2006/05/28(日)「クラッシュ」

 「クラッシュ」パンフレット交通事故で始まり交通事故で終わる映画だが、タイトルの「クラッシュ」は人と人との衝突を意味しているようだ。毎日毎日、苛立ちながら暮らしている白人、黒人、ペルシャ人、中国人、メキシコ人たちのエピソードをポール・ハギス監督はロサンゼルスの縮図として描き、わずかな前進と希望を感動的に提示して映画を終える。これがロサンゼルスの映画人に支持されないはずはなく、アカデミー作品賞も納得できる。

 ハギスはパンフレットで「この映画のテーマは人種や階級についてではなく、見知らぬ人間への恐怖についてである」と語っている。見知らぬ他人への恐怖が銃犯罪を生む。「ボウリング・フォー・コロンバイン」(2002年)でマイケル・ムーアが示した結論をフィクションとして描いた作品と言えるだろう。人種差別、社会的偏見を含めた相互無理解が悲劇を生んでいく。だから悲劇から一転して幸福感にあふれる透明マントの奇跡のようなエピソードは天使のいない街に天使が舞い降りた瞬間を描いたものとして胸を打つ。厳しさに足りない面はあるし、人間関係が接近しすぎていくところなどいくつかの弱点も見受けられるが、ハギスの脚本は優れたものだと思う。何より希望を捨てていないところがいい。ラスト、ロサンゼルスに降る雪は街の浄化を意味しているのだろうか。

 映画には多数の人物が登場する。麻薬中毒の母親を持つ黒人刑事グラハム(ドン・チードル)と同僚の女性刑事リア(ジェニファー・エスポジット)、若い黒人の2人組アンソニー(リュダクリス)とピーター(ラレンツ・テイト)、検事のリック(ブレンダン・フレイザー)とジーン(サンドラ・ロック)夫婦、その家の鍵の修理に来たダニエル(マイケル・ペニャ)、ペルシャ人の雑貨店経営者ファハド(バハース・スーメク)、白人警官ライアン(マット・ディロン)とハンセン(ライアン・フィリップ)、テレビディレクターのキャメロン(テレンス・ハワード)とクリスティン(サンディ・ニュートン)の夫婦。序盤はこうしたキャラクターのエピソードがばらばらに描かれていき、ちょっと飽きたかなと思い始めたところで多重衝突事故が起こる。事故現場に駆けつけたライアンの行動がまず最初のエモーショナルな場面。それまでの描写で黒人差別主義者のように思われたライアンは転倒した車の中から黒人女性を必死に助けようとする。このライアンに限らず、ハギスの脚本は単純に人間を善悪に色分けしていない。だから話が真実味を帯びてくる。

 俳優のビリングのトップはサンドラ・ロックだが、このいつも苛立ち、差別的発言を公言する女性のキャラクターは終盤にある出来事で変化するという場面が用意されていながらも、決して主人公ではない。貧困や差別や家庭の事情で登場人物たちにはそれぞれに苦悩があるが、中でもドン・チードルの役柄は他人の理解どころか、母親にさえ理解されていない点で悲痛である。しかも弟を助けようとした行為が少しも報われない。この弟が実は、という部分が終盤に明らかになる。そうした人間関係の接近は先に書いたように弱点ではあるのだけれど、ハギスはそれを承知の上でフィクションを構築したのだろう。伝統的なハリウッド映画というのはそういうものである。観客に現実の厳しさだけを見せるよりはいい気分で映画館を出させる。ハギスはハリウッド映画の範疇にとどまりながら、良心的な作品を作った。志の高さがこの映画の美点なのだと思う。

2006/05/21(日)「ブロークバック・マウンテン」

「ブロークバック・マウンテン」パンフレット ようやく見た。主演の男優2人にはまったく魅力を感じなかった。そうなると、女優で見るしかない。ジャック(ジェイク・ギレンホール)と性急な結婚をするラリーン(アン・ハサウェイ)は「プリティ・プリンセス」などよりはいいが、いつものハサウェイの演技以上のものはない。イニスの妻アルマ(ミシェル・ウィリアムズ)は中盤から終盤にかけて屹立してくる。魚かごのエピソードは切なく悲しい。アカデミー助演女優賞にノミネートされたのはこの演技があったからだろう。僕にとってはウィリアムズの演技を見られたことだけが、この映画の価値だった。

 ブロークバック・マウンテンでイニスとジャックが結ばれるくだりの説得力の不足がいかんともしがたいと思う。ジャックは元々、ゲイだろうと思わせるが、イニスがジャックの誘いに応じたのがよく分からない。しかし、それ以上にこの映画は時の流れの重みや取り返しの付かない失敗、自分の思う道を進めなかった男の強い悔恨の思いをもっともっと描くべきだったように思う。そうした部分が薄いので、なんだか淡々とした映画に終わってしまう。淡々とした中にも主人公の強い思いを感じさせる映画は多いのだけれど、この映画はそこまで行っていないのだ。ラリー・マクマートリーは「ラスト・ショー」(1971年)の脚本家だが、あの傑作に比べてこの映画の叙情性の薄さ、人生への厳しい視点のなさなどは大きく劣っているように思う。男2人のラブストーリーをそれ以上のものには描けなかったアン・リーがアカデミー監督賞に値するとは思わない。うじうじした甘い男の映画でしかなく、ゲイの人は怒るべきではないか。どうひいき目に見ても普通の作品である。

 ここまで書いてパンフレットを読んだ。原作を翻訳した米塚真治の文章が原作と映画の違いを論じて非常に分かりやすい。少し引用しよう。

 原作の出だしは、映画の出だしから二十数年後。長女が結婚した、さらにその後のことだ。職を失い、数時間後にはトレーラーハウスを引き払わないといけない状況。あの二枚のシャツも、隙間風に凍えているように見える。そんな状況でイニスの脳裏に去来する回想が、原作の中身だ。

 まさに僕が映画に感じた不満を払拭させるようなオープニング。映画はこのように始まらなければならなかったのだと思う。人生に敗れた男の悔恨に満ちた物語。しかもこの男は自分の同性愛嗜好を認めていない。そういう視点がアン・リーには、というか脚本のラリー・マクマートリーにはなかったのではないか。だからこの程度の甘い物語にしかならないのだ。凡庸な脚本を凡庸な監督が映画化した作品。僕にはそう思える。

 ヒース・レジャーは老けのメイクがまったくできていず、時の流れを感じさせない。鈍感な男をリアルに演じたのなら大したものだが、そうではないだろう。いっそのこと、ブロークバック・マウンテンの場面はもっと若い俳優に演じさせれば良かったのではないかと思う。