2006/10/10(火)「レディ・イン・ザ・ウォーター」

 「レディ・イン・ザ・ウォーター」パンフレットアパートのプールに現れた水の精ナーフをめぐるファンタジー。ナーフを悪の獣スクラントから守り、元いた世界に帰すためアパートの住人たちが力を合わせる。水の精と人間はかつて一緒に暮らしていたが、離れて暮らすようになって人間界には争いごとが生まれた。水の精たちは人間に接触しようとしてきたが、スクラントによって阻まれてきた。ナーフを無事に帰らせることは、世界に平和を取り戻すことにつながる、という設定。アパートの住人たちにはそれぞれにナーフを助ける能力が備わっているが、だれがどんな能力を持ち、どういう役割を果たすのか分からない、というのがM・ナイト・シャマランらしい仕掛けで面白かった。この役割が分からないという仕掛けは「アンブレイカブル」(2000年)に通じるもので、丁寧な語り直しという感じである。そしてこの1点でこの映画は寓意性が深く、広がりのある物語になったと思う。主人公はかつて医師だったが、留守中に強盗から妻子を殺され、アパートの管理人の仕事をするようになった。失意の人物がある出来事を通して再生を果たす物語であり、平凡な住人たちが自己実現を果たす物語でもある。不評が多いようだけれど、個人的には好きな映画だ。

 クリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)が管理人として働くアパートのプールで夜中に水音がする。誰かが泳いでいるらしい。クリーブランドはある夜、水の中に女を発見するが、プールに落ちて気を失ってしまう。気づくと、自分の部屋の中。女(ブライス・ダラス・ハワード)はストーリーと名乗る。アパートに住む韓国人女子大生(シンディー・チャン)が母親から聞いた伝説でストーリーは水の精(ナーフ)と符合することが多いと分かる。水の精は人間界の“うつわ”と会うことで、人間界に平和をもたらす存在だった。アパートの住人の中にそのうつわはいた。そしてアパートの住人たちも水の精を助ける役割を持っていることが分かった。記号論者(シンボリスト)、守護者(ガーディアン)、職人(ギルド)、治癒者(ヒーラー)の役割。ストーリーは自分のいた青い世界に帰ろうとするが、スクラントに襲われて失敗。ストーリーにはあと一度だけ、帰るチャンスがあった。住人たちはそれぞれの能力を発揮して、ストーリーをスクラントから守ろうとする。

 いったん、それぞれの役割が分かった後でそれをひっくり返し、クライマックスで本当の役割が分かるという展開がいい。主人公は当初、守護者と思われたが、アパートに最近引っ越してきた映画評論家(ボブ・バラバン)がそれではないかと思わせる描写があり、さらにクライマックスで別の人物が守護者とようやく分かる。大きなどんでん返しはないものの、こうした小技を盛り込んだ脚本は悪くない出来だと思う。元々はシャマランが子供を寝かせるために考えたベッド・サイド・ストーリーという。そうしたおとぎ話の雰囲気と寓意性がこの映画にはある。

 ストーリーを演じるブライス・ダラス・ハワードはほとんど化粧っけなし。人間離れしたとさえ感じる清楚な容貌が水の精役にぴったりだ。ストーリーはクリーブランドの日記を読んで、クリーブランドの過去を知る。クリーブランド役のポール・ジアマッティがそのあたりの過去を背負ったキャラクターに深みを与えていて相変わらずうまい。

2006/10/07(土)「フラガール」

 「フラガール」チラシ昭和40年、福島県の常磐炭坑でハワイアンセンター開業のためにフラダンスに打ち込む少女たちを描いた李相日(リ・サンイル)監督作品。チームには長年続いてきた炭坑生活から抜け出したい少女と夫が炭坑を解雇され、生活のためにフラダンスの道を選ぶ主婦とが混在する。いずれも後がない状況の中だけに登場人物のそれぞれの行動には胸を打たれる。炭坑の男たち女たちの古い価値観とフラダンスを選んだ人々との新しい価値観の対立は視点としては前例がいくらでもある平凡なものだが、李監督は細部のエピソードで話に説得力を持たせている。お決まりのストーリーにどう工夫を凝らすかについては文句はないし、蒼井優、松雪泰子のダンスも素晴らしい。しかし、どこか突き抜けた部分がない。大衆性を備えており、全体的によくまとまったウェルメイドな作品であることは認めるが、どうも手放しで絶賛しにくい部分が残った。寺島進演じるやくざっぽい人物の描き方が不十分とかそういう些末な問題を越えて、この映画には脚本の構成上のちょっとした計算違いがあるように思う。

 落盤の危険を意識しながら死と隣り合わせで炭坑に潜る炭坑夫たちにとって、フラガールたちが客の前で踊って媚びを売って金をもらう存在としか思えないのは当然のことだろう。そのフラガールたちがどう古い価値観の人たちの理解を得ていくかが大きな見どころ。それは蒼井優が練習の末に身につけたダンスを母親(富司純子)に見せるシーンであったり、寒さで枯れそうになった椰子の木を助けるために組合幹部に土下座してストーブを貸してくれるよう頼む男の姿であったりする。ふわふわした気持ちで取り組んでいるわけではない。自分たちも必死なのだという姿勢があるので、観客の心をしっかりとつかむ展開になっている。そしてフラダンスに反対していた富司純子が「木枯らしぐれえであの子らの夢を潰したくねえ。ストーブ貸してくんちぇ」とリヤカーを引くようになる場面が個人的には最も感動的な場面だった。

 この価値観の対立が解消してしまうと、あとは付け足しのように思える。だからハワイアンセンターがオープンし、そのステージで踊るフラダンスの高揚感が今ひとつ効果的にはなっていない。付け足しだから仕方がないのだ。このステージを見た母親が心変わりするという展開の方がクライマックスの感動は大きくなったのではないか。いや、母親でなくてもいい。組合幹部にハワイアンセンターに強硬に反対する人物を設定しておいて、その人物の心変わりを描いても良かったと思う。クライマックスの蒼井優のフラダンスはそのうまさには感心するが、心に響かないのは既に母親の前で素晴らしいダンスを見せているからだ。そして残念ながら、クライマックスを意識したためか、母親の前でのダンスは短く、十分に堪能させてくれた「花とアリス」のクライマックスのバレエシーンには及ばない。あのストーリーの流れから生じた情感とバレエの技術が一体となったような在り方がこの映画のクライマックスにも必要だったのだと思う。

 このクライマックスにはフラダンスと並行して相変わらず炭坑に向かうトロッコに乗る豊川悦司たちの姿が描かれる。ここをもっと強調したいところではある。例えば、同じく炭坑の町を舞台にした「遠い空の向こうに」(ジョー・ジョンストン監督)では古い価値観を持つ父親(クリス・クーパー)をもまた肯定的に描いていた。あるいは「リトル・ダンサー」(スティーブン・ダルドリー監督)でも頑固な父親の存在が大きかった。この映画はこうした前例を参考にしているだろうから、もっと新旧の価値観の対立と和解に工夫があっても良かったのではないかと思えてくるのだ。そのあたりのオリジナリティーの欠如が惜しいところで、手放しの絶賛をしにくい理由になっている。

 ビールを片手に登場し、たばこをスパスパ吸う松雪泰子の役柄は過去に問題があったことをうかがわせる。それを具体的に描写しないのはハードボイルドな在り方で悪くはない。蒼井優ら生徒たちに見せるダンスは彼女たちにダンスの魅力を伝えるのに十分な出来で、キャラクターに深みを与える演技も含めて松雪泰子がここまでうまいとは思わなかった。豊川悦司や岸部一徳らの演技もいい。

2006/10/03(火)「スーパーサイズ・ミー」

 この映画の上映の後、マクドナルドはスーパーサイズの販売をやめたというのがいい。マクドナルドは否定しているそうだが、映画の立派な効果。しかし、この映画が面白いのはマクドナルド批判ではなく、アメリカの食生活そのものの批判になっているところだろう。

 学校の給食でジャンクフードを食べさせているというのが驚く。フライドポテトや炭酸飲料が給食で出るというのは信じられない。アメリカの政府も教育委員会も食品団体から圧力を受けているのだろう。そういう給食に対して手作りのナチュラルな給食を出すようになった公立高校で荒れていた生徒の行動が落ち着いたというエピソードを入れているのがうまいところ。食生活はやはり健康の基本なのだと痛感させられる。

 うらやましいのは主演で監督のモーガン・スパーロックには食生活に気を遣ってくれる美人の恋人がいること。これが一番健康に良いのかもしれない。スパーロックは来年公開予定の「The Republican War on Science」という映画を製作するとアナウンスされている。

2006/09/28(木) 760MBのテキストファイル

 職場のパソコンにデフラグをかけてみたら、ほとんどフラグメンテーションが改善されない。ログを見ると、760MBのテキストファイル(!)があって、断片化している。これはなんだと思ったら、ウイルスバスターのログファイル。こんなに大きなログファイルを作っていったいどうする。秀丸でだって開くのに時間がかかってしようがない。というか、途中で開くのをやめた。恐らくこのファイル100万行以上あるのではないか。

 こういうログファイルは初めて見た。いくらなんでも、トレンドマイクロ、やりすぎだろう。古い行を削除するとか、一定行までいったら新しいファイルを作るとかの機能はないのだろうか。ちなみに職場のパソコンに入っているのはウイルスバスター2004。既にサポートは終わり、パターンファイルの更新もできなくなっているので近く、担当者が新しいバージョンを入れに来るそうだ。2007はやめた方がいいよ、と担当者に言っておいた。

2006/09/27(水)「わたしを離さないで」

「わたしを離さないで」表紙 SFとミステリの枠組みで語られる文学。それも素晴らしい文学。中心となるアイデアは昨年公開された映画「アイランド」に似ているが、展開がまるで異なる。最初のページに登場人物たちの秘密につながる重要なキーワードが既に出てくるし、数ページ読み進めるうちにこれはあの映画と同じではないかと分かってくる。そして3分の1ぐらいのところで作者のカズオ・イシグロはそれを明らかにする。その場面が特に強調されるわけではない。そこに至るまでに読者には秘密が分かっているからだ。作者の意図は秘密よりもその立場に置かれた若者たちを描くことにあったのだろう。

 煎じ詰めれば、これは「限られた短い命を定められた若者たちの生き方」を描いた話である。彼らの制限された生き方は普通の人たちと違うのか。少しも違わない。彼らもまた恋をするし、些細なことで怒ったり、笑ったりする。仲間内のいじめもある。にもかかわらず、この小説の全体にあるのは透明で深い悲しみだ。同時に彼らに課せられた過酷な運命とそれを人為的に作り出した人間たちに怒りが湧いてくる。そしてもちろん、カズオ・イシグロは意識しているだろうが、倫理的な問題が残るこの技術を安易に進めるべきではないとの強烈なメッセージになっている。

 彼らの置かれた状況は戦時下にも置き換えられるし、難病を生まれつき背負った患者にも置き換えられる。強制収容所に入れられたユダヤ人たち、屋根裏部屋に隠れて生き延びようとしたアンネ・フランクをも彷彿させる。そこがこの小説の優れたところなのだろう。読売新聞の作者インタビューによれば、「イギリスの田舎に住む若いグループが、核兵器によって短い人生を終えるというのが当初の設定」だったという。自分たちの運命を受け入れ、それでも小さな幸福と小さな喜びにすがって生きる彼らの生き方には胸を締め付けられる。

 終盤、主人公の介護人キャシーとその恋人のトミーは3年間だけ平穏に暮らせるといわれる方法の真偽を確かめる。それが残酷な結末に終わっても、この小説の魅力はそうしたプロットにあるわけではない。例えば、第1章にあるこんな場面で僕はこの小説に引き込まれた。

 癇癪持ちであるためにみんなからいじめられるトミーにキャシーが語りかける場面。トミーは得意のサッカーの選手に選ばれると期待していたが、選ばれず、ぬかるみの中で叫びながら地団駄を踏んで、一番お気に入りのシャツを泥だらけにしてしまう。

「トミー」と、わたしはとがめる口調で言いました。「大切なシャツが泥だらけじゃない」
「だから何だよ」ぼそぼそと言いながら、トミーは下を向き、点々とついている茶色の染みに気づきました。わっと叫ぼうとして、危うく思いとどまったふうでした。次に現れたのは意外そうな表情です。これが大事なポロシャツだってこと、こいつはなぜ知ってる……? その思いだったでしょうか。

 穏やかで繊細な筆致で統一されたこの小説はだからこそ、読む者の胸に迫る。カズオ・イシグロの「日の名残り」は僕には関係ない世界と思って、小説も読んでいないし、映画も見ていないが、これほどの小説を書ける作者の本はすべて読みたくなる。そう思わせるほどの傑作。