2010/08/28(土) 葬儀の費用

 自宅療養中だった父が亡くなったのは8月23日午前3時10分。というのは死亡診断書に書かれた日時で、実際には2時半頃だったそうだ。僕は2時16分に姉から「呼吸がおかしい」と電話をもらい、実家に行った。看護師さんが来ていて、父は既に事切れていた。10分ほど間に合わなかった。看護師さんが既に医師に連絡していて、3時ごろに来てもらった。

 4時すぎに葬祭場に連絡。本来ならその日のうちに通夜をしても良かったが、とりあえず仮通夜、通夜、葬儀とすることにした。これで正解だった。葬祭場との打ち合わせに予想以上に時間がかかったからだ。こんなに多数のオプションがあるとは知らなかった。祭壇の大きさ、左右に置く生花の数、棺の種類、骨箱の種類、会葬者へのお返しの品、精進揚げの料理などなど。カタログを見ながら、一つひとつ細かく決めていく。1時間半ほどかかったか。

 迷ったのは湯灌の儀の有無。納棺の前に遺体をきれいに整えるのだという。そう、「おくりびと」で描かれた納棺師の仕事だ。間近に見ることはあまりないので、僕は興味があったが、家族は「看護師さんにきれいにしてもらったから不要」と言う。検索してみると、湯灌の儀は実際に遺体を沐浴させるらしいが、葬祭場のオプションは沐浴ではなかった。簡略化して納棺師の仕事と変わらなくなったのか。この費用が5万円余り。結局、見送った。納棺の前に葬祭場の人が丁寧に身繕いしてくれたのでなくても良かったと思う。

 オプションを積み上げて、見積もりは240万円ほどになった。この中にはお坊さんへのお布施などは含まれていないから、実際には300万円ぐらいになったのではないか。葬祭場での葬儀はけっこうかかるなあ、というのが実感。主催者側で葬儀を行ったのはこれまでに5回。一番最近は17年ほど前で、いずれも自宅葬だった。その時は細かくかかわったわけではなかったので詳細は知らないが、こんなにオプションを決めなかったし、費用もかからなかったと思う。ただ、通夜の日に祭壇を見た母は「立派だ」と喜んでいたので、ある程度金をかけただけのことはあったと思う。葬祭場の担当者も細やかな心遣いをしてくれて、気持ちの良い葬儀だった。

 通夜、葬儀と合わせて会葬者は200人余りだった。代理を含めて香典をいただいたのは約270人。新聞に死亡広告を出したので連絡していない人にも来ていただいた。シネマ1987関係者にも多数来ていただきました。ありがとうございました。

2010/08/21(土)温暖化否定の3冊

 鹿野司の科学エッセイ「サはサイエンスのサ」の終盤に地球温暖化に対する疑問が出てくる。鹿野司はIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の「一切の温暖化対策をしない場合、地球平均気温が1.1~6.4度の幅で上昇し、それに伴って18~59センチの海面上昇が起きる」という第四次報告書に関して「傾向は当たっている、定性的には当たっているとは思うけど、定量的な数字はマジに受け取るべきではない」という立場だ。「なぜなら、この値を導いたのは、ある仮定に基づくモデルに過ぎなくて、そのモデルに用いられるデータも地球まるごとという規模からはほど遠いからだ」。そして「ここで問題になるのは、一度発表された数値は、そういう科学的な態度とは別の次元で一人歩きしてしまうってことだ」としている。

 一人歩きもいいところで、現在、地球温暖化はほとんどの人の了解事項になっている。「エコ、エコ」の大合唱でプリウスなどのハイブリッドカーやエコ家電などが売れている。まあ、一般消費者がエコロジーの意識でこういう製品を買っているとは考えにくく、単に燃費の良さや消費電力の少なさによる出費の少なさ、つまりエコノミー的な考えが大半だろう。低炭素社会というキーワードで二酸化炭素の削減が地球温暖化を防止するというのもほとんどの人が思っていることだ。というか、僕もそう思っていた。温室効果ガスの削減が声高に叫ばれ始めたのは京都議定書が議決された1997年の地球温暖化防止京都会議(COP3)のころからで、温暖化防止=二酸化炭素削減という図式はすっかり慣れ親しんだものになっている。

 広瀬隆の「二酸化炭素温暖化説の崩壊」はそれを真っ向から否定する。定量的な否定ではなく、IPCCの主張が間違っている、というか、データを捏造していたという驚くべき事実が分かったクライメートゲート事件を紹介しているのだ。日本ではあまり報道されなかったこの事件は気温が20世紀に入って急上昇したことを示すIPCCのグラフが捏造だったことが分かった事件。IPCC関係者が「うまくだました」とはしゃぐメールが流出したことで事件が発覚した。IPCCは捏造を認めているという。なんとね。あきれるばかりだ。IPCCの報告に沿って、二酸化炭素削減政策を取ってきた各国政府や民間の環境保護団体の立場はいったいどうなるのか。

 事件によってIPCCは「過去15年にわたって、統計的に有意な温暖化は起こっていない」と認めた。温暖化が近代産業による明確な結果だという主張も崩れた。二酸化炭素排出増加による温暖化は起こっていない。よくも騙してきたな、という感じである。

 本書は第1章「二酸化炭素温暖化論が地球を破壊する」でこうした二酸化炭素温暖化説のウソを徹底的に暴く。問題はなぜIPCCがそんな捏造を行ったのかという点が不明確なことで、「IPCC議長が温室効果ガスの排出権取引で莫大な利益を得ている銀行の顧問を務めていた」というだけでは弱いだろう。

 第2章「都市化と原発の膨大な排熱」はヒートアイランド現象と電力について俯瞰している。「東京に原発を」「危険な話」の広瀬隆だから、原発の危険性と効率の悪さ、環境破壊を強調した上で、新しい発電法ガス・コンバインドサイクルを用いた火力発電と、電気と熱を同時に産み出すコージェネレーション技術を紹介している。

 マイケル・クライトンの「恐怖の存在」は2004年に発行され、2007年に文庫になった。僕は文庫を買ったが、当時は常識と思われていた温暖化を否定する小説をどうしてクライトンが書いたのか分からなかったし、評判も良くなかったので読んでいなかった。前記の2冊を読んで、温暖化疑問の視点に納得できたので読み始めた。付録1「政治の道具にされた科学が危険なのはなぜか」を読むと、クライトンの危機感の切実さがよく分かる。クライトンはユダヤ人虐殺につながった優生学と、ソ連の生物学を牛耳った自称農学者を例に挙げ、その悲劇を紹介した後、こう指摘する。

 そしていま、われわれはふたたび、大いなる理論に呪縛されている。またしても世界じゅうの政治家、科学者、著名人に支持されている理論にだ。大規模な財団のあと押しを受けている点も同じなら、いくつもの有名大学で研究されている点もおなじだ。そしてやはり立法措置がとられ、その名のもとに社会計画が推進されている。反対意見を表明する者が少数であり、反対すれば手厳しい批判を浴びる点も変わらない。

 科学と政治の混合は悪い組み合わせであり、悲惨な歴史を生んだ理由もそこにある。われわれは歴史を憶えておかなくてはならない。そして、世界にまっとうな知識として提示するものが、利害関係ぬきの、公平無私で公正なものであるようにしていかなければならない。

この3冊に共通するのは一つの仮説だけに基づいて社会全体が動いていくことの危険性を指摘していることだ。地球温暖化教を信奉するのは勝手だが、それを押しつけないでほしいものだ。

2010/07/15(木)Mu P8

 買ってきた。ダホンの折りたたみ自転車。折りたたむと小さいが、車のトランクに入れると、けっこう大きい。走った後に入れると、トランクが汚れるだろうから、キャリーバッグは必須かな。キックスタンドとベルは附属していた。ダホンのロゴが入った裾バンドも。ライトが必要なので、安いのを買う。といっても夜はあまり走らないだろう。ついでに雨の日も走らないから泥よけも不要。だいたいスポーツバイクには似合わないし、重くしたくもない。雨上がりに走るときのために、折りたたみ式のフェンダーがあるらしい。それを買っておくといいかもしれない。

 あと必要なのはフランス式に対応した空気入れ、サイクルコンピューター、鍵などか。荷台はもちろんないので、メッセンジャーバッグを楽天に注文した。まあ、いろいろと必要ですね。

 DAHONの正しい乗り方講座を参考にして、サドルの高さを調節し、さっそく家の近所を走ってみる。軽い。ママチャリとは大違い。坂道も楽々だ。しかし、少し乗っていると、お尻が痛くなる。乗り方が悪いのか。体重はお尻だけでなく、腕でも支えなくてはいけない。そうしているつもりだが、やはり痛くなる。慣れの問題だろうか。

 小径車といえども、すいすい走り、スピードはけっこう出る。快適だ。15分ほど走って家に帰ったら、途端に汗が噴き出した。これでは通勤は無理。涼しくなってからにしよう。

 auのRun & Walkは自転車のエクササイズにも使える。これまではウオーキング専門だったので無料のライト会員だったが、自転車が使えるベーシック会員に入った(月額105円)。明日の朝、犬の散歩を短めにして走ってみるつもりだ。

2010/07/08(木)「ロストクライム -閃光-」

 「プライド 運命の瞬間」以来12年ぶりの伊藤俊也監督作品で、3億円事件を題材にしたサスペンス。永瀬隼介の原作「閃光」を長坂秀佳と伊藤監督が脚色している。話自体は悪くないと思うが、至る所に演出の細かい齟齬がある。それが集積して映画全体として面白みに欠ける作品になってしまった。12年間のブランクが悪い方に影響したのか。といっても、僕は伊藤俊也の作品に思い入れはないし、面白いと思った作品も少ない。相性とかそういう問題ではなく、この人、テクニックはあまりないと思う。社会派の監督でもなく、「さそり」のようなシャープなB級作品に本領を発揮するタイプなのだろうと思う。

 隅田川で絞殺死体が発見される。定年を2カ月後に控えた刑事滝口(奥田瑛二)は捜査メンバーに名乗りを上げる。コンビを組むのは若手の片桐(渡辺大)。滝口が事件に関心を持ったのは殺された男葛木が3億円事件の重要容疑者の1人だったからだ。1968年12月10日、偽白バイ警官が現金輸送車から3億円を奪った事件。既に公訴時効が成立したが、滝口をはじめ警察関係者は当時、複数の犯人グループを突き止めていた。それなのになぜ、逮捕しなかったのか。映画は事件の真相を徐々に明らかにしながら、現在もなお、3億円事件の深層を隠蔽しようとする警察上層部と事件に絡んだ連続殺人を描いていく。

 現在の連続殺人が過去の事件につながっていくというのはミステリでは極めてよくある設定。この映画(原作)も、そのスタイルを踏襲している。事件の真相に驚きはなく、警察の隠蔽の理由も説得力を欠く。そう思えるのは映画に力がないからだろう。ドラマの構築が弱いのだ。

 奥田瑛二の演技は僕には全然うまいとは思えない。渡辺謙の息子、渡辺大は色に染まっていないのが良いところだろうが、、主役を張るほどの貫録はない。他のキャストはかたせ梨乃、宅麻伸、中田喜子、烏丸せつ子、夏八木勲ら。これは70年代の映画か、と思えるような布陣だが、68年の事件を題材にしているため、というよりは監督の趣味なのではないかと思う。かたせ、中田にはそれぞれラブシーンがあるが、どちらも不要に思えた。

2010/06/01(火)「パレード」

 予告編からはスリラーのような印象を受けた。それが先入観としてあったので、いつまでたってもスリラータッチにならないなと思いながら見ていた。だから、実はこれが行定勲監督作品としては「きょうのできごと」に連なる映画であることに気づくまで1時間近くかかった。「ロックンロールミシン」と合わせてモラトリアム3部作なのだそうだ。しかし、映画はやはりスリラーとして、予告編とは違う意味でのスリラーとして着地する。

 映画を見た後に、家にあった吉田修一の原作を読んでみたら、解説で作家の川上弘美が「こわい、こわい」と繰り返していた。監督自身はこの映画について「青春映画のふりをした恐怖の映画」としている。大学生の日常を描いた「きょうのできごと」は最後までほんわかした映画だったが、この映画には正反対の怖さがあるのだ。同じように若者の日常を描きながら、緩やかな人間関係の根底にある不条理な恐怖が浮かび上がるラストが秀逸だ。

 2LDKのマンションで男女4人が共同生活をしている。4人の間に恋愛のような濃い関係はない。いつでも出て行けるという安心感のある共同生活であり、それぐらい緩やかなつながりである。当人たちはこの生活の在り方を「インターネットのチャットや掲示板のような」と、たとえる。これは少し分かりにくい表現だが、要するに本音を隠して付き合っているということだろう。マンションには男部屋と女部屋があり、男部屋には伊原直輝(藤原竜也)と杉本良介(小出恵介)、女部屋には大河内琴美(貫地谷しほり)、相馬未来(香里奈)が住む。住人が集う居間がチャットルームのような在り方になるわけだ。そこに「夜のオシゴト」をしてるらしい小窪サトル(林遣都)が転がり込んでくる。マンションの近所では連続暴行事件が発生していた。というシチュエーションの下、物語は5人の視点で描かれていく。

 映画は原作に忠実だが、怖さの質は少し異なる。ラストの処理で一歩踏み込んでいるのだ。原作が描いているのは映画のレイプシーンばかりを集めたビデオテープをテレビドラマ(原作では「ピンクパンサー2」のアニメ)を上書き録画するシーンが象徴している。水面下にある醜悪な現実を見ないで付き合う関係の怖さ。登場人物の1人はラストでそれに気づき、慄然とする。映画はそこから踏み込み、そうした表面的な人間関係から逃れられない怖さをラストに持って来た。「行くよね」。無表情に1人がつぶやくセリフが怖い。彼らの関係は非日常的なことが起こっても壊れない。いや壊さない暗黙の了解があるのだ。

 個人的にはもっともっと不条理な展開が好きなのだが、日常生活にある不条理さを浮かび上がらせるにはこれぐらいの方がいいのかもしれない。若手俳優5人がそれぞれに好演している。小出恵介と林遣都は昨年の「風が強く吹いている」とは正反対の役柄ながら、逆にそこがいい。「GO」では感心したのに、「北の零年」では才能ゼロとしか思えなかった行定勲は若者を描いた映画に本領を発揮する監督なのだと思う。