2004/12/23(木)「ラブ・アクチュアリー」

 クリスマスに見るにはぴったりのラブストーリー。クリスマスの5週間前からクリスマス当日を経て、その1カ月後まで、いくつかの愛が並行して描かれ、それぞれにうまい。監督は「ブリジット・ジョーンズの日記」の脚本家リチャード・カーティスで、これが監督デビューという。それにしては手慣れたものである。

 親友の恋人を好きになってしまった男の思い(これはなんせ、相手がキーラ・ナイトレイですからね。仕方ありません)とか、首相と秘書の秘めた恋とか、作家とポルトガル人メイドの恋とか、おかしくて切なくて悲しくてハッピーなさまざまなパターンが用意されている。終盤にはいくつものクライマックスがあって、お腹いっぱいという感じ。

 カーティスの音楽のセンスはよく、ジョニ・ミッチェルの歌がエマ・トンプソンの悲しみの姿にかぶさる部分などは情感がある。ヒュー・グラントは首相にはとても見えない(実際のブレアの方がハンサムだ)が、作品の傷とも言えない。ローラ・リニーが家まで送ってきた男に「1秒だけ待っていてくださる」と言った後の場面はおかしかった。このセリフは終盤、別の人物が口にする。

 多数の出演者を描き分け、たくさんのストーリーがあるのにすっきりした印象にした脚本のレベルは高い。これと出演者の好演が相乗効果を上げた佳作と言える。カーティスは「ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12ヶ月」の脚本も担当している。

2004/12/14(火)「誰も知らない」

 「誰も知らない」パンフレットより歩くとキュッキュッと鳴るサンダルを履いて、末っ子のゆき(清水萌々子)が長男の明(柳楽優弥)と一緒に母親を迎えに駅に行く。母親が帰ってくると決まったわけではないが、まだ5歳のゆきはたまらなく母親に会いたかったのだ。自分の誕生日だったから。寒い中、駅の外で座って待っていたゆきはポケットからアポロチョコの箱を取り出して、「最後の1個だあ」とつぶやく。ここを見て、「火垂るの墓」だ、と思った。戦争で両親を亡くした「火垂るの墓」の兄妹は2人だけで必死に生きていく。食べ物が乏しくなる中、妹の節子は好きだったサクマドロップの空き缶に水を入れ、「いろんな味がするわあ」と微笑む。あの場面を思い出した。「火垂るの墓」で食べ物を調達するのは兄の役目だった。この映画の明も同じである。3人の弟妹のために明は必死で動き回る。しかし、悲しいことにゆきは節子と同じ運命をたどることになる。

 1988年に起きた4人の子供置き去り事件を基にして、是枝裕和監督が脚本も書いた。映画化までに15年かかったそうだが、それだけの時間をかけた甲斐があったと思う。これは兄妹の悲劇に焦点を当てた「火垂るの墓」よりもずっと深みのある映画である。ひどい母親を描いただけの映画ではないし、電気もガスも水道も止められて悲惨な境遇に落ちた子供たちを描いただけでもない。子供のたくましさ、しっかりした兄、冷たい社会、温かい人々、友をなくす悲しみ、支え合って暮らすことの必要性、そういった諸々のことが胸に迫ってくる。日常描写を丹念に積み重ねて作ったとても丁寧な映画であり、何よりも実際の事件を単純な結論に結びつけない脚本の視点に感心させられた(「レディ・ジョーカー」はこういう風に映画化すべきだったのだと思う)。実際の事件はもっとひどい状況だったそうだ。是枝監督はしかし、長男の言動に注目して映画を組み立てた。

 パンフレットにある「演出ノート」はその監督の姿勢がつぶさに語られて感動的である。「保護者遺棄の罪を問う裁判で母親に再会した少年は彼女の期待に応えられなかった自分を責めて涙を流したそうである。この一連の事件の中で、唯一この少年だけが、自らの責任を全うしようとした。そして、全うできずに自分を責めていた。…(中略)僕はこの少年がいとおしくてたまらなくなってしまったのである」。だからこそ映画には悲惨なだけではない子供たちの生活の様子がしっかりと捉えられている。母親がいなくなって自由に外出できることの喜び、自動販売機の返金スペースを探る次男のたくましさ。観客を安易に泣かせようなんて微塵も思っていない演出は立派なものであり、その手綱は最後まで揺るがない。

 4人の子供たちの父親はばらばらで、子供の戸籍を作らず、学校に行かせず、外にも出さない母親が「好きな人ができたの」と言って、アパートを出て行く前半は、確かにこのあまりにもしょうがない母親に怒りを覚えるのだけれど、それ以後、子供たちだけの生活が始まって、次第に薄汚れていきながらも生きていく描写を見ていると、母親なんてどうでもよくなってくる。母親は子供たちを捨てたが、同時に子供からも見捨てられた。アパートを出て行く母親を送って、駅前のドーナツ店に入った明は「お母さんは勝手だよ」となじる。それに対して母親は「何が勝手よ。あんたのお父さんの方がよっぽど勝手じゃない。私が幸せになっちゃいけないの」と返す。それは小さな子供を持つ母親が言ってはいけない言葉だ。子供たちが母親の帰りを待っているのは現在の苦境を救ってくれると期待しているからであり、書留で金を送ってくるだけの経済的なつながりだけなら、それは親とは言えない。

 妹の死を乗り越えて、また同じ生活を続ける子供たちの姿に「頑張れ、ガンバレ」と言いたくなってくる。同時に誰か助けてやってくれと思わずにはいられない。映画から受けるのはそうした重層的な思いであり、恐らく子供を持つ親は自分の子供を抱きしめたくなるだろう。

 柳楽優弥はカンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞したが、それは映画の評価にも直結しているのだろう。「オールド・ボーイ」ではなく、この映画がグランプリであっても良かったと思う。4人の子供たちに加えて、それを助ける韓英恵、ダメな母親を演じるYOU、コンビニの店長役の平泉成、中学野球部の監督寺島進らが良い演技をしている。

2004/12/13(月)「レディ・ジョーカー」

 「レディ・ジョーカー」チラシ「グリコ・森永事件」を基にした高村薫の原作を平山秀幸監督が映画化。脚本は鄭義信(チョン・ウィシン)。「愛を乞うひと」「OUT」に続くこのコンビの第3作なのだから期待したのだが、完成した映画はがっかりさせられる出来だった。犯人グループ5人のそれぞれの犯行の動機の描き方が希薄で、物語に説得力がない。これが一番の敗因と思う。平山監督はパンフレットで「(原作の)全体から浮かび上がってくるのは、すきま風だらけの日本の現状です」と言っている。だからといって、すきま風だらけの映画にすることはなかった。僕はなんとなく「新幹線大爆破」を思い出しながら映画を見たが、「新幹線…」にあった犯人たちの切実さがこの映画からは感じられなかった。登場人物の多い原作だから、その中の誰に焦点を当てるかによっても映画の印象は変わってくる。誘拐される社長か、犯人か、合田刑事か。それを単に均等に描いていったのでは映画は面白くならない。どれかに重点を置いた方が良かっただろう。そうしなければ、こうした原作ものによくある原作のダイジェストにしかならないのは自明のことだ。脚本の段階でもう少し詰めが必要だったのだと思う。

 昭和22年、日の出ビールを解雇された物井清二が故郷の青森に帰ってくる場面で映画は始まる。清二は被差別部落出身者とともに不当解雇された。弟の清三は兄が日の出ビールに批判の手紙を出すのを見る。そして現代。清三(渡哲也)は東京で薬局を経営しながら一人暮らし。兄は特別養護老人ホームに入っており、やがて死ぬ。その5カ月前、清三の孫は日の出ビールの入社試験に落ちた後、バイク事故で死亡する。ここが重要なのだが、なぜ清三が競馬仲間4人と共謀して日の出ビールを恐喝するのかがよく伝わってこない。レディ・ジョーカーと名乗る犯人グループの5人はそれぞれに事情があるらしいが、それがはっきり見えないのである。レディとは犯人グループの1人、布川(大杉漣)の重度障害を抱えた娘。布川は自分の境遇を「ババを引かされたようなものだ」と自嘲的に言うが、企業恐喝に向かう理由は見あたらない。同じく刑事でありながら犯行に加わる半田(吉川晃司)についてもその理由は明確ではない。

 加えて、犯行の描き方も不十分で、最初の日の出ビール社長(長塚京三)の誘拐はいいとしても、その後の恐喝の描写がきわめて物足りない。ビールに毒物を入れることをにおわせただけで、企業が20億円もの金を払うのかどうか。犯人グループの日の出ビールに対する明確な優位性をアピールする場面がほしかったところだ。

 平山監督は「これは被差別側が、差別する側に対する復讐劇ですよね」と言ったら、高村薫に「違う」と言われたそうだ。確かに原作は社会の闇を含めてもっと幅が広いけれど、映画にするのならそういう風な単純な映画化もありだなと思う。原作のすべての要素を入れることは無理なのだから、一面的と言われようが、筋の通った映画にした方が良かった。いや、少なくともわかりやすさを捨てて、原作に近づこうとした平山監督と鄭義信の努力は買うべきなのかもしれない。不幸なことにそれが実を結んでいないのだ。

 合田刑事役の徳重聡はやや弱いのだが、渡哲也、長塚京三、大杉漣、松重豊、吉川晃司、吹越満、國村隼、岸部一徳らがことごとく重みのある演技をしている。特に吉川晃司はすさんだ感じがいい。こうしたうまい役者をそろえながら、描写が表面的なもので終わってしまったことが惜しまれる。映画に核がないのである。

2004/12/11(土)「山猫は眠らない2 狙撃手の掟」

 ルイス・ロッサのあの傑作から9年ぶりの続編。トム・ベレンジャーが50歳を過ぎた狙撃手トーマス・ベケットを演じる。バルカン半島でイスラム教徒抹殺作戦を行っている将軍の暗殺にかり出されたベケットが元エリート狙撃手で死刑囚のコール(ボキーム・ウッドバイン)とともに任務に就く。しかし、作戦の裏には別の作戦があった。

 クライマックスは廃墟での敵の狙撃手との戦いになり、悪くない設定なのだが、どうも味が薄い。IMDBで調べたら、TVムービーとのこと。監督はクレイグ・R・バクスレー。原題はSniper2。

2004/12/08(水)「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」

 「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」パンフレットクラシックなスタイルの巨大ロボットがニューヨークの街中を地響きを立てながら行進する。そういうビジュアルな面では申し分ない。いや、良くできていると思う。羽ばたきながら飛ぶ飛行機とか、空中に浮かぶ巨大基地とか、後半に登場する恐竜のいる島の描写も優れている(キングコングが出てくれば、もっと良かった)。監督デビューのケリー・コンラン、かつてのSF映画や1930年代から40年代の映画に強く影響を受けているという。その通り、これはマニアが作ったことが一目で分かるビジュアルである。紗のかかった映像がレトロ感を煽るし、主演のジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウのファッションもキャラクターも設定した時代によく合っている。しかし、話もクラシックにすることはなかった。古いSF映画そのままのストーリーでは、最新のVFXを使っているのにもったいない。こういう描写の映画として当然行き着くところの話に終わっていて、よくまとまっているけれども、新鮮さや驚きがなく、物足りないのである。ビジュアルが満点とすれば、話の方は60点程度。外見だけでなく中身にも凝ってほしかったところだ。

 1939年のニューヨークが舞台。突然、巨大なロボットが多数、飛来してくる。科学者失踪事件の取材をしていたクロニクル紙の記者ポリー・パーキンス(グウィネス・パルトロウ)はロボットに遭遇し、必死に写真を撮る。空軍はエースパイロットであるスカイキャプテンことジョー・サリバンに助けを求める。現場に急行したジョーは巧みな操縦技術でロボットを食い止め、街の危機を救う。科学者失踪事件と巨大ロボットの間には関連があるらしい。かつて恋人だったジョーとポリーは事件を捜査し、背後にドイツ人の科学者トーテンコフ博士がいることが分かってくる。ロボットによって空軍基地が襲われ、ジョーの助手で天才技師のデックス(ジョヴァンニ・リビシ)が連れ去られる。デックスの残した地図からトーテンコフ博士がネパールにいることが分かり、ジョーとポリーはネパールに向かう。そしてトーテンコフ博士が「明日の世界計画」と呼ばれるプロジェクトを進行させていることを知る。

 ジュード・ロウはハンサムなのでこうした冒険活劇にぴったりのように思えるのだが、この人、陰を引きずった部分があるので、ユーモアの部分が弾けにくい。グウィネス・パルトロウは活発な美人記者役に徹していて悪くない。ゲスト出演的なアンジェリーナ・ジョリーも空の要塞を指揮する隻眼の女艦長を好演。監督も出演者も映画を楽しんで作った感じがあり、それが好感度につながっている。

 映画の元になったのはコンランが1人で4年かけてパソコンで作った6分間の短編という。コンラン、オタクな人なのだと思う。そうしたオタクがまず外観を真似ることから始めるように、この映画の外観もかつての映画のイメージで組み立てられている。急いで付け加えると、外観は似ていても、そのアレンジはオリジナリティにあふれており、コンランが作るイメージには一見の価値がある。コンランの次作はエドガー・ライス・バロウズの「火星のプリンセス」。これまたコンランにぴったりのクラシックな題材に思えるが、脚本まで1人で担当するのではなく、強力な助っ人を頼んだ方がいいのではないかと思う。