2005/10/18(火)「この胸いっぱいの愛を」(小説)

 「この胸いっぱいの愛を」小説版の表紙普通だったら、映画のノベライズは読まない。映画と関係ない作家(たいていは2流)が書いた小説が映画を超える作品になるはずはないからである。この小説は梶尾真治自身がノベライズしているから読む気になった。正解だった。これは映画よりも素晴らしい。その素晴らしさの要因の一つはラストを変えたことによる。このラストの改変によって、小説は多元宇宙の概念を取り入れた時間テーマSFの佳作になった。とても素敵で幸福なラストであり、映画とは決定的に異なる。

 小説にはタイムマシンのクロノス・ジョウンターが登場する。そして映画を見た時に感じた2つの疑問がちゃんと説明されている。飛行機には多数の乗客がいたのになぜ4人だけがタイムスリップしたのか。タイムスリップした時代が20年前だったのはなぜか。この2つの疑問は密接にかかわっており、それを説明するにはやはりタイムマシンが必要なのである。

 物語は映画と同じように進んでいく。ただ一つ、子どもを交通事故で亡くした夫婦が登場するところが違う。つまり1986年にタイムスリップしたのは6人になっているのである。この夫婦の20年前の行いはラスト近くにその結果が描かれる。これを見ても分かるように小説は「過去を変えることで未来は変えられる」という考え方に基づいている。登場人物たち、少なくともこの夫婦と主人公の比呂志は不幸な未来を変えるために20年前の時代で奔走するのである。

 元々、完成した小説(「クロノス・ジョウンターの伝説」)があり、それを映画化したものを元の原作者がノベライズするというのは非常に珍しい。映画のパンフレットで梶尾真治は「2001年宇宙の旅」を例に挙げているが、あれは映画用のプロットをクラークが書き、それを元にキューブリックは映画を作り、クラークは小説化したという経緯がある。だから「2001年…」の小説版は映画のノベライズではない。

 もちろん、この小説はノベライズだから映画のストーリーに引っ張られた部分が当然のことながらある。ノベライズという枠がなければ、もっと面白くできただろう。それにしても映画はこういうラストにすべきだったとつくづく思う。梶尾真治は「シン・シティ」のフランク・ミラーのように映画にかかわるべきだったのではないか。少なくとも脚本には協力した方が良かった。出来上がった脚本に手を入れて、この小説のような形にしていたら、映画はもっと評価が高かったと思う。だからSFの分かる脚本家でないとダメなのだ。

 映画が小説より優れていると感じたのはただ一場面だけ。例の中村勘三郎の登場シーンである。ここは小説にはより詳しく心理描写があるのだけれど、中村勘三郎の演技の説得力が勝っている。役者のレベルの高い演技はしばしばそういうことを生むのだろう。

2005/10/01(土)「蝉しぐれ」(小説)

「蝉しぐれ」文庫本カバーきょうから公開された映画の原作(藤沢周平著)。東京出張の帰りの飛行機の中で読み始めた。所々に胸を打つ場面があるが、もちろん安易な感傷が狙いの安っぽい小説ではない。多くの苦難に遭いながら、真っ直ぐに生きていく少年の成長を抑制された筆致で描き、教養小説(ビルドゥングスロマン)として読める作品だと思う。

主人公の牧文四郎は15歳。叔母の家に養子になった文四郎は「堅苦しい性格の母親よりも、血のつながらない父親の方を敬愛していた。父の助左衛門は寡黙だが男らしい人間だった」。そんな父が藩の権力争いに巻き込まれ、反逆の汚名を着せられて切腹を命じられる。切腹の前に短い時間、父と会った文四郎は言いたいことも言えずに面会を終えてしまう。

 言いたいのはそんなことではなかったと思った時、文四郎の胸に、不意に父に言いたかった言葉が溢れて来た。
 ここまで育ててくれて、ありがとうと言うべきだったのだ。母よりも父が好きだったと、言えば良かったのだ。あなたを尊敬していた、とどうして率直に言えなかったのだろう。そして父に言われるまでもなく、母のことは心配いらないと自分から言うべきだったのだ。

文四郎の家は三十石を七石に減じられ、一軒家から古い長屋に居を移す。幼なじみのおふくとの淡い恋心と別れ、2人の親友との交流など少年期の瑞々しい描写を挟みつつ、物語は剣に打ち込む文四郎と藩に渦巻くどす黒い権力争いを描いていく。

もっともっと長く読みたい小説である。これの倍ぐらいの長さがあってもかまわなかったと思う。それほど文体も自然描写の仕方も人物の描き方も心に残る。物語が終わった後にエピローグ的に描かれる20数年後の文四郎とおふくの姿は切ないけれど、通俗的にそこだけを取り上げてどうこう言う作品ではないと思う。巻末にある秋山駿の解説が素晴らしいほめ方をしていて、絶対読まなければという気にさせる。