2013/04/29(月)「愛、アムール」

 カンヌ映画祭パルムドールとアカデミー外国語映画賞受賞。老いと老老介護と人間の尊厳を織り込みつつ、映画は普通に進行するが、最後でミヒャエル・ハネケらしさが出たと言うべきか。納得のいくラストだ。これは途中にある夢(悪夢)のシーンと呼応していて、悪夢で叫び声をあげた主人公はラストでは穏やかに(知らずに)運命を受け入れる。

 83歳のジャン=ルイ・トランティニャンと86歳のエマニュエル・リヴァが老夫婦を演じる。劇中、若い頃のアルバムが出てくるが、そこに写っているトランティニャンは精悍な顔つきをしている。僕にとってのトランティニャンは「男と女」の男ではなく、アラン・ドロンと共演した「フリック・ストーリー」の犯罪者役だ。若い頃の姿を知っているからこそ、この映画はリアルに迫ってくる。

 ある朝、食事中に突然、妻は反応しなくなる。病院で手術を受けるが、うまくいかず、右半身が麻痺してしまう。妻は家に帰って、「もう病院には入れないで」と懇願する。そこから夫の自宅での介護が始まる。妻は一向に良くならず、病状は進んでいく。老いが絡んでいるから、回復する見込みはない。車いすから、ついには寝たきりになる。自分の寝たきりの姿を他人には見せたくない妻と、言うことを聞かない妻への苛立ちを持ちながらも懸命に介護する夫。ハネケは2人の姿を淡々と描いていく。

 同じくパルムドールを受賞したハネケの前作「白いリボン」とはまるで題材が異なるが、不思議なことに冷たい感触は共通する。「愛」というタイトルだからといって、決してこの映画、温かな映画ではない。介護の現実はそんなに生やさしくはなく、きれい事では済まないことをハネケはわきまえている。

 幸福感を持たせて締めくくったのは70歳のハネケにとっても老いは他人事ではないからだろう。元々、この映画、ハネケの家族に起こった同じようなことを題材にしているのだという。

2013/04/28(日)「アイアンマン3」

 このシリーズ、好きなのだが、2作目はうーん、と思い、今回も少し物足りなかった。ロバート・ダウニー・ジュニアは相変わらずおかしいし、パルトロウもいいのだけれど、イマイチ演出に切れ味がない。監督は2作目までのジョン・ファブローに代わってシェーン・ブラック。この人、脚本家としてはなかなかだと思うが、監督としてはどうなんだろう。ちなみにIMDBでは8.1、ロッテン・トマトでも7.7なので多くの人は評価してます。

 映画が始まる前にこれから「マイティ・ソー」「ハルク」などの続編が公開され、2015年に「アベンジャーズ2」が公開されることが紹介された。またやるんですか。今回はエンド・クレジットの後にサミュエル・L・ジャクソンは出てこなかったけど。

2013/03/26(火)「砂漠でサーモン・フィッシング」

 イエメンの大富豪シャイフ・ムハンマド(アマール・ワケド)が主人公で水産学者のアルフレッド・ジョーンズ(ユアン・マクレガー)に言う。

 「友よ、残念だったな」

 「いいえ、奇跡です」

 「ああ。しかし、残念だ」

 アルフレッドがイエメンで鮭を放流するプロジェクトを通じて知り合い、次第に思いを寄せるようになったハリエット・チェトウド=タルボット(エミリー・ブラント)。ハリエットの恋人ロバート・マイヤーズ(トム・マイソン)は砂漠の戦場でMIA(戦闘中行方不明)になっていたが、奇跡的に生きていたことが分かったのだ。首相広報担当官のパトリシア・マクスウェル(クリスティン・スコット・トーマス)はプロジェクトのPRを目的にロバートをイエメンに連れて行き、ハリエットと再会させる。しっかりと抱き合う2人を見て、シャイフが言うのが上のセリフだ。アルフレッドはその前日に「僕たちの間に実現可能性はあるかな」と思いを打ち明けたばかりだった。

 ポール・トーデイの原作「イエメンで鮭釣りを」を「スラムドッグ$ミリオネア」のサイモン・ビューフォイが脚本化、ラッセ・ハルストレムが監督した。ウィットに富んだセリフをちりばめ、ハッピーエンドを希求するビューフォイの脚本がまず、うまい。ハルストレムの演出も手堅いので、佳作に仕上がっている。

 エミリー・ブラントは憂いを含んだ表情が良く、ユアン・マクレガーはいつものように少しコミカルな水産学者を演じている。この2人とアマール・ワケドの好感度の高さが映画の好感度にもつながっている。

2013/03/17(日)「バトルシップ」

 宇宙からの物体がハワイ沖に落下するまで30分余り。DVD OR ブルーレイで見る場合はここまで早送りにして何らかまわない。そこからは戦闘シーンのみ。VFXはまずまずなので、見ていて退屈はしない。しかし、話にオリジナリティーが乏しいのは減点対象だ。1時間半ぐらいで描ける内容。

2013/02/18(月)「ゼロ・ダーク・サーティ」

 ビンラディンを極悪人として描けなかった、そもそも何も描けなかったことが一般的な娯楽映画の気分からほど遠い要因なのだと思う。普通のアクション映画の悪役は当然倒されるべき存在として描かれる。敵を倒す主人公の行為の正当化にはこれが不可欠だ。もちろん、脚本のマーク・ボールも監督のキャスリン・ビグローもビンラディンを単純な娯楽映画の悪人として描くほど愚かではないから、そんなことはしなかった。映画の冒頭に貿易センタービルで亡くなった人たちの最後の痛切な会話を流すことで、ビンラディン=倒すべき悪、と規定している。何の罪もない3000人近い人の命を奪う作戦を指揮したのだから、これは当然と言えるかもしれない。

 しかし、と思う。ビンラディンはどういう人間なのか、アメリカを憎むアルカイダの論理はどんなものなのかを少しでも描いていれば、この映画はもっと充実していたに違いないと思う。この映画に登場するアルカイダは正体不明と言ってよいぐらい何も描かれない。別にアルカイダの肩を持てと言っているわけではない。アメリカ映画なのだからアメリカ側の視点で作られるのは当然だが、この映画の視点は狭すぎると思うのだ。イラク戦争の爆弾処理班の兵士だけを描いたビグローの前作「ハート・ロッカー」と同様、全体を見渡す視点に欠けている。例えば、デヴィッド・O・ラッセルは湾岸戦争を舞台にした映画「スリー・キングス」でアメリカ兵を拷問するイラク兵に、空爆によって家族を失ったというセリフを言わせていた。視点を多角化するそういう部分が重要なのである。

 主人公のCIA分析官マヤ(ジェシカ・チャステイン)はビンラディンを執拗に追う。途中から同僚をテロで殺されたという私怨が含まれてくるにせよ、10年間追い続ける理由としては説得力が足りないように思う。ここで思い出すのは「オデッサ・ファイル」(1974年、フレデリック・フォーサイス原作、ロナルド・ニーム監督)だ。この映画、主人公が逃亡したナチスの高官を追う本当の理由が最後に明らかになって膝を打ったものだ。そうか、それならそこまで執念深く追いかけるのも仕方がないよな……。敵を追い詰める主人公の行動原理にはそうした強く差し迫った動機が必要だろう。

 アメリカ政府が公式には否定している拷問のシーンがあるからこれは社会派の映画だろうか。違う。主人公が作戦を完遂しても空しい気持ちになるから、これは社会派の映画だろうか。それも違う。社会派の映画には批判の矛先が必要だ。この映画はそれがあいまいなのである。同時テロからビンラディン暗殺まで10年間のアメリカ側の捜査(拷問、拷問、拷問)を描いただけであり、拷問批判が狙いなら、クライマックスの襲撃場面にあんなに力を入れる必要はない。実際、ビグローの演出はこのクライマックスで本領を発揮する。基本的にビグローはサスペンスとアクションの人だ。社会派的な題材を取り上げるのであれば、得意のアクションの組み立てと同じぐらい緻密に構成を考える必要があった。

 ちなみにこのクライマックス、屋敷が高い塀に囲まれていることもあって、赤穂浪士の討ち入りを思わせた。赤穂浪士にとって吉良上野介は主君を死なせた憎むべき敵だが、吉良上野介にとってみれば、赤穂浪士は屋敷に押し入ったテロリスト集団だろう。

 見終わって、なんだか宙ぶらりんにされたような釈然としない気持ちが残る。部分を描いて全体を映し出す手法は確かにあるが、この映画では成功していない。