存在になってきたのだ。韓国政府は訓練兵たちの抹殺を命令する。

 物語は1968年から順を追って語られる。事件はクライマックスのバスジャックで明らかになったわけだから、ここを冒頭に持ってきて振り返るという構成がハリウッド映画などでは一般的なのではないかと思う。そういう意味ではあまり工夫がない構成である。前半の訓練シーンが長すぎるのをはじめ脚本の出来は決して良くない。こういう男ばかり出てくる映画で、史実に絡む話だと、ついつい脚本家には笠原和夫のような才能が必要と思いたくなる。

 はぐれ者たちが途中で国家に裏切られ、国家への反逆を決意するという話は冒険小説にもよくあるタイプの話で個人的にはとても好きなのだが、この映画の場合、どうも入り込めない部分が残った。描写がうまくないのである。監督はカン・ウソク。2時間15分の上映時間はもっと刈り込んだ方が良かったと思う。