2005/09/01(木)「容疑者 室井慎次」

 「容疑者 室井慎次」パンフレット「勇気というものは一人に一つしかない。それを捨てた人間は一生逃げ続けることになる」。

 室井(柳葉敏郎)の弁護から手を引こうかと弱気になった新米弁護士の小原久美子(田中麗奈)は事務所の津田(柄本明)からそう言われて気を取り直す。元陸上部員の久美子は「神様、もっと私に勇気を」と祈りながら全力疾走することになる。この場面から、室井が学生時代の恋人の自殺の真相を喫茶店で久美子に語る場面までがこの映画の白眉だろう。君塚良一の的確な演出と田中麗奈、柳葉敏郎の演技の充実ぶりに感心せざるを得なかった。端的に言って、この映画はジェームズ・スチュワートが主演していたようなかつてのハリウッド映画の精神を受け継いだ作品と言える。歪んで腐りきった人間と真っ直ぐに生きる人間、醜悪な現実主義者と理想主義者の相克を描き、理想が勝つことを信じて疑わない視線が根底にある。君塚良一の主張はシンプルで力強い。その点を高く評価したい。「踊る大捜査線」のスピンオフだなんだと言う前にしっかりと1本の映画である。「踊る」のテレビシリーズから映画までテーマとして流れている現場とキャリアの確執がここではさらに拡大され、普遍的なものになっているのだ。

 ただし、悪徳弁護士・灰島役の八嶋智人の演技には違和感があった。こういうデフォルメされカリカチュアライズされたキャラクターは、「踊る」シリーズにはよく出てくるのだが、この映画ではもっと極悪非道でずるがしこい悪役を設定した方が良かったと思う。幼稚すぎてリアリティに欠けるのである。加えて、新宿北署でのクライマックスの取り調べ場面も全体を締めくくるシーンとしてはまとまりに欠けたきらいがある。この前の場面が良すぎるので結果的にクライマックスが弱くなったのだろう。これは脚本の計算違いではないかと思う。気になったのはこの2点で、あとは監督の言う「信じるもののために真っ直ぐ進んでいく室井という男」を描いてとても面白い映画になったと思う。室井という男を描くことが狙いであったならば、本当のクライマックスは喫茶店のシーンであり、その後の場面は付け足しなのかもしれない。

 新宿で起きた殺人事件の捜査を室井は指揮していた。容疑者の警官は取り調べ中に逃走、多数の警官の目の前で車にはねられて即死してしまう。事件は被疑者死亡のまま送検されて終了かと思われたが、室井は遺留品から被害者と被疑者の接点を見いだし、事件の真相は別にあると感じて捜査を続行しようとする。そんな室井を東京地検が特別公務員暴行陵虐罪の共謀共同正犯容疑で逮捕する。被疑者は過酷な取り調べを受け、暴行を受けていた。遺族が刑事告発し、捜査を指揮した室井が罪に問われたのだ。裏には警視庁と警察庁幹部の権力争いがあった。室井を追いつめるのはエリート弁護士の灰島。弁護するのは弁護士になって半年の小原久美子。保釈された室井は停職処分を受けるが、新宿北署の刑事・工藤(哀川翔)らとともに事件の真相を探ることになる。しかし、室井にも久美子にも灰島の妨害工作が待っていた。

 新宿の路上で容疑者を追うシーンは撮影許可が下りず、福島県いわき市にオープンセットを組んだという。キネマ旬報9月上旬号のインタビューで君塚良一は「脚本家の僕だったら曲げてる…(中略)監督としての僕はどうにかしてそれを映像にすることしか考えない」と語っている。そうした細部のこだわりが良い結果につながったのだろう。君塚良一の演出は監督第1作の「MAKOTO」よりもずっと地に足の着いたものになっている。

 弁護士役はどうかなと思えた田中麗奈は前述の場面で映画を支えるヒロインの風格を見せる。過去にストーカー被害に遭い、警察を信じていないという設定もよく、このキャラクターをスピンオフした映画も面白いかなと思う。

2005/08/26(金)「マダガスカル」

 「マダガスカル」パンフレットドリームワークスの3DCGアニメ。セントラルパークの動物園にいるシマウマ、ライオン、カバ、キリンの4頭がアフリカに送り返される途中、ひょんなことからマダガスカル島に流れ着き、大自然の魅力を知るという物語である。「シュレック」などとは違って明らかに子ども向けだが、「猿の惑星」や「アメリカン・ビューティー」「炎のランナー」など映画のパロディが所々にある。子どもにはたぶん分からないパロディだから、一緒に見に行った親を退屈させない工夫なのかもしれないが、どれもパロディにする必然性には乏しい。そういうことをするぐらいなら、もう少し話の密度を濃くしてはどうか。野生に帰って狩りに目覚めたライオンの扱いをどうするのかと見ていたら、極めて平凡な結論に落ち着かせている。こういうところを見ると、話を作る努力をほどほどにしてパロディに逃げているとしか思えないのである。とりあえず、きちんとまとまった映画だし、3DCGの技術も水準をクリアしているけれど、こういう製作姿勢で傑作を生むことは難しいだろう。

 ニューヨーク、セントラルパークの動物園。シマウマのマーティはペンギンたちが動物園を脱走するのを見て、外の世界に興味を持つ。動物園の生活は安楽で悪くなかったが、人生の半分を動物園で過ごして外に出てみたくなったのだ。マーティはある夜、こっそり、動物園を抜け出してしまう。それに気づいた親友でライオンのアレックス、カバのグロリア、キリンのメルマはあとを追う。グランド・セントラル駅で4頭は人間に捕まるが、動物愛護団体の抗議によってアフリカに送り返されることになる。ところが、乗せられた船にはペンギンたちが潜んでいた。ペンギンは船を乗っ取り、南極に向かおうとする。4頭が詰められた木箱はこの騒動で海に放り出される。漂着したのはマダガスカル島。マーティは自然を満喫するが、残りの3頭は動物園に帰りたくてたまらない。しかし、出会ったキツネザルたちによって自然の魅力を教えられていく。同時にアレックスは肉食の本能、狩りの本能にも目覚め、マーティたちがえさに見えるようになってしまう。

 動物園にいる時はピシッと整えられていたアレックスのたてがみが次第にボサボサになっていく。それは野生の本能を取り戻す過程を表してもいる。ディズニーの「ライオン・キング」ではライオンに虫を食べさせていた。この映画でも同じような趣向である。動物園の生活が動物にとって良いわけではないだろうが、かといって野生に完全に返ると、シマウマとの友情などは成立しなくなる。野生に返るというテーマを描くには、この設定に元々無理があるのである。ユーモアにくるめて楽しく見られる映画にすればいいというぐらいの考えなのだろう。だから内容の薄い映画にしかならないわけだ。動物が擬人化されすぎているのも気になった。

 声の出演はライオンがベン・スティラー、シマウマがクリス・ロック、キリンがデヴィッド・シュウィンマー、カバがジェイダ・ピンケット・スミスというキャスティング。日本語吹き替え版ではそれぞれ玉木宏、柳沢慎吾、岡田義徳、高島礼子となっており、不自然な部分はなかった。

2005/08/25(木)「オープン・ウォーター」

 「オープン・ウォーター」パンフレットスキューバ・ダイビングに来た男女が海の真ん中に取り残されるサスペンス。1998年、オーストラリアのグレート・バリア・リーフで起きた実際の事件を元にしている。取り残された男女は最初は助け合い、慰め合うが、そのうちにひどい状況に置かれたことに怒りを覚え、相手の責任とののしり合う。さらに周囲にはサメの群れが来て絶望的な状況に陥る。果たして2人は助かるのか。

 設定は事実に基づいていても、内容はフィクション。どうやって助かるのか、生き残るためにどうするのかという興味で見ていくと、ラストで肩すかしを食う。インディペンデントの映画で、予算は50万ドル以下。デジタルビデオカメラで撮影し、上映時間79分。CGは使わず、撒き餌をして本物のサメを引き寄せて撮影したそうだ。まずメジャーでは許されない撮影方法だろう。サンダンス映画祭で評判を取り、全米公開された話題作だが、怖いシチュエーションのみ優れているという印象を持った。低予算映画でもまずまず面白い作品は作れるという好例ではあるが、話の展開にもう一工夫欲しかったと思う。シチュエーションを超えるアイデアがないのである。

 パンフレットによると、実際の事件では2人がいなくなったことが分かったのは2日後という。捜索しても死体は発見されず、遺留品のみ見つかった。事件から半年後、「だれか助けて」と書かれたスレートが漁船によって発見された。映画はこの題材を元にしていても、スレートに文字を書く場面などはないし、設定だけを借りて自由に創作されている。監督のクリス・ケンティスの興味は極限状況に置かれた男女の心理を描くことにあったという。クラゲやバラクーダー、サメに襲われ、何時間も水中にいることで体は冷えてくる。脱水症状も起こる。想像したくもないシチュエーションの中で人はどうなるのか。映画はそういう描写については健闘している。ケンティスは「ジョーズ」の中でロバート・ショーが語った軍艦インディアナポリスの乗組員についてもリサーチして話を組み立てていったという。けれども、まだまだ物足りない。話の動かしようがないシチュエーションなのは分かるが、2人の背景を含めて描いていけば、もっと映画的にもっと面白くできたのではないか。どうせなら、事実に迫る姿勢が欲しかったと思う。事実の方が面白そうなのだ。設定を借りただけというのなら、明確にフィクションとして発展させていった方が良かっただろう。

 それができなかったのは低予算のためもあったかもしれない。デジタルビデオカメラの映像は粒子が粗く、序盤では特に気になった。こういう映像ならば、素人でも撮れるなという感じなのである(監督も言っているが、デジタルビデオカメラならば、自宅のパソコンでも編集できる)。ただ、やはり本物の役者を使っているのは強みで、主演のブランチャード・ライアンとダニエル・トラヴィスはなかなか好演している。特にブランチャード、序盤にほとんど観客サービスだけが目的としか思えないヌードシーンがある。そういうシーンを入れているのを見ると、ケンティス監督、けっこう計算高い商業主義の監督ではないかと思えてくる。

2005/08/19(金)「宇宙戦争」

 1953年製作版のDVDが届いた(DVDのジャケットには1952年とある。どちらが正しいのか)。楽天のショップで1,197円。字幕版だけで日本語吹き替え版は入っていない。小学生のころだったか、テレビの吹き替え版で見て以来の再見だが、上映時間が85分と短いとは知らなかった。当時はこれぐらいの長さで十分だったのだろう。

 結末はスピルバーグ版と同じなのに納得できるのはその前に都市の徹底的な破壊シーンがあり、群衆が暴徒化するシーンがあるからか。原爆を使っても撃退できない相手では奇跡でも起きないと、どうしようもないという気分になるのだ。映像は当時としては画期的だっただろう。これと「禁断の惑星」(1956年)が50年代SF映画の白眉だと思う。もちろん、物語は「禁断…」の方がよりSFらしい。

 原爆を使うシーンには例の翼だけの飛行機が登場する(全翼機と呼ぶそうだ)。Northrop YB-49という実在の飛行機。30年近く前、小野耕世がキネマ旬報で「宇宙戦争」に絡めてこの飛行機のことを紹介していて、興味深く読んだものである。この原爆シーンで主人公の科学者(ジーン・バリー)と軍の兵士たちは爆風をもろに浴びる。原爆実験に参加するアトミック・ソルジャーがいた時代だから、こういう描写も仕方ないかと思う。

 もし、原爆で効果があったにしても、世界中に下りた宇宙船を破壊するには相当数の原爆攻撃が必要だろう。いずれにしても地球は破滅することになる。火星人は殲滅できたが、地球もまた終末の時を迎える。そういう風な映画もありかなと思う。

2005/08/16(火)「妖怪大戦争」

 「妖怪大戦争」パンフレットかつて大映の夏興行の定番だった妖怪ものを、大映を買収した角川映画が製作。一見して類似性を感じたのは原口智生の快作「さくや妖怪伝」(2000年)で、同じ妖怪ものだし、剣を持った少年(少女)が悪に立ち向かうという基本プロットも同じである。ただ、「さくや」が1時間半足らずだったのに対して、この映画2時間3分もある。原作・脚本が荒俣宏なので話はしっかり作ってあるにしても、どうしても中だるみを感じてしまう。子ども向けの映画であると割り切り、導入部分をてきぱきとまとめて1時間半程度にした方が良かっただろう。全体として悪くない出来だけにそれだけが惜しい。

 映画はプロデュースチーム「怪」の雑談が発端にあったそうだ。水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆきというメンバーで、それぞれゲスト出演もしている。加藤保憲を敵役にしようと発案したのは京極夏彦だそうで、映画は加藤が出ることによって「帝都物語」番外編みたいな雰囲気もある。残念なことに加藤を演じるのは嶋田久作ではなく、豊川悦司。豊川版加藤も悪くはないが、どうせなら嶋田久作に出て欲しかったところだ。監督の三池崇史は「ゼブラーマン」で意外にスーパーヒーローものに理解があることを示したが、今回も的を外していない。導入部分では妖怪の怖さを見せ、中盤からユーモアを散りばめている。おまけに出てくる女妖怪がどれもこれも色っぽい。鳥刺し妖女アギ役の栗山千明、川姫役の高橋真唯の2人が印象的で、個人的にはワルを演じる栗山千明がはまり役だと思った。ろくろ首役の三輪明日美もいい。

 主人公のタダシ(神木隆之介)は両親の離婚で鳥取の祖父(菅原文太)の家に母親(南果歩)と住む。東京から来たために学校ではいじめられている。タダシは神社の祭りで麒麟送子(きりんそうし)に選ばれる。麒麟送子は悪と戦う定めで、選ばれた者は大天狗の聖剣を取りに行かなくてはならないとの伝説があった。大天狗の山に向かったタダシは妖怪の姿を見て逃げ出すが、途中、けがをした不思議な生き物と出会う。その生き物はスネコスリで、やはり妖怪の一種。再び大天狗の山に引き寄せられたタダシは猩猩(しょうじょう=近藤正臣)、川姫(高橋真唯)、川太郎(阿部サダヲ)と出会い、ついに大天狗のもとへたどり着く。聖剣を取ろうとしたところへ、鳥刺し妖女アギ(栗山千明)が機怪(人間に捨てられた機械と妖怪が合体した怪物)とともに現れる。アギは人間に復讐を誓う魔人・加藤保憲(豊川悦司)に賛同し、妖怪たちを狩り集めていた。タダシは聖剣で立ち向かうが、アギに剣を折られてしまう。スネコスリを連れ去られたタダシは妖怪たちの協力を得て、加藤に立ち向かう。

 これで妖怪大戦争というわけだが、おかしいのは集まった妖怪たちが、加藤が敵と知って、「それでは…解散」と帰ってしまうこと。このあたりから映画はユーモアの度が強まってくる。妖怪のキャストが多彩でおかしい。油すまし=竹中直人、小豆洗い=岡村隆史、ぬらりひょん=忌野清志郎、大首=石橋蓮司、一本だたら=田口浩正、雪女=吉井怜、神ン野悪五郎=京極夏彦、魍魎=塩田時敏、山ン本五郎左衛門=荒俣宏、妖怪大翁=水木しげる、といった面々である。人間側も多彩で佐野史郎、津田寛治、大沢在昌、徳井優、永澤俊矢、田中要次、宮迫博之、柄本明といった顔ぶれ。宮部みゆきは学校の先生役で登場する。三池崇史の人徳なのか、ちょい役も含めてこんなにキャストがそろった映画も珍しいだろう。

 加藤の復讐は物を使い捨てにする人間たちへの憎しみから来ている。そういう理由にはあまり必要性を感じないのだが、子供たちに見せるにはそうした部分があった方が良いのかもしれない。ただし、これを見た子供たち、特に男の子は高橋真唯の太ももや栗山千明の衣装にしびれるのではないか。そうした部分を入れているところに三池崇史らしさを感じた。「ゼブラーマン」のゼブラナース(鈴木京香)の衣装を彷彿させるのである。逆に女の子がしびれるのは神木隆之介のけなげな姿なのだろう。

 パンフレットに収録された「怪」の4人による座談会(2002年12月収録)では3部作の構想が紹介されている。3年前の話だからどうなることかは分からないが、続編を作るなら、キュッと引き締まったコンパクトな映画を期待したい。