2006/01/31(火)「空中庭園」

 「空中庭園」パンフレット「これは学芸会なんだわ、学芸会なんだわ」と言いながら、ワインを飲み過ぎたミーナ(ソニン)が貴史(板尾創二)に向かって「オエッ」と吐いてしまう場面を見て、思わず「ウワッ」と声をあげてしまった(幸い、劇場にいた観客は僕一人だった)。この後に主人公絵里子(小泉今日子)の家庭である京橋家の誕生パーティーは悲惨な修羅場と化してしまう。学芸会とは言うまでもなく、この仮面夫婦ならぬ仮面家族の一見和やかそうな雰囲気のことで、恐らくミーナはワインに酔ったからだけではなく、家族の嘘くささに気持ちが悪くなって吐いてしまったのだ。

 何事も秘密にしないという家族の決まりとは裏腹に、家族4人はそれぞれに秘密を持っている。絵里子はいつも笑顔を絶やさず、夫と長女(鈴木杏)と長男(広田雅裕)の4人家族を取り仕切っているが、一人になった時には般若のような怖い顔を見せる。それがなぜなのかを映画は徐々に明らかにしていく。それは絵里子の子供の頃にさかのぼり、母親との確執が根底にあった。という設定を見れば、カーティス・ハンソン「イン・ハー・シューズ」との類似性も何となく感じてしまう。

 絵里子を演じる小泉今日子のもの凄い演技と母親を演じる大楠道代の懐の深い演技がこの映画の見どころで、もうめっぽう面白い作品に仕上がっている。深刻な題材でありながら、サスペンスだったり、ホラーだったり、ショッキングだったり、コメディだったりするところ、つまりエンタテインメントなところが素晴らしい。いや、監督の豊田利晃はもしかしたら、そう受け取られることは不本意なのかもしれないが、この映画の面白さはそういう部分が積み重なったところにあるのだから仕方がない。だからこれは監督が意図しないところで生まれた奇跡的な大ホームランなのではないか、と僕は思う。決して精緻に組み上がった作品ではなく、乱暴な部分もあるけれど、それが逆に面白いという映画である。

 例えば、京橋家が住むマンションが画面の中でぐるりと1回転してタイトルが出る場面など何か青臭い撮り方だなと思う。ゆらゆら揺れる長回しのカメラワークにしても、監督の思い入れが強すぎるきらいがある。また、絵里子が母親との不幸な家庭を反面教師にして幸せな家庭を築こうと、15歳のころから基礎体温を計って計画的に努力する要因となった出来事の精神分析的な部分での説明も不足している。母親が嗤った顔だったか、泣き顔だったかを誤解しただけで人は思いこみに突っ走っていくものかどうか。そう思うに至った要因までも探るのが本当だろう。この映画の説明だけではすっきりしない部分が残ったので原作を買うことになった。

 そういう十分とは言えない部分があるにもかかわらず、映画が面白いのは小泉今日子に尽きる。笑顔と怒りの落差の激しさは一歩間違えれば、それこそホラーなのだが、ぎりぎり踏みとどまっている。ホラーとかサスペンスとかに似ている部分があるのは絵里子にサイコな部分があるからだ。「幸せな家庭を作りたい」という願いはいつのまにか「作らなければならない」という強迫観念になってしまって、夫の浮気などいくつか目に付く綻びも意識的に見ないようになっている。いったんは壊れた家族が再生へと向かうのは絵里子の再生とそのまま重なっている。家庭を壊したのは実は幸せな家庭を築こうとした絵里子自身にほかならない。現実をありのままに受け入れることで、絵里子が再生を果たすという展開は甘いが、豊田利晃は救いのない映画にはしたくなかったのだろう。クライマックス、真っ赤に血に染まった絵里子の姿は劇中で語られる「人は泣きながら血まみれで生まれてくる」という言葉と呼応するという分かりやすさがまた良いところか。

 キネマ旬報ベストテンでは9位にランクされた。もっと上でも良かったと思う。

2006/01/30(月)「THE 有頂天ホテル」

 「有頂天ホテル」パンフレットグランドホテル形式で描く都会的なコメディ。三谷幸喜の映画は評判になった「ラヂオの時間」(1997年、キネ旬ベストテン3位)も「みんなのいえ」(2001年)もそれほど感心しなかったが、これは素直に面白かった。数多くの登場人物を出し、細かいエピソードをつなぎ合わせる手腕はたいしたもので、西田敏行と香取慎吾と佐藤浩市が絡むエピソードなど、昨年11月22日の日記に書いた僕が考えるうまい脚本の例とほぼ同じである。

 洪水のようなセリフとドタバタした慌ただしい展開の中で、ふっと立ち止まるシーン(例えば、ベッドの中で物思いにふけっているYOU)が効果的だ。大晦日のカウントダウン・パーティーに関わる人々はそれぞれにどこか現状に満足していない。その思いを解消していく終幕へのもって行き方がとてもうまい。「夢をあきらめてはいけない」「他人の目を気にするな」「自分らしく生きろ」という当たり前のことが当たり前にできていないからこそ、その言葉は僕らを元気づけてくれるのだろう。クスクス笑って、爆笑して、最後は心地よい気分になる映画。ホテルの中に限定した作りは演劇的な要素が強いけれど、同時にハリウッドの50年代の映画の雰囲気を備えたソフィスティケイトされた映画であり、映画マニアだからこそ作れた映画だと思う。三谷幸喜がこの映画の中で多数引用している過去の映画の断片や、さりげない伏線の数々はとても一度見ただけでは全部を見つけられないだろう。2度、3度見ても新たな発見ができるのではないか。

 キネ旬1月下旬号の三谷幸喜と和田誠の対談によれば、三谷幸喜はこの映画を「火事の起こらない『タワーリング・インフェルノ』」として作ろうとしたという。そう言われてみれば、パニック映画には多数の登場人物が出てきて、災害に遭うことでそれぞれのドラマを展開させていくわけで、グランドホテル形式と似ている。映画は高級ホテル「アバンティ」の副支配人・新堂(役所広司)を主人公にして、カウントダウン・パーティーの準備を進めるホテルの従業員や宿泊客のさまざまな事情と次々に起こるトラブルをテンポ良く描いていく。主要登場人物だけで25人、描かれるエピソードはとても多くて、映画数本分の数が詰め込んである。早口のセリフで映画が進むので、ああこれは伏線をいくつも見逃しているだろうなという気分になるが、それは脚本の計算でもあるのだろう。観客に考える暇を与えないようなスピードで映画はどんどん進んでいく。だからこそ、それが止まるシーンの印象が強まることになる。

 先に挙げたYOUは、本来は洋楽を歌いたいのに事務所の社長(唐沢寿明)から邦楽に変更され、しかもホテルに取り入るために新堂と一夜の関係を強要されることになる。ホテルのベルボーイ憲二(香取慎吾)は歌手の道をあきらめて故郷へ帰ろうとしている。国会議員の武藤田(佐藤浩市)は汚職疑惑でマスコミから追いつめられる日々。新堂はホテルマンとして優秀であるにもかかわらず、演劇をあきらめた過去にこだわっている。そうした人々が騒動の中で立ち止まって考え、自分の行く道を確認することになるのだ。ラスト近くにある役所広司と佐藤浩市の「いってらっしゃいませ」「帰りは遅くなる」という会話はだからこそしびれる。

 三谷幸喜はこの多くの登場人物の画面には描かれない背景まで細かく設定しているのだろう。撮影現場での俳優のアドリブも多く、それを脚本に取り入れたそうだが、それはこうした設定がしっかりしているから出てくるのだと思う。この映画の中で多用されるワンシーン・ワンカットを僕は映画的な技術とは思わないが、それでもこの映画においては俳優の演技の持ち味を引き出す上で有効に作用していると思う。その効果で西田敏行のシーンはどれもおかしかった。

 ぜいたくを言うなら、香取慎吾の歌う「天国うまれ」という歌にもっと魅力がほしかったところではある。これは佐藤浩市の心変わりの契機になる歌なので、ちょっと聞いただけで傑作というぐらいの歌を用意したいところなのだ。オリジナルではなく、既存の有名な曲であってもかまわなかったと思う。

2006/01/12(木)「輪廻」

 「輪廻」パンフレット「呪怨」の清水崇監督の新作で、35年前に大量殺人があったホテルを題材にした映画のスタッフとキャストが怪異に襲われるホラー。中心となるアイデアは過去にも例があり、ちょっと考えただけで、設定は異なるけれどもポール・バーホーベンのあの作品とかアラン・パーカーのあの作品が思い浮かぶ。リーインカーネーションを描いた映画としてはこうするか、それこそ「リーインカーネーション」(1976年、J・リー・トンプソン監督)のようにするかしかないのだろう。また、大量殺人のあったホテルと言えば、スティーブン・キング「シャイニング」=映画化はスタンリー・キューブリック=を思い出さずにはいられず、「輪廻」は幽霊屋敷もののバリエーションとも言える(幽霊屋敷の最高傑作は「シャイニング」ではなくリチャード・マシスン「地獄の家」=映画化はジョン・ハフ「ヘル・ハウス」=だと思う)。考えてみれば、「呪怨」自体、幽霊屋敷もののバリエーションであったわけだが、あれは場に取り憑いた怨念が無関係の人まで巻き込んでいく怖さがあった。「輪廻」の場合、幽霊屋敷と生まれ変わりをミックスさせた結果、関係者のみが犠牲になることになり、それで怖さが半減している(もっとも、誰が関係者であるのかは本人にさえ分からない)。出来事に合理的な説明があるので怖くなくなったし、スケールが小さくなったのは残念だが、映画のまとまりは、脚本がしっかりしているので「呪怨」よりも上だろう。こういうジャンルで新しいアイデアを取り入れるのは容易ではないが、あと一ひねりしたいところだ。

 映画監督の松村(椎名桔平)は35年前、群馬県のホテルで起きた大量無差別殺人を描いた映画「記憶」の製作を進めていた。大学教授が家族を含む11人を殺して自殺した事件。映画のオーディションに行った女優の杉浦渚(優香)はその直後から不気味な少女の幻影を見るようになる。オーディションに合格した渚はスタッフ、キャストともに事件のあったホテルへ行く。そこでも渚は不気味な幻影を見る。やがてその少女は事件の犠牲者で教授の娘だったことが分かる。渚はその少女の役を映画で演じることになっていたのだ。女子大生の木下弥生(香里奈)は小さいころから赤い屋根のホテルの夢を見続けていた。弥生は恋人の尾西(小栗旬)から自分の前世を知っているという新人女優・森田由香(松本まりか)を紹介される。由香には首に絞められたような痣があり、図書館で何者かに連れ去られてしまう。弥生は35年前の事件を調べ、やがてホテルにたどり着く。

 クライマックスは犯行が記録された8ミリの映像と映画の撮影現場で渚を襲う怪異とホテルで恐怖にさらされる弥生の3つのシーンが交互に描かれる。荒れ果てたホテルが一瞬にして新しくなるところなどはそのまま「シャイニング」だが、このクライマックスの構成や映画のセットが実際のホテルにオーバーラップしていく場面は映画のオリジナルなところだと思う。冒頭、2人の男が何者かに襲われて死ぬ。実は訳の分からないここが一番怖い雰囲気がある。クライマックスが怖くなく、ある意味笑えるシーンさえあるのは訳が分かってしまったからで、だから観客の予想をもう一度裏切るようなショッキングなひねりが欲しくなるのだ。「ヘル・ハウス」が面白かったのは最後の最後まで謎を引きずった部分があり、それを解くことが幽霊の撃退につながっていたためだ。マシスンのアイデアの勝利といったところか。映画のオリジナルでああいう手の込んだストーリーを考えるのは難しいのかもしれない。

 主人公の優香は恐怖に引きつる演技がなかなかうまかった。香里奈も好演しているが、一番のうまみは一シーンだけ出てくる黒沢清か。知的な感じが役柄に合っていた。この映画、一瀬隆重プロデュースによるJホラーシアターの第2弾(第1弾は2004年公開の「感染」「予言」2本立て)。僕が見た劇場では観客4人だった。いくら世界配給が決まっているとはいっても、ヒットしてくれないと、後が続かないのではないか。この映画自体、世界を意識して真っ当なホラーに(暗闇でいきなりワッと脅かすようなあざとい演出を控えめにして)仕上げたのかもしれない。

2006/01/04(水)「北の零年」

 「北の零年」チラシ酷評が多かったが、テレビで見ると長すぎる(2時間48分)のを除けば普通の作品に見える。ただ、誰もが言うように吉永小百合がこの役をやるのは年齢的に無理。どう見積もっても20年前までしか成立しない配役で映画を作ろうとした企画自体に失敗の一因があったと思う。しかし、それ以上に感じたのは脚本・演出における描写の弱さだ。北の大地で苦闘する人々の描写にリアリティが不足しており、これが致命傷になった感がある。それこそテレビドラマ並みの描写しかないのである。

 明治4年、徳島の淡路島の藩が明治維新の混乱で北海道に移住を命じられる。第一陣の546人は新しい国づくりを目標に懸命に開拓に励むが、廃藩置県によって、藩はなくなり、彼らは藩からも国からも見捨てられる。木を伐採し、荒れ地を開墾していく武士とその家族の様子が前半ではメインになる。ストーリーは悪くないのに響いてこないのは北海道の寒さが通り一遍にしか描かれない上に、稲が育ちにくい地での農業の在り方もそこから生じる貧しさの描写もありきたりであるためだ。農業の苦闘を描くのならば、「愛と宿命の泉」(1986年)ぐらいの描写が欲しいところ。それができなかったのは脚本の那須真知子も監督の行定勲も農業の実際を知らないからだろう。だいたい開拓の話を那須真知子に書かせる方が間違っている。

 行定勲の狙いは武士が開拓をするというミスマッチを描くことにあったのかもしれない。薬売りの香川照之がのし上がり、武士たちを苦しめる描写などは面白いし、いやらしさにリアリティを持たせた香川照之の演技のうまさはこの映画の数少ない見どころとなっている。ただ、これもよくある悪徳商人対武士の図式にすぎない。

 妻(石田ゆり子)を香川照之に取られて落ちぶれる柳葉敏郎や、やはり香川照之の下で働かざるを得なかった石橋蓮司の苦渋、何よりも妻子を見捨てた渡辺謙の心変わりを詳細に描けば、何とかなったのかもしれない。那須真知子としては後半、吉永小百合が馬を育てて成功するあたりをメインにしたかったのだろうが、これも詳細な描写がないので説得力を欠いている。吉永小百合の娘役で「SAYURI」の大後寿々花が出ていることは記憶に値するか。

2006/01/03(火)「ZOO」

 乙一の短編集の中から5編を5人の監督(金田龍、安達正軌、水崎淳平、小宮雅哲、安藤尋)がオムニバスで映画化。「カザリとヨーコ」「SEVEN ROOMS」「SO-far ソ・ファー」「陽だまりの詩」(アニメ)まで見て、なかなかバラエティに富んでいて面白いと思ったが、最後の「ZOO」がよく分からない。積ん読状態(「カザリとヨーコ」のみ読んでいた)だった原作を読んだら、ああこういう話かと納得できた。映画の方はフェリーニ「悪魔の首飾り」のような雰囲気だが、話が分かりにくいのでは仕方がない。

 「SEVEN ROOMS」には須賀健太(「三丁目の夕日」)、「SO-far ソ・ファー」には神木隆之介(「妖怪大戦争」)が出ていて、どちらもうまい。「陽だまりの詩」はロボットが出てくる破滅SFで、こういう話は好きである。