2007/12/29(土)「AVP2 エイリアンズ VS. プレデター」

 なぜエイリアンだけ複数形なのかと思ったら、地球で繁殖したエイリアン退治をするのが一人のプレデターなのだった。前作同様、B級の企画をB級のストーリーとB級のキャストで描くという、どこを切ってもB級の映画。前作には「エイリアン2」のアンドロイド役ランス・ヘンリクセンが出ていてまだシリーズとのわずかなつながりが見られたが、今回はまるっきり無名キャストだし、話のつながりも皆無だ。要するにエイリアンとプレデターを戦わせるだけの映画。

 プレデターの宇宙船の中でエイリアンが繁殖し、宇宙船はアメリカのガニソン郡の森の中に不時着する。近くに来た親子をエイリアンの幼虫(フェイス・ハガーと言う)が襲い、顔に張り付く。当然のことながら親子の腹を突き破って幼虫が出てくる。一方、プレデターの故郷の星では宇宙船に異変が起こったことを知り、一人のプレデターが地球にやってくる。エイリアンとそれを追うプレデターによって町の人々は次々に虐殺されていく。

 というのがプロット。プレデターの腹を突き破って出て来たエイリアンはプレデリアンと言うらしいが、別に双方の特徴を持っているだけでSF的なアイデアの発展はない。決着の付け方も乱暴。一緒に見た長男は「『バイオハザード2』のパクリじゃないの」と言った。まあ、そんなところです。出てくる俳優たちも今ひとつ魅力に欠ける。一人ぐらいベテラン俳優を出しておけば、話も引き締まったのではないかと思う。というか、B級俳優でもいいから、話をもっと工夫していれば、もう少し面白い映画になっていただろう。

 企画段階で「これぐらいのストーリーでいいよね」「いいんじゃないの」といういい加減さがあったのではないかと思える映画である。監督はこれが長編映画デビューのグレッグ&コリン・ストラウス兄弟。

2007/12/24(月)「アイ・アム・レジェンド」

 「アイ・アム・レジェンド」パンフレットリチャード・マシスン原作の3度目の映画化。ウィルスの蔓延で地球に一人生き残った男の孤独と戦いの日々を描く。

 最初の映画化である1964年の「地球最後の男」(ウバルド・ラゴーナ、シドニー・サルコウ監督、ビンセント・プライス主演)はジョージ・A・ロメロの傑作「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」の原型となったことで有名だ。闇にうごめくゾンビたちの姿と虚無感・絶望感あふれる作りは「ナイト・オブ…」のそれと非常によく似ている。

 今回の映画にあるのは主人公の絶対的な寂寥感と廃墟となったニューヨークの優れたビジュアル、そしてホラーの味わい。特に寂寥感とビジュアルな部分が大変良い。主人公ウィル・スミスは孤独に苛まれながらも「闇を照らす」ためにワクチンの研究に打ち込む。64年版では「アイ・アム・レジェンド」の意味が終盤に分かって、それはそれで皮肉な効果をもたらしていたが、今回は意味を違え、よりストレートな作りになっている。希望があるのである。旧作を見ている観客を意識したと思える部分が終盤にあり、脚本のマーク・プロストビッチ、アキバ・ゴールズマンは良い仕事をしていると思う。ビジュアルな部分はフランシス・ローレンス監督の資質が良い方向に出た結果だろう。第2班(アクション・ユニット)監督のヴィク・アームストロングもいつものように優れた仕事をしていて、切れ味のあるアクション場面を演出している。これにスミスの好演とジェームズ・ニュートン・ハワードの哀切な音楽とが相まって、破滅SFとしてきちんとまとまった作品に仕上がった。チャールトン・ヘストン主演の「地球最後の男 オメガマン」(1971年)を含めて同じ原作3本の映画のうち、今回が最も良い出来だと思う。

 がんの特効薬が発明され、人類はついにがんを克服したというニュースが流れる。その3年後、ニューヨークは廃墟と化していた。主人公の科学者ロバート・ネビル(ウィル・スミス)は都会のど真ん中で愛犬サムとともに車を走らせ、鹿狩りを楽しむ。他の人間は皆、がんの特効薬から派生したウィルスの蔓延で死んでしまった。ネビルには免疫があり、生き残ったのだ。ネビルはもしかしたらどこかに生き残っているかもしれない人間に対して全周波数で「You are not alone」と呼びかける。そして厳重に戸締まりをして眠れない夜を過ごす。ウィルスで凶暴に変異したダーク・シーカーズ(闇の住人)の襲撃に備えるためだ。同時にネビルはネズミや捕らえたダーク・シーカーズを使ってワクチンの研究を続けているが、失敗の連続。ようやく効果があると思われるワクチンを開発するが、ダーク・シーカーズの罠に落ちてしまう。

 ウィルスの蔓延で世界が破滅するという話は大昔からあり、ゾンビたちがうごめく世界というのも全然珍しくはないが、この映画を同種の映画から際だたせているのはビジュアル面の優秀さだ。パンフレットによれば、実際にニューヨークの一部の区画を封鎖して200日間にわたって撮影したという。人っ子一人いないニューヨークの荒んだ光景は主人公の寂寥感を強調するのに大きな効果を上げている。

 フランシス・ローレンスは前作「コンスタンティン」ではスタイリッシュなビジュアル部分には感心したものの、必ずしもストーリーテリングがうまくいっているとは思えなかった。今回はビジュアル、物語とも破綻がない。ウィル・スミスは考えてみると、SF映画への出演が多い俳優だ。「アイ、ロボット」も良い出来だった。

2007/12/16(日)「題名のない子守唄」

 ジュゼッペ・トルナトーレが描きたかったのは終盤の展開なのだろう。ここを描くのが中心なら、もう少し効果的な手法があると思う。無理にサスペンス調にする必要はなかったし、ヒッチコックをまねたタッチ(ヒロインが使うのはハサミだし、舞台はらせん階段のあるマンションだ)が目立ちすぎるのは大きなマイナスだ。エンニオ・モリコーネの音楽もヒッチコック映画でおなじみのバーナード・ハーマン調だから、余計にそう感じる。

 序盤からヒロインが何のためにある家族に接近しようとしているのかまったく説明されないのはサスペンス映画として悪くはないのだけれど、この部分を引っ張りすぎている。ヒッチコックならこんなに長く謎を謎のままにはしていないだろう。あまり長いと、途中で飽きてくる。このテーマを描くのにこの手法は間違っていたとしか思えない。手法とテーマが乖離しているのである。

 僕は「ニュー・シネマ・パラダイス」からトルナトーレは一流になりきれない監督だなと感じている。偽物感がつきまとって仕方がない。きっと、トルナトーレ、この映画を撮る際にいつも同じ手法では面白くないからと思い、サスペンスタッチを取り入れたのだろう。ヒッチコックタッチが目に付くのはそれなりにヒッチコックの映画を勉強しているからだと思う。しかし、それなら結末も含めてきっちりとしたサスペンスを作って欲しいものだ。この人、「ニュー・シネマ・パラダイス」が評価されすぎで、本来は二流の力しかないのではないか。

2007/12/09(日)「ベオウルフ 呪われし勇者」

 予告編を見て実写映画かと思っていたら、「ポーラー・エクスプレス」同様のパフォーマンス・キャプチャ。見た感じでは実写と3DCGを融合したような画面である。主人公のベオウルフ(レイ・ウインストン)は実写のように見えるが、ロビン・ライト・ペンをはじめ女優陣は「シュレック」に出てくる人間のように3DCGっぽい。ロバート・ゼメキスは既に「ロジャー・ラビット」(1988年)でアニメと実写の融合をやっているし、こういう画面も狙いのうちなのだろう。

 ただし、クライマックスに登場するドラゴンの質感はいかにもCGという感じなのが残念。驚異的なキャラクターの動きやカメラワークは実写では無理だろうから、こういう映画化もありか、とは思うけれど、もう少し抑えてリアルに徹した方がいいような気がする。映像は革新的なので見て損はしないけれど、見なくても損はしないという水準的な仕上がりだ。

 最古の英雄叙事詩「ベオウルフ」をニール・ゲイマンとロジャー・エイバリーが脚色。この脚色は見事と言って良く、元の断片的な叙事詩の行間を埋め、父と息子、魔性の女(怪物)の関係を取り入れて、ギリシャ悲劇のようなニュアンスを生じさせている。

 6世紀のデンマークが舞台。凶暴で醜い怪物グレンデルに館を襲われ、多大な被害が出る。王(アンソニー・ホプキンス)は館を閉鎖するが、英雄ベオウルフ(レイ・ウィンストン)が海を越えてやってくる。ベオウルフとその仲間はグレンデルを退治するが、グレンデルには母親(アンジェリーナ・ジョリー)がいた。沼地の洞窟でベオウルフはグレンデルの母と対決。ある提案を受け入れることになる。

 アンジェリーナ・ジョリーはその完璧なプロポーションでキャスティングされたに違いない。あの肉体の前ではいかなる英雄であろうとも、過ちは犯してしまうものなのだろう。

2007/11/17(土)「ボーン・アルティメイタム」

 「ボーン・アルティメイタム」パンフレットシリーズ第3作。前作でも感じたことだが、このシリーズに不足しているのはエモーショナルな側面だと思う。今回も主人公のボーン(マット・デイモン)はまったく感情を表さず、襲い来るCIAの暗殺者たちをてきぱきと撃退する。ただそれだけの映画である。ボーンの原動力となっているのは自分のアイデンティティーの探求と恋人(フランカ・ポテンテ)を殺された恨み。というのは設定だけにとどまっており、ボーンは泣くこともわめくことも怒ることも喜ぶこともなく、だからエモーションが欠落しているように見えるのだ。ついでに言えば、ボーンにはCIAの不正を暴くための正義感もない。いや、あるのかもしれないが、画面には表れない。要するに作りが人工的、デジタル的なのである。アクションを羅列するだけで、主人公の感情が立ち上ってこないので、味気ない映画になってしまう。僕はまったくつまらなかったわけではないが、もう少し何とかならないのか、と見ていて思う部分が多かった。このスピード感にエモーショナルな部分が加われば、映画はもっと面白くなっていただろう。大変なテンポの速さで進む映画の中で、足を止めて描く場面には主人公の情感が必要だし、激しいアクションを正当化するのは主人公の激しい感情にほかならないのである。

 映画はモスクワで幕を開ける。傷ついたボーンが追っ手の警官たちを簡単に撃退したところでタイトル。場面変わって、ロンドン。ガーディアン紙の記者サイモン(バディ・コンシダイン)はCIA職員の内部告発でトレッドストーン計画がバージョンアップしたブラックブライアー計画について知る。CIAはサイモンを追跡。新聞を読んだボーンもサイモンに接触する。ウォータールー駅でのCIAとボーンの格闘が最初の見せ場で、ここでサイモンはCIAの暗殺者に狙撃され、殺される。作戦を指揮しているのは対テロ極秘調査局長のヴォーゼン(デヴィッド・ストラザーン)だった。ヴォーゼンは前作でボーンを追ったパメラ(ジョアン・アレン)を捜査に引き入れ、ボーンの抹殺を企てる。舞台はスペイン、モロッコへと飛び、ニューヨークで最終決着を迎えることになる。

 映像は短いカットを積み重ねてテンポが良いけれど、カットを割ってはいけない格闘シーンまで割っている。見せるべき格闘はちゃんと見せた方がいいのでは、という思いは1作目から感じたことだ。短いカットの積み重ねはポール・グリーングラス監督、眉にいっぱいつばをつけながら見た前作「ユナイテッド93」でも使っていた。こういう短いカットで思い出すのは「ストリート・オブ・ファイヤー」(1984年)だが、ウォルター・ヒルのようなスタイリッシュさはグリーングラスにはない。ジャッキー・チェンやジェット・リーがワンカットでアクションを見せるのは、アクションが本物であることを示すためでもあるだろう。カットを割れば、どんなことでもでき(るように見え)てしまうからだ。俳優の生身のアクションの伝統は1920年代のロイド、キートンまでさかのぼるのだ。スタントマンを使うなと言うわけではなく、ああいう見せ方では真に迫らないのだ。建物から建物へ飛び移りながら展開するモロッコのシーンにしてもカットを割らない方が効果的だっただろう。グリーングラス、スピード感がすべてと思いこんでいるのではないか。

 それにしても、いったいあの研究所は何をやったのか判然としない。ボーンに暗殺者になることを強要するためだけだとしたら、研究所なんて不要だろう。原作はどうなっているのだろう。ヒッチコックはサスペンスの核となるものはレッド・ヘリング(赤にしん)でいい、と言った。これを曲解すれば、こういう映画が出来上がることになる。少なくともヒッチコック映画の主人公たちはもっと情感豊かだった。