2006/02/26(日)「県庁の星」

 「県庁の星」「あたしたちには県庁さんの力が必要なんです」。高校を中退して16歳から三流スーパーにパートで勤める二宮あき(柴咲コウ)が主人公の野村聡(織田裕二)に言う。もちろん、「県庁さん」とは県庁の組織のことではなく、主人公を指す。野村は県の巨大プロジェクトの中心にいて、「県庁の星」と期待されていたが、派閥によってプロジェクトから外され、建設会社社長の娘との婚約も解消。自分が望んでいたものをすべて失い、「エリザベスタウン」の主人公のようなどん底の状態に落ちる。ショックで民間研修先のスーパーも無断欠勤。そこへ、野村が書いたスーパーの改善計画を読んだあきがやってきて「あなたが必要だ」と話すのだ。「あたし、いつも気づくのが遅いんだ」。

 あきの言葉がきっかけとなり、野村はスーパーの改善に懸命に取り組み、同時に一般庶民の視線に立って人間的な成長を果たしていく。桂望実の原作を「白い巨塔」や「ラストクリスマス」などテレビドラマのディレクター西谷弘が監督。終盤にある主人公の演説シーンなどは設定がリアリティーに欠けるし、県庁内部の描写にステレオタイプなものもある。しかし、後半、厳しい現実を知った主人公がそれまでの上昇志向から変わっていく姿には深く共感できるし、映画デビュー作としては上々の出来と思う。こういう話、僕はとても好きだ。織田裕二もいいけれど、目の動きや言いかけた言葉、さりげない仕草に深い情感を込めた柴咲コウの演技にほとほと感心させられた。柴咲コウ、「メゾン・ド・ヒミコ」に続いて絶好調である。

 元々、野村がスーパー「満天堂」に研修に来たのは事業費200億円をかけたプロジェクトを成功させるためだった。そのプロジェクト、「特別養護老人複合施設(ケアタウン)」の建設は市民団体から反対の声が起きていた。プロジェクトに民間の視点を取り入れるため、野村など数人が民間企業に研修に行くことになる。スーパーのことを知り尽くし、“裏店長”と呼ばれるあきが店長(井川比佐志)から野村の教育係に指名される。最初は反発し合っていた2人が徐々に心を開くのはこうしたドラマの定跡と言えるが、この映画、べたべたしない展開が非常に良い。少しずつ少しずつ、2人は距離を縮めていくのだ。原作では中年女性のあきを25歳の女性に変更したのはロマンスの要素を取り入れるためだそうで、それは成功している。

 町並みにそびえ立つ県庁のビルは庶民とかけ離れた県の政策、姿勢の比喩でもあるのだろう。高層ビルから下界に降りた野村は庶民の高さで物事を見ていくようになる。そしてスーパーの現状を仕方がないとあきらめていたあきも野村によって変わっていくことになる。「出会うはずのなかった二人 起こるはずのなかった奇跡」というこの映画のコピーは内容を端的に表していてうまいと思う。外国人もいるスーパー店員たちとの交流や売れる弁当を作るために主人公が奮闘する「満天堂」内の描写はどれも良い。残念ながら、県庁の描写はやや誇張された部分が感じられる。プロジェクトの話も原作にはないそうで、どうもこの部分の処理があまりうまくないのだが、人生の絶頂にあった主人公が転落するドラマティックさを強調するためには必要だったのかもしれない。

 柴咲コウは「日本沈没」の撮影が終わって1週間でこの映画の撮影に入ったそうだ。準備期間がほとんどないままで、これだけの演技ができるのなら大したものだと思う。大作などよりはこうした生活感のある役の方が向いているのではないか。

2006/02/10(金)「博士の愛した数式」

 「博士の愛した数式」パンフレット吉岡秀隆がなぜ自分がルートと呼ばれているかを教室で生徒に説明する。それがこの物語の語り方。原作でルートは確かにラストで数学の教師になるが、黒板で数式の説明するようなシーンは映画としては、うまくはないなと思う。原作の地の文にある数学の説明をするには黒板は確かに便利だが、日本のSF映画でよくあった白衣の科学者が物事を説明するシーンになんだか似ているのだ。しかし、これは小さな傷で、全体としては心優しい気分になれる佳作だと思う。博士(寺尾聰)と義姉(浅丘ルリ子)の関係を原作より明確に描いたことは生々しくなってあまり好みではないのだけれど、ゆったりとした静かな物語のアクセントになっている。「義弟には10年前の私の姿がそのまま見えているのです」という義姉の言葉にはドキリとさせられた。博士の記憶が80分しかもたないことによって、この2人は他人には入り込めない濃密な関係にある。同時に80分しか記憶を持てないがゆえに博士は苦しみも悩みも記憶せずに純粋でいられる。小泉堯史の脚本・演出は博士の枯れた静謐な生活の裏にどろどろしたものがあることをそっと浮かび上がらせている。博士の純粋さに惹かれていく深津絵里の真っ直ぐな生き方が心地よい。

 家政婦として働きながら10歳の子供を育てる主人公が元大学教授の博士の家で働き始める。博士は10年前に交通事故に遭って職と記憶の能力を失い、その後は義姉の世話になって離れに住み、細々と暮らしている。数学雑誌の懸賞に応募して賞金を得るのが唯一の収入である。原作で素晴らしいのは博士の人柄を示すこんなシーンである。

 「プレゼントを贈るのは苦手でも、もらうことについて博士は素晴らしい才能の持ち主だった。ルートが江夏カードを渡した時の博士の表情を、きっと私たちは生涯忘れないだろう。(中略)彼の心の根底にはいつも、自分はこんな小さな存在でしかないのに……という思いが流れていた。数字の前でひざまずくのと変わりなく、私とルートの前でも足を折り、頭を垂れ、目をつぶって両手を合わせた。私たち二人は、差し出した以上のものを受け取っていると、感じることができた」

 家政婦が何人も辞めた変わり者でありながら、数学を愛し、謙虚な姿勢を貫き、子供を庇護する。タイガースファンであるという共通点を持っていた博士と家政婦親子の3人は一緒に過ごすことで幸福な時間を得る。原作はそうした幸福な描写と数学の魅力がうまく調和して、とてもとても心地よい話になっている。ただし、原作を読んで少し不満に思ったのは終盤にもっと大きな秘密が明らかになるのではないかというこちらの想像がまったく裏切られたことだった。これはミステリ慣れしている自分が悪いのだけれど、映画はそういう不満をラスト近くの義姉の言葉によっていくらか緩和してくれた。両親も捨て、親戚も捨て、世捨て人のように暮らしている2人の関係がより現実的に浮かび上がってくるのである。

 映画が幸福な描写だけに終始していたら、小泉堯史らしい映画ということで終わっていただろう。この脚本、決して絶妙にうまいわけではないが、少なくとも映画としてのバランスは取れている。寺尾聰と深津絵里が良く、特に深津絵里は映画では初めての適役といっていいぐらいの演技だと思う。