2006/03/28(火)「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」

 「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」パンフレット「ハウルの動く城」「ティム・バートンのコープス・ブライド」を抑えてアカデミー長編アニメーション賞を受賞したクレイ(粘土)アニメ。野菜畑を荒らすウサギに対抗する発明家ウォレスと愛犬グルミットの活躍を描く。と、簡単にストーリーは要約できず、途中で狼男や「ザ・フライ」を思わせる展開になる。ウサギ吸引装置の場面などにCGも使っているが、そこもクレイ・アニメの雰囲気に似せて作ったそうだ。イギリスのスタッフらしく、細かいギャグやサスペンスタッチも取り入れて粋な仕上がりである。ただし、あくまでも子供向け。随所にある過去の映画の引用やパロディ的な描写も子供に分かる程度の内容になっている。その品の良さがアカデミーでは好まれたのかもしれない。あまのじゃくなファンとしては、長編よりも5分か10分ぐらいの短編をたくさん見た方が満足感が高いのではないかと思ってしまう。短編の方が向いている題材ではないかと思うのだ。

 巨大野菜コンテストが間近に迫った町で、ウォレスとグルミットは害獣駆除隊「アンチ・ペスト」として畑を守っていた。いたずらウサギを捕まえて、被害を防ぎ、新聞の一面を飾る。それを見たコンテストの主催者レディ・トッティントンから連絡が入り、ウォレスとグルミットはトッティントンの畑にいた大量のウサギを吸引装置で駆除する。捕まえたウサギは地下室で飼っていたが、ウォレスは自分が発明した装置を使って、ウサギを野菜嫌いにしようとする。チーズ好き、野菜嫌いの自分の思考をウサギの脳に送って野菜嫌いにする計画。しかし満月の光も借りて行った実験は失敗に終わる。ある夜、巨大なウサギが畑を荒らす事件が発生。再びかり出されたウォレスとグルミットは先日の実験に使ったハッチと名付けたウサギが巨大化しているのを発見する。ここからのストーリーにはちょっとしたヒネリがある。ヒネリはあるが、ヒネった先は定跡を踏んだ展開で、想像はつく。

 いたずらウサギたちの描写は「グレムリン」風で、そこから狼男や「ジキル博士とハイド氏」を思わせる展開になり、最後は「キング・コング」風になる。ウォレスとグルミットに対抗する役柄としてウサギを銃で駆除しようとするハンターのヴィクターとその愛犬フィリップが登場し、生き物を殺さないウォレスとグルミットの人のいいキャラクターを強調しているのが品の良さにつながっている。物語にヒネリはあるが、キャラクターは(少しぐうたらなところはあるけれども)品行方正なのである。そこが映画の心地よさでもあるので、否定はしない。

 「ウォレスとグルミット」は時々、カートゥーン・ネットワークで放送している。あれは1分のシリーズなのか、それともアカデミー賞を受賞した短編の方なのか、じっくり見ていないので分からないが、発明家なのにちょっと抜けているウォレスとしっかりしたグルミットの関係はなんとなくチャーリー・ブラウンとスヌーピーの関係を思わせて微笑ましい。日本語吹き替え版はウォレスを萩本欽一、トッティントンを飯島直子が担当。ちょっと違うかなと思ったが、見ているうちに違和感はなくなった。飯島直子には実写映画にも出てほしいものだ。

2006/03/17(金)「シリアナ」

 「シリアナ」パンフレット「トラフィック」の脚本家スティーブン・ギャガンが中東とアメリカの石油コネクションをえぐるジャーナリスティックなサスペンス。アメリカの石油資本が中東にどうかかわり、CIAがどんなことをしているかを「トラフィック」同様に多数の登場人物のさまざまな視点から描く。シリアナとはイラン、イラク、シリアからなる、アメリカの利益にかなう新しい国を指す業界用語だそうだ。話が見えない前半は決してうまくいっているとは言えないのだが、後半、話がつながり、全体が見えてくると、面白くなる。少なくとも今に通用する内容なので、「ミュンヘン」や「ジャーヘッド」に感じたジャーナリスティックな側面の欠落という不満はない。問題は題材を面白く見せる技術がギャガンにはまだ不足していることだろう。面白さにおいて同じ手法の「トラフィック」に及ばないのはスティーブン・ソダーバーグとギャガンの演出力の差と言える。

 イラク戦争がアメリカの石油利権のためだったということがはっきりした現在では、映画の内容そのものに目新しい部分がそれほどあるわけではないが、こういう社会派的スタンスの映画が作れるアメリカ映画はまだ捨てたものではないと思う。少なくとも社会派映画が撮れなくなった(撮れる才能がいなくなった)日本映画よりは数倍ましだろう。ただし、これはメジャーの映画会社(ワーナー・ブラザース)が作った点で、内容が本当に米政府に差し障りのあるものではないということも分かる。マイケル・ムーア「華氏911」のようにブッシュ大統領を具体的に批判する映画だったら、メジャーではとても作れないだろう。それでもなおこうした映画には大いに価値があり、リサーチを重ねて脚本を書くギャガンの姿勢はとても好ましい。

 登場人物は多いが、物語の中心となるのは4人の視点である。CIA工作員のボブ・バーンズ(ジョージ・クルーニー)、エネルギー・アナリストのブライアン・ウッドマン(マット・デイモン)、大手法律事務所の弁護士ベネット・ホリデイ(ジェフリー・ライト)、パキスタンからの出稼ぎ労働者ワシーム(マザール・ムニール)の4人。舞台となる中東の産油国はサウジアラビアがモデルという。物語はこの国が採油権をアメリカのコネックス社から中国企業に変更したことが発端。民主化を目指すナシール王子(アレクサンダー・シディグ)が行ったことで、ナシール王子の民主化路線は親米路線とは異なったことからコネックス社とCIAが動き出す。CIAはナシールの暗殺を計画。それを命令されたのが中東で長年、潜入工作を続けているバーンズだった。コネックス社は利権を求めて新興の石油会社キリーン社との合併に乗り出す。有利な条件で合併を果たすため、ベネットにキリーン社の不正を探すよう指示する。ウッドマンは国王の催したパーティーに呼ばれ、息子をプールの事故で亡くす。責任を感じたナシール王子と親しくなり、コンサルタントに取り立てられる。ワシームはコネックス社の油田で働いていたが、採油権が移ったことで解雇され、イスラムの神学校に入る。それはテロリストを養成する学校だった。

 物語の骨格はナシール王子の動向にある。親米路線を続けていたなら、命を狙われることもなかっただろう。物語全体から見えてくるのは米政府が資本の言いなりであること。「華氏911」でブッシュは「富める者とさらに富める者の味方」であることを明言していたが、その内容通りの映画なわけである。物語でこうしたことが言いたかったのならば、話の構成はもっとシンプルにできたはずで、視点がたくさんあるために分かりにくいわけだから、バーンズかウッドマンにもっと比重を置いて、どちらかをしっかりした主人公にした方がすっきりしたと思う。物語のうねりや強いエモーションが加われば、この映画は最強になっていただろう。

 ジョージ・クルーニーは長年、CIAのために尽くしながら、まずいことが起きると、簡単に切り捨てられる男を好演していて、アカデミー助演男優賞受賞も納得できる。ついでに言えば、授賞式で感謝の言葉を並べ立てるだけのスピーチをしなかったクルーニーのあいさつは受賞者の中では一番良かった。

 イラクはごたごたしているとはいえ、何とか親米路線の政権は樹立できた。アメリカの次の標的はイランらしい。イラクにイランからの武器が流れていたというブッシュの発言を見ると、また数年以内にイランとの戦争を始めるのではないかと思えてくる。アメリカ政府は本気でシリアナを作ろうとしているのではないか。

2006/03/16(木)「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」

 「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」チラシジョニー・キャッシュ(ホアキン・フェニックス)やジェリー・リー・ルイス(ウェイロン・マロイ・ペリン)やバンドのメンバーが朝から酔っぱらっているのを見てあきれたジューン・カーター(リース・ウィザースプーン)が「まっすぐに歩けない男たちばかりね」と怒る。それでジョニーは「君のために真っ直ぐ歩く」と訴える「アイ・ウォーク・ザ・ライン」という歌を作る。少女時代からステージに立ったジューンの歌をジョニーは少年時代からラジオで聴いていた。手の届かない世界にいると思っていた憧れの女性と同じステージに立ち、一緒にツアーに出るようになって、ジョニーはジューンへの距離を徐々に縮めていく。酒場で初めて心を通わせる場面など2人の関係を描くシーンがとてもいい。ジューンは2度結婚に失敗し、ジョニーも既に結婚していたので、なかなか恋人同士にはなれないのだが、この映画、ジョニー・キャッシュの生涯をジューンとの関係に重点を置いてラブストーリーとして映画化したのが成功の要因だと思う。素敵なラブストーリーになっている。

 何よりホアキン・フェニックスとリース・ウィザースプーンの歌のうまさには驚くばかり。「キューティ・ブロンド」(2001年)のようなコメディのキャラクターの要素を残しつつ、シングルマザーの歌手を見事に演じてウィザースプーンはアカデミー主演女優賞を受賞したが、ホアキン・フェニックスも主演男優賞を取ってもおかしくない演技。残念ながら受賞は逸したけれど、ひたすら真面目に取り組んだ様子が手に取るように分かる演技である。フェニックス、かなりの演技の虫なのではないかと思う。

 「悪魔は出来のいい子を奪った」。アーカンソーの貧しい家で飲んだくれの父親が嘆く。ジョニーの兄のジャックは1ドルを稼ぐために行っていた電動ノコギリ作業中の事故で死んでしまう。仲の良かった兄の死と父親の残酷な言葉がジョニーのトラウマになったのも無理はないと思える(考えてみれば、ホアキン・フェニックスもまた兄リバーを亡くしているのだった)。序盤のジェームズ・マンゴールド監督の演出は無駄な部分がなく的確で、ここで観客のハートをしっかりとつかんだ後、楽しすぎる歌のシーンが続いて前半は100点満点の映画と思った。もう2人の歌が素晴らしすぎて、サントラが欲しくなってくる。後半、ドラッグ(アンフェタミン)に溺れるあたりが「Ray/レイ」との類似性もあって損をしているし、ブルーな気分にもなるのだが、実際にあったことなのだから仕方がない。ジョニーのドラッグをやめさせようと、ジューンが協力して、さらに二人の愛は深まっていくことになり、ステージ上でのプロポーズという幸福なラストシーンにつながっていく。

 少年時代から描いていることと、肉親の死やドラッグの描写があることで、どうしても「Ray/レイ」と比較したくなるのだが、僕はジェイミー・フォックスがレイ・チャールズに人工的に似せようとした「Ray/レイ」には窮屈さを感じた。「ウォーク・ザ・ライン」にはもっと大らかな感じがあり、主演2人の好感度の高さが映画の印象を心地よいものにしている。ジョニーがドラッグから立ち直る描写は人の再生を示して説得力があり、「Ray/レイ」よりもうまいと思う。

2006/03/15(水)「エミリー・ローズ」

 「エミリー・ローズ」パンフレット京極堂の力がいるな、と思う。憑物を落とすには京極堂が一番である。日本の狐憑きと同じように西欧の悪魔憑きも精神的な病の一つだろう。昔の人は病名が分からなかったので、狐憑きとか悪魔憑きとか言ったにすぎないのだと思う。この映画は旧西ドイツで1970年代にあった実際の事件をモデルにしている。神父から悪魔祓い(エクソシズム)を受けた女子大生が衰弱死する。その神父が罪に問われ、裁判でまともに悪魔憑きを論じるというのがもう、言うべき言葉をなくす。悪魔がいるとかいないとかの議論は日本人(というか非キリスト教徒)には関係ない世界の話のように思う。精神病の薬をやめさせたことで症状が悪化したという検察側の主張の方にいちいち納得させられるのだが、それでは映画として面白くないと思ったのか、神父の弁護士(ローラ・リニー)の身辺にも奇怪な現象が起きる。これが極めて控えめな怪異なので、ホラーにはなっていない。ホラーなら徹底的にホラー、裁判劇なら裁判劇に徹した方が良かったのではないか。この映画の結論はどっちつかずで面白みに欠けるのだ。映画自体は丁寧な作りだし、弁護士役のローラ・リニーも颯爽としていていいのだけれど、地味な印象は拭えず、平凡な出来に終わっている。題材へのアプローチの仕方が凡庸なのである。

 奨学金を受けて大学に行くことになったエミリー・ローズ(ジェニファー・カーペンター)はある晩、午前3時に焦げ臭いにおいで目が覚める。エミリーは激しい痙攣と幻覚に襲われる。その症状は次第に悪化し、クラスメートの目が黒く溶けたり、通行人の顔が恐ろしい形相に変わったりする。入院しても症状はひどくなるばかり。自宅で静養することになったエミリーと家族はムーア神父(トム・ウィルキンソン)に悪魔祓いを依頼する。しかし、それは失敗。エミリーは変わり果てた姿で死んでしまう。自然死ではなかったことから、ムーア神父は逮捕され、その弁護を女性弁護士のエリン・ブルナー(ローラ・リニー)が担当することになる。

 エリンが弁護を引き受けたのは名声と事務所の肩書きが欲しかったからだ。たとえ有罪であっても無罪を勝ち取る戦略なので、最初は神父に証言させないつもりだったが、「この裁判には闇の力が働いている」という神父の言葉通りにエリンの周囲にも奇怪な出来事が起こるようになり、エリンは考えを改め、神父に証言させることにする。そこからエミリーの悪魔祓いの実際が明らかになっていく。

 証言によって事件のさまざまな様相が明らかになる構成について監督のスコット・デリクソンは黒沢明「羅生門」の影響と語っている。それならば、「羅生門」で死んだキャラクターを霊媒が呼び出して証言させたようにエミリー自身の証言も欲しかったところではある。エミリーに証言させるつもりが実は悪魔を呼び出してしまって、とかいう展開にすると、大きくホラーの方に傾くことになっただろう。そういう破天荒な展開を脚本に盛り込めなかったのは想像力の限界ということか。あるいは監督が本気で悪魔が存在するかどうかを議論したかったのか。いずれにしても、もう少しスーパーナチュラルな要素を増やした方が映画は面白くなったと思う。

 ちなみにエミリーが霧の中を歩くシーンも同じく黒沢の「蜘蛛巣城」を参考にしたそうだ。映像の作りについては不備なところは見あたらないが、際だってうまいわけでもない。裁判の判事役で久しぶりのメアリー・ベス・ハートが出ていた。

2006/03/11(土)「力道山」

 「力道山」パンフレット「史実に独自の解釈を加えた」と映画の最後に字幕が出る。監督のソン・ヘソンによれば、「ある意味、完成した作品のほとんどはフィクション」という。フィクションにせざるを得なかったのは力道山にダークな面があるからだろう。映画にはヤクザとの関係も描かれ、力道山を全面的に美化しているわけではないが、この男の原動力がどこにあったのか明確には見えてこない。いや、描いていないと言うべきか。朝鮮半島に生まれながら、日本人として振る舞ったこの昭和のヒーローが求めたものは単に金や名声、成功という世俗的なものではなかったのかと思う(僕には「空手バカ一代」に登場する力道山の卑屈なイメージがあるから、こう思えるのかもしれない)。関取時代に言う「横綱になって思い切り笑いたい」という言葉が本音なら、プロレス団体設立時に言う「敗戦でショックを受けた日本人に誇りを取り戻させたい」という言葉は立て前で、この対極的な2つの言葉の間で映画は揺れ動く。2時間29分を費やしても力道山の本当の姿が見えてこないと感じるのはキャラクターの造型にぶれがあるからだと思う。そのぶれはヒーローという偶像を破壊するか、維持するかのぶれでもあり、映画の興行を考えた上でのぶれでもあるのだろう。体重を20キロ増やしたソル・ギョングの演技に対する真摯な取り組みは尊敬に値するし、中谷美紀、藤竜也も好演していて力作になっているが、根本的なところで物足りない思いが残る。

 映画は力道山が関取時代の1944年から赤坂のクラブで刺されて死ぬ1963年までを描く。関取時代の力道山は朝鮮人ということで差別され、先輩から過酷ないじめに遭う。ある日、先輩の財布を盗んだ疑いがかけられ、刑事に追われて銃を突きつけられる。部屋の後見人である会長(藤竜也)に対して力道山は「私は相撲がしたいだけです」と叫び、会長の援助を受けるようになる。これは実は先輩を力で服従させた力道山が仕組んだ芝居だった。このシーンを見て、映画を見る前に持っていた「力道山を美化しただけの映画ではないか」という危惧はなくなった。この路線で通せば、映画はもっとすっきりしたものになっただろう。朝鮮人差別から逃れるために手段を選ばずにのし上がっていく男。それは非難されることではない。力道山は相撲協会の理事会にもある差別意識によって関脇になれなかったことから相撲に見切りを付ける。荒れた生活を送っていた時にハロルド坂田(武藤敬司)に出会い、プロレスに転向する。会長の援助でアメリカに修行に行き、帰国後、日本プロレスを設立。シャープ兄弟との対戦で大衆の熱狂的な支持を集めるようになる。

 キャラクターにぶれを感じるのはプロレス転向後の描写にある。ここで力道山の意図が見えなくなるのだ。世界最強の男を目指したのか、単に金儲けをしたかったのか。死ぬまで朝鮮人であることをカミングアウトしなかった力道山には、差別されることへの恐れがあったと想像できる。体格の大きいアメリカのレスラーを倒すことで、日本のヒーローとなった人物が日本人でないということが分かれば、大衆のヒーローとして成立しにくくなる。それはプロレス興行にも影響を及ぼしただろう。そのあたりの計算はなかったのか。映画は力道山に「日本でも韓国でもない。俺は世界人だ」というセリフを言わせているのだが、そのセリフを言わねばならなかった力道山の真意について映画は深く言及しない。差別は前半で描かれているのだけれど、後半までその路線で統一した方が分かりやすくなったと思う。いや、差別ではなく、貧しさからの脱却であってもいい。人の行動を規定するものを深く描いた方が良かったのではないか。

 日本人の俳優が多数出ていることもあって、日本の描写に何ら違和感はない。ソル・ギョングのしゃべる日本語は多少ぎくしゃくしているが、許容の範囲内。それだけに後半のやや深みに欠ける展開が惜しまれるのだ。