2005/10/20(木)「ヒトラー 最期の12日間」

 「ヒトラー 最期の12日間」パンフレットタイトルの意味よりもベルリン陥落か第三帝国の崩壊という感じの内容だなと思ったら、原題はDer Untergang(没落、破滅という意味とのこと)。その通りで特にヒトラーに焦点を絞った映画ではない。だからパンフレットにある「戦後初めてヒトラーを注視した映画」というニューヨークタイムズの批評には疑問を感じる。これまでの映画の中で描かれた悪の象徴としてのヒトラーよりは人間性が描かれているのだろうが、映画の中のヒトラーはベルリン陥落を前に錯乱した人物としか思えないぐらいの描き方である。ヒトラーは戦争を無用に長引かせることによるベルリン市民の犠牲など何とも思っていず、人間性を肯定的に描いた映画では全然ない。第一、ヒトラーがエヴァ・ブラウンとともに自殺した後も映画は延々と続くのだ。とはいっても、日本では昭和天皇をこのヒトラーのように描いた映画などこれまでまったくないことを考えれば、まだまだドイツはえらいと言うべきか。

 映画はヒトラーの秘書となり、その最期まで身近にいたトラウドゥル・ユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)の視点が中心になっている。実は映画で最も心を揺さぶられたのは物語が終わった後に実在の年老いたユンゲが登場するラストである。ここでユンゲはニュールンベルク裁判までユダヤ人が600万人も虐殺されたことを知らなかった、と話す。しかし、自分がヒトラーの秘書になったのと同じ年で虐殺されたユダヤ人女性のことを知り、後悔の念を語るのだ。「もし、私が目を見開いていれば、気づけたはずです」。それはユンゲだけではない。ドイツ国民の多くは目を見開いていなかった。いや、見開いているのに自分が見たものの意味が分からなかった。分かったのにそれを自分に隠していた。隠さずに間違いを主張すれば、殺されるのだから仕方がないとも言えるのだが、映画で描かれたことは60年前に終わったことではないという思いを強くする。そういう状況はいつの時代でもあり得ることだろう。ユンゲの言葉はだからこそ重い。

 映画を見て強く印象に残るのはバカな独裁者の妄想を信じた人々とそれに疑問を呈する人々が同じように戦争の犠牲になっていく姿である。砲撃で犠牲になる市民、ヒトラーの自殺の後を追うように自殺する側近たち、裏切り者として親衛隊から殺される男たち、軍を盲目的に信じてソ連兵に銃を向ける少年たち、寝ている間に母親から毒殺されるゲッベルスの子どもたち。この映画、反戦のスタンスを少しも崩していない。同時にドイツも戦争末期は日本と同じような状況だったのだなと思わされる。どこの国も崩壊する時の状況は同じようなことになるのだ。

 監督は「es[エス]」のオリバー・ヒルシュビーゲル。刑務所内で役割を固定されたことによる人間性の崩壊を描いた「es」はこの映画に通じるものがあると思う。ヒトラーを演じるのは「ベルリン 天使の詩」のブルーノ・ガンツ。

2005/10/18(火)「この胸いっぱいの愛を」(小説)

 「この胸いっぱいの愛を」小説版の表紙普通だったら、映画のノベライズは読まない。映画と関係ない作家(たいていは2流)が書いた小説が映画を超える作品になるはずはないからである。この小説は梶尾真治自身がノベライズしているから読む気になった。正解だった。これは映画よりも素晴らしい。その素晴らしさの要因の一つはラストを変えたことによる。このラストの改変によって、小説は多元宇宙の概念を取り入れた時間テーマSFの佳作になった。とても素敵で幸福なラストであり、映画とは決定的に異なる。

 小説にはタイムマシンのクロノス・ジョウンターが登場する。そして映画を見た時に感じた2つの疑問がちゃんと説明されている。飛行機には多数の乗客がいたのになぜ4人だけがタイムスリップしたのか。タイムスリップした時代が20年前だったのはなぜか。この2つの疑問は密接にかかわっており、それを説明するにはやはりタイムマシンが必要なのである。

 物語は映画と同じように進んでいく。ただ一つ、子どもを交通事故で亡くした夫婦が登場するところが違う。つまり1986年にタイムスリップしたのは6人になっているのである。この夫婦の20年前の行いはラスト近くにその結果が描かれる。これを見ても分かるように小説は「過去を変えることで未来は変えられる」という考え方に基づいている。登場人物たち、少なくともこの夫婦と主人公の比呂志は不幸な未来を変えるために20年前の時代で奔走するのである。

 元々、完成した小説(「クロノス・ジョウンターの伝説」)があり、それを映画化したものを元の原作者がノベライズするというのは非常に珍しい。映画のパンフレットで梶尾真治は「2001年宇宙の旅」を例に挙げているが、あれは映画用のプロットをクラークが書き、それを元にキューブリックは映画を作り、クラークは小説化したという経緯がある。だから「2001年…」の小説版は映画のノベライズではない。

 もちろん、この小説はノベライズだから映画のストーリーに引っ張られた部分が当然のことながらある。ノベライズという枠がなければ、もっと面白くできただろう。それにしても映画はこういうラストにすべきだったとつくづく思う。梶尾真治は「シン・シティ」のフランク・ミラーのように映画にかかわるべきだったのではないか。少なくとも脚本には協力した方が良かった。出来上がった脚本に手を入れて、この小説のような形にしていたら、映画はもっと評価が高かったと思う。だからSFの分かる脚本家でないとダメなのだ。

 映画が小説より優れていると感じたのはただ一場面だけ。例の中村勘三郎の登場シーンである。ここは小説にはより詳しく心理描写があるのだけれど、中村勘三郎の演技の説得力が勝っている。役者のレベルの高い演技はしばしばそういうことを生むのだろう。

2005/10/15(土)「この胸いっぱいの愛を」

 「この胸いっぱいの愛を」パンフレット梶尾真治原作の「クロノス・ジョウンターの伝説」を元にして、「黄泉がえり」の塩田明彦が監督したファンタジー(梶尾真治は映画をノベライズした「この胸いっぱいの愛を」も書いている)。クロノス・ジョウンターとは不完全なタイムマシンの名前とのことだが、映画にタイムマシンは登場しない。飛行機からなぜか20年前にタイムスリップした主人公の鈴谷比呂志(伊藤英明)が少年時代に好きだった年上の女性和美(ミムラ)を救おうと奔走する。和美は難病にかかっており、手術をすれば助かったのに、それを拒否して死んでしまったのだ。これに同じ飛行機に乗っていた3人の男女(勝地涼、倍賞千恵子、宮藤官九郎)のエピソードが並行して描かれる。

 物語の視点は逆だが、構成としては「黄泉がえり」と同じで、あの映画が脇筋のエピソードでも泣かせたようにこの映画でも泣かせる話になっている。特に宮藤官九郎のエピソードなどは一場面だけなのに情感豊かに描いてうまいと思う(これは中村勘三郎のうまさのためもある)。僕は本筋の方も面白く見たけれど、難病をポイントにしてしまうのには少し抵抗を感じた。どう生きる意志を持たせるか、和美がどのようにして生きようと決意したかをもっと詳細に描くと、良かったかもしれない。和美が手術を受けようと考えを変えたら、主人公は過去から消えてしまう。愛する人のために願いがかなった時、自分は消えるという切なさをもっと前面に出してくれると、好みの映画になったと思う。主人公に「黄泉がえり」の草なぎ剛ほどの共感を持てないのは伊藤英明の演技のためか、脚本の描き方が不十分なためか。恐らく両方が原因なのだろう。

 舞台は北九州市門司。東京から仕事で北九州へ向かった主人公がふと気がつくと、かつての自宅のそばにいて、20年前の自分(富岡涼)に出会い、タイムスリップしたことに気づくという冒頭が好調である。比呂志は少年時代、離婚した母から祖母(吉行和子)に預けられてここで過ごした。慣れない学校と自宅で寂しさを紛らわせてくれたのが、近くに住む大学を卒業したばかりの和美だった。将棋の相手になり、バイオリンも教えてくれた和美を比呂志は好きだったが、和美はある日、入院してそのまま帰らぬ人となった。その間の事情をタイムスリップした比呂志は知り、和美に手術を受けさせようと、奔走することになる。同じ飛行機に乗っていた布川輝良(勝地涼)もタイムスリップしていた。布川はヤクザで殺しに失敗して、北九州でしばらく身を潜めるよう言われたが、たぶん自分は殺されると覚悟している。布川の母親は自分を生んだ時に死んでおり、母親に会えなかったことが布川の心残りとなっている。布川は母親が勤めていた保育園の園長(古手川祐子)から、母がレイプされ、自分がその結果の子だったことを知る。これもいい話なのだが、母親が生むことを決意した理由に今ひとつ説得力がない。

 SF的に考えれば、同じ飛行機には多数の乗客がいたのに、なぜ4人だけがタイムスリップしたのか、なぜ20年前なのかという点があいまいである。映画のテーマである「人生で一つだけやりなおすことができたら」という思いは他の乗客にもあるはずだろう。原作の場合はタイムマシンによって自分の意志で過去へ行くわけだから、かまわないのだが、映画の場合は4人の特殊性を何か設定しておいた方が良かったと思う。タイムスリップはあくまで物語を語るための手段というのは分かるのだが、そういう細部が重要なのである。いい話なのに本筋が「黄泉がえり」に劣った印象なのは細部の甘さがあるからだろう。

2005/10/14(金) フェニックス・リーグ スペシャルナイター

 茨城ゴールデンゴールズの萩本欽一さん

 宮崎サンマリンスタジアムで茨城ゴールデンゴールズ対12球団ファーム選抜の試合。のはずだったが、雨のため中止。宮崎市内は小雨だったが、球場に近づくにつれて雨脚が強くなった。球場はどしゃぶり状態だったので、中止も仕方ない。

 欽ちゃんはサービス精神旺盛で、試合中止のアナウンスがあるまで雨の中で観客の笑いをとっていた。中止が決まると、選手たちが出口に並んで観客に握手のサービスをしていた。うちの子どもたちもファームの選手たちと握手。

 雨だったのでコンパクトデジカメを持って行こうとしたら、電池切れ。一眼レフデジカメを持って行ったが、三脚は持って行かなかった。というか、デジカメ用の三脚は持っていない。きょう買うつもりだったが、どうせ中止だろうと思って買わなかった。ところが、3時45分の段階では試合を行うという発表があったのだった。で、5、6枚撮った写真はすべて出来が良くない。

 握手するファームの選手たち

 左の写真はF5.6、60分の1秒、300ミリ(APO MACRO SUPERII 70-300mm F4-5.6。今はAPO 70-300mm F4-5.6 DG MACROという名前に変わっている)、ISO400、マニュアル撮影(トリミングしてある。元の構図はこれ)。座席がネット裏の2階席だったので、AFではピントが合わないだろうと思ってマニュアルにしたが、やはりピンぼけ気味。最初はISO1600で撮ったが、シャッタースピードが1/60程度では露出が大きくなりすぎる。1/250なら良いのかな。

 ま、視力が悪いこともあるが、ナイター撮影は初めてだったので、感覚がつかめなかった。ということにしておこう。デジカメの場合、露出をすぐに確認できるのはメリットだな。液晶が小さいと、ピントまでははっきり分かりませんけどね。

 右の写真は携帯で撮影したもの(これもトリミング済み)。暗かったので動く人は流れて写る。データを見ると、シャッター速度は1/8。これでは流れても仕方がない。携帯にもストロボが欲しくなってくる。いや、簡単な補助光は付いているのだが、ほとんど使えないシロモノなのだ。

2005/10/10(月)「ナショナル・トレジャー」

 伝説の財宝をめぐる冒険アクション。別につまらなくはないのだが、オリジナリティはあまりない。アメリカ独立宣言書に財宝のありかが隠されているのが分かり、前半は国立公文書館からそれを盗む作戦がメイン。後半はお宝を狙う一団(ボスはショーン・ビーン)と主人公(ニコラス・ケイジ)の争奪戦となる。ジェリー・ブラッカイマー製作、ジョン・タートルトーブ監督。

 DVDには特典として最初に予定されていたエンディングを収録。いかにも続編を臭わせることから変更されたらしいが、実際に続編が計画されている。こういう冒険もの、ニコラス・ケイジでは少し弱いような気がする。