2004/11/22(月)「ハウルの動く城」

 「ハウルの動く城」パンフレット前作「千と千尋の神隠し」は2度行って満員で入れず、公開後1カ月にして3度目でようやく見ることができた。今回は平日の朝一番に見に行って、楽々座れた。2館で上映しているためもあるのだろうが、公開が夏休みに重ならなかったことが大きい。大人が見るためにも宮崎駿作品は子どもの休みと重ならない時期の公開が好ましいとつくづく思う。

 さて、今回は一筋縄ではいかない作りである。呪いによって90歳のおばあさんに変えられた少女ソフィーがハウルとその仲間たちと擬似的な家族を築いていく、という表面的な物語自体は簡単なだけに、宮崎駿が込めたテーマが見えにくくなっている。終盤の展開を見れば、宮崎駿が「ハートを取り戻せ」「人間らしく生きろ」と言っているのは明確なのだが、原因と結果の描写を微妙にずらしている(あるいは単純な因果関係にない)ので解釈しにくいのである。これを子どもと一緒に見た親は子どもから「なぜ」を連発されることになるだろう。しかし、そうした描写の仕方によってこれは奥行きの深い物語になった。単純な比喩による一意的な解釈を許さない物語というのは確かにあって、そういう作品は時代によって受け取られ方が異なるものだが、イラク戦争が泥沼化した今の状況を考えれば、これは反戦が大きなテーマと受け取っていいだろう。今さら言うまでもなく、宮崎駿は硬派な人なのである。その意味でこれは「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」という初期作品の延長線上にある作品と言える。

 人の心臓を食べると言われるハウルという魔法使いに街で偶然会った18歳のソフィーが荒れ地の魔女に呪いをかけられ、90歳のおばあさんになる。このままでは家にいられない。家を出たソフィーは荒れ地で、かかしのカブを助けた後、ハウルの動く城にたどりつき、掃除係として一緒に暮らし始める。ハウルの城にはハウルと契約を結んで暖炉に縛り付けられている火の悪魔カルシファーと弟子のマルクルという少年が住んでいる。ハウルは夜になると、どこかへ出かけていく。この4人プラス魔力を失った荒れ地の魔女が次第に家族みたいになっていくと同時にソフィーはハウルに惹かれるようになるというのがメインプロット。併せてこの国で起きている戦争の描写もインサートされる。国王のそばにはハウルの師匠に当たる魔法使いのサリマンがいて、ハウルを戦争に協力させようとしている。このサリマンが一般的に言えば、悪役になるのだが、ここでも宮崎駿は一意的な描き方はしていない。敵を倒して終わらせる物語ではないのである。

 呪いをかける方法は知っていても解く方法を知らないとか、カルシファーの「火薬の炎は嫌いだ。あいつらは作法を知らない」というセリフとか、ハウルが戦争で魔法を使いすぎて魔物になっていく描写(これはフォースのダークサイドに落ちるイメージを思い起こさせる)とか、戦争や愚かな人間を暗示した描写は至る所にある。終盤、ハウルが心臓を取り戻すシーンから一気に戦争の終息を示す描写など見ると、心臓=ハート=人間性を取り戻せば、争いごとはなくなるという主張がくっきりと浮き上がってくる。

 心臓を取り戻したハウルは「体が重くなった」と言う。それに対してソフィーは「心は重いものなのよ」と答える。目に見える敵ではなく、自分の心の中にいる敵。人間の心次第で状況は悪化もすれば、好転もする。映画に戦争はあってもその具体的な理由や戦場の悲惨さはない。戦争を悪いこととして抽象化することで、映画は分かりにくくなっているし、大衆性も伴ってはいないけれど、それによって右翼左翼や宗教上のイデオロギーから独立した普遍的な作品になり得ていると思う。

2004/11/11(木)「血と骨」

 「血と骨」パンフレット昨日、見た。見た直後は頭がクラクラして考えがまとまらなかった。

 主人公の金俊平(ビートたけし)が一斗缶に入った豚肉を食う場面がある。豚肉は自分でさばいたものだが、日がたっているので既にウジがわいている。俊平はウジをはらいながら口に入れる。それを見ていた息子の正雄は気持ち悪くなって吐いてしまう。あれは朝鮮料理なのかと思って、いろいろ調べてみたが分からない。脚本にも「豚の腐肉」と書かれているだけである。キネ旬を読んでみたら、崔洋一監督インタビューにこうあった。

 「(釜山映画祭で)おもしろい質問をしたやつがいた。あの腐肉は日本食なのか、韓国食なのかと聞かれたんですよ。で僕の答えは、いやどちらでもない、あれは俊平食だと。食べても元気にならないから食べるのはやめなさい、と言うと、ウケてましたね」。俊平は後で2年も一緒にいるのに赤ん坊が生まれない愛人の清子(中村優子)にもこれを無理矢理食べさせる。俊平にとって、これは活力を付ける食べ物だったのだろう。

 「その男、凶暴につき」を字義通りにいくような金俊平という在日コリアンの生涯を描いたこの映画、重厚な描写が2時間24分も続く力作である。金俊平という男の生き方も特異なら、映画の方も特異で見終わると、ぐったり疲れる。描かれる暴力はアクション映画のそれとはもちろん異なり、見ている方にも痛みと悲惨な感情を伴う。金俊平は自分の思うとおりにことが進まないと、暴れだし、家を壊し、家族を殴り、他人を殴り、その暴力はとどまるところを知らない。死ぬまでこの調子だったのだから恐れ入る。決して近くにはいてほしくない人物である。実際には身長183、4センチの巨漢だったというこの男をビートたけしが凄みを持って演じている。

 金銭欲と性欲と支配欲の権化のような金俊平は原作者の梁石日(ヤン・ソギル)の父親がモデルで、戦前、済州島から大阪に渡ってきた。原作は未読だが、映画は原作の前半にある金俊平の青春部分を除いてあるそうだ。そこまで描くと、上映時間は4時間ぐらいになってしまうだろう(初稿は7時間半あったという)。徹底的に他人を信用しない金俊平の人格がどのように形成されていったのかも興味深いところだが、崔洋一監督が目指したのは半径200メートル以内を暴力で完全に支配した身勝手な男の生き方であり、精神分析的な部分には興味がわかなかったのかもしれない。俊平と私生児の朴武(オダギリジョー)が雨の中、延々と殴り合うシーンをはじめ、暴力シーンは多いが、映画で印象的なのは俊平の毒気に巻き込まれて不幸になっていく女たちの姿である。

 蒲鉾工場で金をためた俊平は家族が住む長屋の近くに家を借り、戦争未亡人の清子を愛人にして一緒に住む。清子は相当な美人で、酒屋のおやじ(トミーズ雅)が「お姫様みたいや」とつぶやくほど。妻の李英姫(鈴木京香)とのセックスがレイプまがいなのに対して、清子とのセックスは穏やかに描かれる。間もなく、清子は脳腫瘍に倒れる。手術して髪の毛を剃り、頭の一部が陥没した清子の姿は元が美人だけに、ただ悲惨である。言葉も「アー、アー」としかしゃべれず、半身不随で寝たきりとなっている。リヤカーの荷台に乗せて清子を家に連れ帰った俊平は、タライで清子の体を洗うなどこまめに世話をするが、やがて別の愛人定子(濱田マリ)を家に連れ込み、清子の世話をさせるようになる。清子と定子は反目し合い、階下で俊平が定子と一緒にいると、二階から動けないはずの清子が転げ落ちてくる。やがて俊平は濡れた新聞紙を顔に押しつけて清子を殺す。それを見た正雄(新井浩文)に対して、俊平は「楽にしたった」とつぶやく。

 娘の花子(田畑智子)は俊平から殴られて歯を数本折る。俊平の支配から逃れるため、好きでもない男(寺島進)と結婚して家を出るが、この男も暴力をふるい、花子は顔に青あざを作るようになる。暴力に耐えきれず、家を出るため正雄に金を借りようとして断られると、首を吊って自殺してしまう。DVから逃れようとした女がやはりDVを振るう男と一緒になってしまうという典型的な例。男尊女卑が徹底したコリアン社会の特色というよりも、そういう時代だったのだろう。

 女が印象に残るといっても、崔洋一は今村昌平ではないのだから、女が中心テーマであるわけではない。あくまでも金俊平という男の生き方に惹かれたのだろう。この男の凄まじい生き方を突きつけられて、僕らはそれをどう受け止めればいいのか戸惑ってしまう。そうした戸惑いの一方で、こうした男はかつて確かにいたということも思い出す。映画が描く多数のエピソードのどれかに思い当たる観客は多いのではないか。かつては飲んで暴れる、俊平をスケールダウンしたような父親なんてたくさんいたし、今もいるだろう。俊平は酒が入っていなくても暴れるのだが、両者に共通するのは現状への不満が積もり積もっていることなのではないかと思う。社会の閉塞感が原因なのか、在日コリアンへの差別なのか、俊平がどこに不満を感じていたのか、そもそもそれが暴力の原因なのか、映画は分析していないので分からない。しかし、この映画がぬるま湯の現状に突きつけた過激な作品であることは間違いない。描写は平易だが、単純な分析を許さない映画であり、見終わっても長く後を引く作品である。

 崔洋一はかつてハードボイルド調の作品も撮ったが、この「血と骨」もまた、主人公の内面描写を廃している点で、ハードボイルドの精神に近いものがある。行間を読むことを観客に強いる映画なのだと思う。

2004/11/10(水)「笑の大学」

 「笑の大学」パンフレット傑作舞台劇の映画化。昭和15年を舞台に、浅草の軽演劇一座「笑の大学」の座付き作家椿一(稲垣吾郎)と警視庁保安課の検閲官向坂睦男(役所広司)の7日間の攻防を描く。原作・脚本の三谷幸喜によると、映画版は「コメディを題材にしたシリアスなドラマ」という。といっても今川焼を巡る爆笑のやりとりをはじめ言葉のギャグは満載で、笑って笑って最後に感動させてという構成はいかにも日本的なコメディである。個人的には最後のほろりとさせるエピソードなど不要に感じたし、もっと別のラストは考えられなかったのかと思うが、これはモデルがエノケン一座の座付き作家で戦死した菊谷栄だから仕方ない面もあるだろう。ちょっとオーバーアクト気味な稲垣吾郎の演技はバラエティ番組の演技としか思えない(これは演出に関わることだが、警視庁の前に来るたびに圧倒されて倒れそうになるなんてありえないだろう)けれど、必死さは伝わってきて悪くない。それを受け止める役所広司の演技が素晴らしく、この映画のほとんどの笑いは役所広司のキャラクターと演技からきている。舞台を映画にして何の意味があるのかという根源的疑問はつきまとうし、ちっとも映画らしくない映画なのは気になるにせよ、見て損のないドラマには仕上がっている。

 サイレント映画のようなタッチで映画は始まる。第2次大戦直前のきな臭い時期なので、演劇は当局の検閲を受けなければならない。「ジュリオとロミエット」というパロディを提出した椿一は検閲官の向坂から「毛唐を題材にするなんて」と一喝され、上演不許可の判子を押されそうになる。「チャーチルが握った寿司を食べたいと思うか」というたとえがおかしい。椿は日本を舞台にして翌日までに書き直すと約束し、危うく不許可を免れる。しかし、翌日も向坂は接吻シーンが良くないとして、書き直しを要求する。椿は書き直しを命じられた部分をまた笑いにしてしまう性分。そこが向坂の気に障るところでもあるのだが、「この非常時に喜劇の上演なんて」と考えていた向坂は次第に椿の台本に魅せられ、最高のコメディを椿と一緒に作り上げていくことになる。

 書き換えていく過程でどうすればおかしくなるかというコメディの本質を突いたセリフも出てくるので、「シリアスなドラマ」なのだろう。同時に映画は検閲制度に対する批判も込めている。惜しいのはそれと現代とのつながりが見えにくいこと。体制の中から出ず、制限された範囲内で喜劇を作ろうという椿の姿勢には物足りない部分が残るのだ。それが映画としての批判の甘さにつながっているのかもしれない。

 監督は「古畑任三郎」などテレビのディレクターで、これが映画デビューの星護。演出は手堅かったが、もっと動きのある題材でないと、本当の力は分からない。2作目を期待したい。

2004/11/09(火)「隠し剣 鬼の爪」

 「隠し剣 鬼の爪」パンフレット主人公の片桐宗蔵(永瀬正敏)が下働きのきえ(松たか子)に実家に帰るよう命じる中盤のシーンがどうしても引っかかる。ここで宗蔵は「お前はまだ若く、気だてのいい女なのだから、いつまでも私のところにいてはいけない」と理由を説明するのだが、この前のシーンで義兄の島田左門(吉岡秀隆)から「商家の嫁を奪い取って、妾同様に囲っているという噂が立っている」との忠告を受けたことがこのセリフの直接的な要因となる。もちろん、宗蔵ときえはそんな関係にはないが、きえとの暮らしに満足していた宗蔵がそんな話を急に切り出す真意がつかめない。きえに言った通りの理由であるならば、義兄が忠告する場面は不要だった。そして別の(宗蔵のセリフ通りの理由に説得力を持たせる)エピソードを入れた方が良かっただろう。きえは涙を流しながらも宗蔵に命じられた通り、実家に帰ることになる。ここで2つの原作のうち、「雪明かり」のパートが終わり、より時代劇らしい「隠し剣鬼ノ爪」のパートが始まる。ここも良い出来なのだが、2つの短編のつなぎ方に無理があったために、この中盤のシーンが浮いてしまったのではないかという気がする。その意味で3つの短編をうまく融合させた前作「たそがれ清兵衛」よりも脚本の技術としては落ちる。微妙なけちの付け方とは思うけれど、この映画が「清兵衛」に及ばなかった原因の一つはそこにある。

 宗蔵の家で3年間働いたきえは商家に嫁ぎ、ひどい姑(光本幸子)によって、朝から晩まで休む間もなく働かされたため、ついには病気になってしまう。宗蔵はきえと3年ぶりに再会して、そのやつれた姿に驚くが、やがて病に倒れたことを知り、商家に乗り込んで、無理矢理きえを連れて帰る。この「雪明かり」のパートは松たか子の好演によって紅涙を絞る展開である。いつものように山田洋次監督の技術の高さにうならされてしまう。山田洋次、こういう貧しい人たちが苦難に耐えるシーンを描かせたら絶妙である。前述の中盤のシーンを挟んで、後半の「隠し剣鬼ノ爪」。宗蔵とかつて一緒に剣を学んだ狭間弥市郎(小澤征悦)が謀反を起こしたとして捕らえられる。といってもこのシーンは前半に織り込み済みである。狭間は江戸から故郷に連れて帰られ、切腹することも許されぬまま牢に入れられるが、見張りを倒して脱獄し、農家に立てこもる。宗蔵はその狭間を討つように命じられる。宗蔵はかつて御前試合で狭間に勝ったことがあり、師範の戸田寛斎(田中泯)から隠し剣を伝授されていた。家老(緒形拳)はそこを見込み、大目付の甲田(小林稔侍)とともに宗蔵にかつての仲間を討てと命じるのだ。逆らえば謀反の仲間とみなされる。宗蔵は藩命に逆らえず、農家に向かうことになる。ここで描かれるのは悪徳家老に怒りを感じる主人公の姿である。欲を言えば、過去の御前試合のシーンを少しでも入れておいた方が良かっただろうが、このパートも決して悪い出来ではない。

 困るのは一つ一つのシーンには感心しながらも、映画全体としてはそれほど響いてこないことだ。つまらないわけではないのに、「清兵衛」の完成度にはほど遠いと言わねばならない。下級武士のつましい暮らしを詳細に描き、自分の身分を受け入れて不平不満を言わない姿が世のサラリーマンの支持を集めた「たそがれ清兵衛」に比べると、今回の映画のベクトルは違う方向にある。至極単純にまとめてしまえば、今回は嫌な上司のいる組織に見切りを付ける男の話。つまり脱サラする男の話なのである。そこと「雪明かり」のパートをどう結びつけるかが脚本の腕の見せ所なのだが、それほどうまくいっていないのである。

 ついでに言えば、今回の主人公は三十石。清兵衛は五十石の身分だったが、同じ東北・海坂藩の藩士なのに、清兵衛ほど貧乏暮らしには見えない。つまり、今回は描こうとしたことが「清兵衛」とは違うからだろう。そして、後半が一般的な時代劇にシフトした分、「清兵衛」のオリジナリティには及ばなかったわけである。

2004/11/08(月)「いま、会いにゆきます」

 「いま、会いにゆきます」パンフレット「雨の季節に戻ってくる」。そう言い残して妻の澪が病死して1年。父親の秋穂(あいお)巧と息子の祐司は不器用ながらも仲良く暮らしている。父親は神経を病み、人混みに出かけられない。息子を連れて行った夏祭りでは倒れてしまう。そして、雨の季節がやってきて、本当に澪が帰ってくる…。

 市川拓司の原作を岡田恵和(よしかず)が脚本化し、「オレンジデイズ」などテレビのベテラン演出家・土井裕泰(のぶひろ)が映画デビュー作としてメガホンを取った。夫婦愛、親子愛に彩られた幸福感あふれる映画である。ファンタジーなので妻が戻ってきたことに理由がなくてもいいのだが、映画は終盤に物語を別の視点で語り直してその謎を明らかにする。そして途中で感じた疑問点がすべて氷解する。これは脚本か演出の不備だろうと思えた部分が実はそうではなく、すべて計算されていたものであることが分かるのだ。同時に映画の中の物語がいっそうの深みを増して迫ってくる。ラストでようやく意味が分かる「いま、会いにゆきます」というタイトルはヒロインの覚悟と愛情の深さを示して感動的である。あざとくて安っぽくて志の低いお涙ちょうだいものではさらさらなく、洗練されたプロの仕事を見せつけられた感じ。この脚本の完成度は相当高い。

 「黄泉がえり」「星に願いを。」「天国の本屋 恋火」とファンタジーで絶好調の竹内結子と中村獅童の好演が相まって、日本のラブファンタジーとしては希有な作品に仕上がった。見終わって思い浮かべたのは「ある日どこかで」(1980年、ジャノー・シュワーク監督唯一の傑作)だが、ある意味、あの名作を越えた充実感がある。なんという幸福な映画であることか。そしてなんと心を揺さぶられる映画であることか。秀作の多い今年の日本映画の中でも上位に入る傑作。もちろん、必見。

 正直に言えば、巧(中村獅童)と祐司(武井証)が2人で暮らす序盤の描写は朝食の目玉焼きや夕食のカレーライスに失敗したり、家の中が散らかっていたり、夏なのに冬のスーツを着ていたりする場面を丁寧に描いてはいても、どこかぎこちない部分が残る。やはりテレビの演出家だからなあ、と思っていたのだが、澪(竹内結子)が戻ってきた場面で一気に感心させられる。死んだはずの人間が帰ってきて、迎える人間はどういうリアクションを起こすのか。それ以上に戻ってきた人間はどう描かれるのか。そこを映画は澪がすべての記憶を失っていたという設定にしてうまくかわしてみせる。2人と一緒に暮らすことになった澪は徐々に2人に愛情を感じるようになり、巧から2人の出会いと現在までの経緯を聞くことになる。

 それは観客にとっても澪にとっても実に魅力的なラブストーリーである。2人の出会いは高校時代。2年間、同じクラスで隣の席に座っていた。巧は澪に片思いしていたが、打ち明けられないまま、ろくに話もせずに卒業することになる。陸上に打ち込む巧は地元の大学に、澪は東京の大学に行く。ただ、卒業時に澪のノートに言葉を書いた際、ボールペンを一緒にノートに挟んでいた。それを返してもらうことを口実に巧は澪に電話する。初めてのデートで堰を切ったように話し、2人の仲は順調にいくかと思われたが、巧は陸上に打ち込みすぎて体を壊し、陸上も大学もやめる。澪にこんな体の自分に付き合わせるわけにはいかないと思い、別れを切り出してしまう。

 この恋愛初期のおずおずといった感じの描写が微笑ましくて良い。竹内結子も美しく魅力的であり、これまでの出演作のベストだろう。澪が一緒にいられるのは雨の季節が終わるまで。いずれ澪が再び消えてしまい、親子2人の生活に戻ることは見えている。そして実際にそうなる。これで終わってしまえば、まずまずの佳作どまりだが、そこから映画は先に書いたような終盤を用意している。

 テレビドラマに疎い僕は脚本の岡田恵和については知らなかった。キネマ旬報11月下旬号によると、土井監督の最高のパートナーとも思える存在という。キネ旬のインタビューで岡田恵和は「いわゆる亡くなった奥さんが戻ってきて、そしてまた去っていくという、ただそれだけの話にはしたくなかった」と言っている。その思いがあったからこそ、この終盤の素晴らしさが生まれたのだろう。土井監督は再び、テレビの世界に戻るそうだが、ぜひ2人のコンビで第2作を作ってほしいと思う。