2005/02/27(日)「キューティーハニー」

 漫画チックに徹している分、「CASSHERN」よりは随分ましだし、上映時間が短いのもいい。ストーリーに破綻もないし、少なくともDVDで見る分には腹は立たない。庵野秀明監督は映画の器というものをよく理解していると思う。もちろん同じ漫画チックでも「下妻物語」には負けている。ああいう弾けたおかしさがもっとあると良かった。

 主演の佐藤江梨子は軽薄な役柄によく合っているけれど、原作はもう少し知的な部分があったように思う。秋夏子役の市川実日子の存在が大きく、映画を支えている。ハニーと夏子の関係にもっと焦点を当てると、それこそ「下妻」みたいになったかもしれない。悪の組織パンサークローの面々のメイクは大きな減点対象。漫画チックでもそれなりのリアリティは必要だろう。

2005/02/20(日)「CASSHERN」

 言いたいことは分かるが、言い方(描き方)がくどい。もう少し描き方に洗練が欲しいところ。といっても映画初監督の紀里谷和明には無理だったのだろう。

 最初の40分が死ぬほど退屈。アクション場面で少し面白くなって、後はまたひたすら退屈。セリフで説明している部分を映像で見せる工夫が必要。脚本はプロの脚本家に任せた方が良かったと思う。

 アクションで良かったのは元のアニメの動きを取り入れている部分だけ。この題材は上映時間も1時間30分ぐらいが限界でしょう。なのに2時間21分もある。無駄に長いのが自主製作映画のよう。

2005/02/17(木)「ボーン・スプレマシー」

 「ボーン・スプレマシー」パンフレットロバート・ラドラムのベストセラーを映画化した「ボーン・アイデンティティー」の2年ぶりの続編。記憶喪失の元CIAエージェント、ジェイソン・ボーンをマット・デイモンが再び演じる。監督はダグ・リーマンからポール・グリーングラスに替わったが、スピーディーな展開と切れ味のあるアクションは継承している。感心したというか、目立っているのは編集で、同じカットを3秒以上見せないとでも意図したのか、カットが細かく切り替わる。これがスピーディーな印象を与える要因でもあるのだが、目まぐるしすぎてアクション場面などでは逆にダイナミズムを欠く結果になっている。どこがどうなったのかよく見えないし、細かくカットを割りすぎると、重みを欠くものなのである。

 その目まぐるしさが落ち着くのが、クライマックスの後のエピローグ的な場面。ここが全体の締めに当たる部分なのに、それまでの物語で主人公のこういう意図を見せていないのであまり効果を上げていない。前作に続いて脚本を書いたテリー・ギルロイは「ジェイソン・ボーンは元暗殺者なので復讐劇にはできなかった」として、今回の映画を「償いの旅」とまとめているが、償いの部分がこの場面に唐突に出てくる印象にしかなっていない。水準をクリアしたスパイ・アクションだけれど、話の作りはうまくないと思う。スピーディーさばかりでは結局、一本調子になってしまう。緩急を付けた演出と伏線を十分張った物語が望まれるところなのである。

 前作から2年。ジェイソン・ボーンはマリー(フランカ・ポテンテ)とインドで暮らしている。記憶は完全には戻らず、悪夢にうなされる日々だ。そのころ、ベルリンでCIAの女性諜報員パメラ・ランディ(ジョアン・アレン)は組織の不祥事に関する調査に当たっていた。公金横領の資料を手に入れようとしたが、何者かが取引現場を襲撃し、2人が殺されてしまう。現場にはボーンの指紋が残っていた。インドではボーンが襲撃され、逃走中にマリーを殺されてしまう。ボーンは事件の真相を探るため、ヨーロッパに向かう。CIAもボーンを事件の犯人として、追跡を開始する。事件の背景にはトレッドストーンという計画があるらしい。パメラは計画の責任者だったアボット(ブライアン・コックス)を問いただす。

 ボーンにとっては巻き込まれ型の展開だが、最愛のマリーを殺されたのだから、復讐劇にしてしまった方がすっきりしたと思う。それが「償い」の話になるのはボーンが途中で記憶を取り戻し、過去の仕事を後悔するからだ。このあたりをもっと深く描けば、映画はアクションだけが目立つような出来にはならなかっただろう。それには記憶を取り戻す場面をもっとドラマティックに描く必要があったし、ボーンの苦悩も深く描いた方が良かっただろう。前作を僕は底が浅いと思ったが、今回も同じような感想を持った。

 マット・デイモンは前作同様、アクション場面も無難にこなして凄腕のエージェントを好演している。ただ、こういうハードな映画の主人公としてどうかというと、ハードさが足りない部分はあると思う。映画全体もハードな部分が意外に希薄なのは演出がスピーディーではあっても、重みに欠けるからではないか。

2005/02/11(金)「パッチギ!」

 「パッチギ!」チラシ「モーターサイクル・ダイアリーズ」のエルネスト・ゲバラと同じように、主人公の松山康介(塩谷瞬)は恋するキョンジャ(沢尻エリカ)のいる対岸に向かって鴨川を渡る。劇中に流れる「イムジン河」は朝鮮半島を南北に分断する川を歌ったものだが、この映画の中では日本人と在日コリアンの間にある深い川をも象徴しているのだろう。だから、康介が川を渡る姿は民族の対立を超えた姿にほかならない。川を渡るという行為のメタファーは実に分かりやすいのである。もちろん、康介にはそんな大層な意識はない。好きなキョンジャに近づきたく、親しくなりたいだけだった。そのために朝鮮語を勉強し、「イムジン河」の歌を練習する。

 井筒和幸監督が「ゲロッパ!」に続いて撮ったのは1968年の京都を舞台にした青春群像ドラマ。日本人と在日朝鮮人の高校生たちが恋とけんかに明け暮れる姿をエネルギッシュなタッチで描いている。フォーク・クルセダースの「イムジン河」「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」(実際は加藤和彦、北山修のデュエットだし、これは70年代の歌である。だから劇中ではなく、エンドクレジットに流れるのだろう)などが流れ、60年代のムードが横溢している(音楽はそのフォークルのメンバーでもあった加藤和彦)。高校の先生が毛沢東語録を紹介したり、全共闘の描写があったり、描かれる風俗は40代以上にはある種の郷愁を誘う内容であり、「アメリカン・グラフィティ」のように見ることもできる。失神者が続出して救急車が駆けつける冒頭のオックスのコンサートの場面から戯画化されていて、笑って笑って時に泣かせる展開を堪能した。若手俳優からわきを固めるベテランまで出演者の演技が総じて良く、群像劇を見事に成立させている。何よりも元気の出る映画になっているところがいい。

 府立東高の2年生、松山康介はある日、担任から朝鮮高校にサッカーの親善試合の申し込みに行くよう言われる。親友の紀男(小出恵介)と一緒に恐る恐る朝鮮高校に行った康介は音楽室でフルートを吹くキョンジャに一目惚れする。キョンジャの兄は朝鮮高校の番長アンソン(高岡蒼佑)だった。楽器店で坂崎(オダギリジョー)と知り合った康介はキョンジャが吹いていた曲が「イムジン河」という曲だったことを知り、ギターを練習するようになる。康介は坂崎からコンサートのチケットをもらい、キョンジャを誘うが、逆に円山公園で行うというキョンジャのコンサートに誘われる。円山公園ではコンサートではなく、帰国船で北朝鮮に行く決意をしたアンソンを祝う宴会が開かれていた。

 映画は康介とキョンジャの関係を軸にその周辺のさまざまな人間模様を活写していく。それがどれもこれも面白い。康介が在日のアボジ(笹野高史)から「お前ら日本人は何も知らん」と言われる重たい場面から、「悲しくてやりきれない」が流れる中、ギターをたたき壊す康介の場面、そしてラジオ局で康介が歌う「イムジン河」をバックにアンソンたち朝鮮高校と東高の生徒たちの集団乱闘シーンへと連なるクライマックスが秀逸である。日本人と在日コリアンの関係について特別な回答を用意しているわけではないけれど、監督はパンフレットで「殴り合え、でも殺し合うな」というメッセージを込めたと言っている。殴り合うこともまた交流の一歩なのであり、そうした複雑な関係を普通に描写しているところにとても好感が持てる。60年代を舞台にしていても、ただ懐かしがっているわけではなく、今に通用する映画になっているのは人物の描き方が生き生きしているからだろう。主演の塩谷瞬は透明な感じがいいし、ラジオ局で「イムジン河」を流すことに反対する上司を力づくでだまらせるディレクターを演じる大友康平、スケバンから看護婦に転身する真木よう子、アンソンの恋人役の楊原京子などの演技が印象に残る。

 ちょっと気になったのはカラーの画質で、妙にくすんでいる。60年代を意識したのか、デジタルビデオカメラでの撮影だったのか知らないが、もっとすきっと抜けるカラーにした方が良かったのではないか。

2005/02/03(木)「オペラ座の怪人」

 「オペラ座の怪人」チラシ製作・脚本がアンドリュー・ロイド=ウェバーだったので、演出にも絡んでいるのかと思ったら、監督はジョエル・シュマッカーだった。うーん、シュマッカー、何をやっておるのか。IMDBでの評価がそこそこいいのが不思議だが、個人的にはさっぱり面白くなかった。主演の3人のキャラの立たせ方が決定的に足りないと思う。美男美女の2人はどう描いても美男美女なので仕方がないにしても、ファントムのキャラクターをもっと陰影に富んだものにしないと、単なるストーカーにしか見えない。キャラクター描写が希薄だから、エモーションも高まってこない。だからセリフの代わりに歌で描かれるクライマックスはなんだかいらいらしてしまう。キネマ旬報2月上旬号でシュマッカーは「ミュージカルは「全然(好きじゃない)」「ダーク・ムービーの方が好き」と語っており、この題材に惹かれたのもダークな部分らしい。それにしてはダークさも足りないが、それはウェバーとの駆け引きがあったのかもしれない。単純な話なのに2時間23分と無駄に長いのも腹立たしい。

 モノクロで描かれる廃墟のオペラ座がよみがえって物語の時代にさかのぼるジャンプショットはすこぶる映画的な技法である(残念なことに予告編で何度も見せられたので印象は薄くなった)。シュマッカーは所々にこうした映画的な見せ方を取り入れており、舞台を映画に置き換えようと努力した跡は伺われる。ただ、全編のハイライトである絢爛豪華な仮面舞踏会のシーンの演出では舞台をそのまま撮ったような見せ方で、ミュージカル映画の呼吸はない。これは監督がミュージカルを知悉しているかどうかに関わってくることなのだろう。登場人物たちが、セリフの代わりに歌で気持ちを表現することの不自然さを不自然に感じさせない演出が必要なのに、そうした部分はあまり考慮されていないように見える。ドラマと歌をどのように融合させるか、という努力はないように思えた。

 歌1曲で観客を引きつけたり、踊りだけで引き込んだりするような部分も見あたらない。ファントム役のジェラルド・バトラー、クリスティーヌのエミー・ロッサム、ラウル役のパトリック・ウィルソンはそれぞれに歌はうまいのだけれど、例えば、「ムーラン・ルージュ」で決定的にうまさを際だたせたユアン・マクレガーのような驚きと魅力には欠ける。及第点はクリアしていても、突出した部分がないのである。スター性がないと言うべきか。

 ウェバーとしては、舞台は残らないので後世に残る映画にしておきたかったと意図があったのだという。映画としての完成度の前に、映画の記録性の部分に着目したわけだ。それにしても、バズ・ラーマンのようなミュージカルの分かった監督が撮っていれば、もっと映画的なミュージカルになっていたのではないかと思う。チラシにはアカデミー賞最有力作品とあるが、ノミネートされたのは主題歌、美術、撮影の3部門だった。