2014/11/23(日)「インターステラー」

 年季の入ったSFファンにしか、どうせ分からないだろうから書いてしまうと、クライマックスのアイデアはグレゴリー・ベンフォード「タイムスケープ」を援用したのではないかと思う。破滅に瀕した世界と、未来から(時間と空間を超えた場所から)送られるモールス信号というのが共通しているのだ(救いを求めている方向は異なる)。もちろん、監督と脚本のクリストファー&ジョナサン・ノーラン兄弟は映画全体を「タイムスケープ」の単純なコピーにはしていない。アイデアを解体し、父と娘の絆を核にして本格SFのストーリーに胸を揺さぶる豊かな情感を持ち込んでいる。この情感が素晴らしい。これを見ると、「2001年宇宙の旅」などはプロットだけの無味乾燥な映画に思えてくる(「2001年」は1968年に作ったことに大きな意味があったのだけれど)。

 世界がなぜ破滅に瀕しているのかは説明されない。大規模な砂嵐が襲い、家の中まで砂にまみれ、人々は肺を患っている。穀物は疫病にやられて食糧危機に瀕している。穀物だけではない。植物も生育できなくなれば、酸素は供給されず、人類には地球規模の窒息死が待っているのだ。科学よりも食糧危機をなんとかするために農業が優先される時代で、学校ではアポロ11号の月面着陸を嘘っぱちと教えている始末。そうした暗い時代にあっても元宇宙船パイロットの父親クーパー(マシュー・マコノヒー)と10歳の娘マーフ(マッケンジー・フォイ)は科学の力を信じている。人類を救うため、移住可能な惑星を探して宇宙に旅立つことになった父親とそれを引き留めようとするマーフ。クーパーが拗ねたマーフに「必ず帰ってくる」と約束する言葉が胸を打つ。

 ここから映画はワームホールや冷凍睡眠、相対性理論によるウラシマ効果というSFのガジェットを使い、一気に時間を進める。地球では父親が旅立った後、成長したマーフ(ジェシカ・チャステイン)が当然のように物理学者の道に進むことになる。何年たっても帰らない父親について、マーフは「自分たちを見捨てた」と考えるようになるが……。

 序盤に描かれた父と娘の絆はクライマックスまで作品の中心に流れていく。マット・デイモンが登場するエピソードは人間の狭量さが見え過ぎて決してうまいとは言えないなどの瑕疵もあるが、「スター・ウォーズ」以降量産されてきたSF映画の中では「ブレードランナー」や「マトリックス」と並んでマイルストーンとなるSF映画であり、同時にクリストファー・ノーラン最良の作品でもあると思う。良質のSF小説の味わいを持ち込めたのはノーラン兄弟がSF小説を読み込み、それを血肉にしているからに違いない。

2014/11/09(日)「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」

 主人公はいない。ストーリーもない。それどころか、音楽もナレーションも場面の解説もない2時間49分。シャルトルーズ修道院とはどんなところか、修道士たちはどんな日常を送っているのか、それを見るためだけの映画である。退屈するかと思ったが、直前までパズルのような小説を読んで頭がヒートアップしていたので、このストーリーのない映像は逆に心地良かった。物語の後先を考えず、ただ画面を眺めていれば良いというのは楽なのだ。頭がリフレッシュする感覚があったのは世俗を離れた修道院を描いた映画だからではなく、環境映像やBGVと同じ効果なのだろう。

 映画は一にも二にも三にも筋、というのが映画作りで重要とされるのが普通で、僕らは映画を見るとき、ストーリーを追っている。これはフィクションに限らない。ドキュメンタリー映画でも監督は自分の主張に沿ってストーリーを組み立てる。音楽もナレーションもダメという修道院側から課された制限は映画を作る上で手足を縛られたようなものだが、だからこそ、修道院内部の時間の流れに身を任せることが可能になっている。そうせざる得ない映画なのだ。

 グランド・シャルトルーズ修道院はフランスのアルプス山中にあり、カトリックの中でも厳しい戒律で知られるカルトジオ会の男子修道院。映画は雪の季節に始まり、雪の季節に終わる。修道院の1年を描いたのかと思えるが、パンフレットによると、フィリップ・グレーニング監督が過ごしたのは2002年の春と夏にかけての4カ月と2003年冬の2カ月の計6カ月だそうだ。1年間のように思える構成は作為的なものだ。しかし映画のフィクショナルな部分はこれぐらいで、ほとんどはただカメラを回し、修道士とその日常を撮影している。

 「主の前で大風が起こり、山を裂き、岩を砕いたが、主はおられなかった。

 風の後、地震が起こったが、主はおられなかった。

 地震の後、火が起こったが、主はおられなかった。

 火の後、静かなやさしいさざめきがあった」(列王記19.11-12)

 冒頭に出るこの字幕とベルイマン映画の連想から、「大いなる沈黙」とは神の沈黙のことかと思った。そうではなく、修道士たちの沈黙の生活を表しているようだ。修道士同士は話すことを許されない時間が多く、1日のほとんどを個室で祈りの時間として過ごす。ほぼ自給自足の生活を支えるための労働もある。個室の小窓を開けて食事を配るシーンなど見ると、修道院の生活は刑務所と変わらないように思える。

 いや、刑務所以上に質素で厳しい生活だ。祈りと労働の日常に耐えられず、修道士の8割は途中で出て行くそうだ。去るのは自由、辞めさせるのも自由。それはこの映画についても同じことが言えると思う。必要以上に称賛する必要はないが、けなす必要もない。騒がしい日常から距離を置くには良い映画だと思う。

2014/11/03(月)「彼女はパートタイムトラベラー」

 ほとんどバカにして見始めたら、ジェイク・ジョンソンが初恋の人と再会するシーンの大人の描写におおお、と思い、ラストシーンではとても嬉しくなってしまった。まさか、こんな展開になるとは。コメディとして進行するので意外性があるのだ。

 主演のオーブリー・プラザ、しっかりと名前を記憶した。監督のコリン・トレボロウもしっかり記憶した。トレボロウの次回作は2015年公開の「ジュラシック・ワールド」だそうだ(ジェイク・ジョンソンも出演している)。なるほど。プロデューサーは目がある。

 IMDbの採点は7.1、ロッテン・トマトでは91%のレビュアーが支持している。

2014/11/03(月)「レッド・ドーン」

 ジョン・ミリアス監督「若き勇者たち」(1984年)のリメイク。たとえ設定にリアリティーがゼロであっても、アクション映画として面白ければかまわないのだが、アクションシーンに工夫がない。ありきたり。となると、救いようがない。クリス・ヘムズワースが出るべき作品でもない。

 元々は中国が侵攻する設定だったのを興行上の理由から北朝鮮に変えたのだそうだ。日本に侵攻するならまだ話は分かる(韓国ならもっと分かる)けれど、遠いアメリカまで行きますかね。

2014/11/02(日)「消えた画 クメール・ルージュの真実」

 カンヌ映画祭「ある視点」部門最優秀賞受賞。インドネシアでは政府が共産主義者を100万人虐殺したが、カンボジアでは共産主義政府が数百万人の市民を虐殺と飢え、病気で死に至らしめた。監督のリティ・パニュはその現場にいた。

 映画は死者が埋まった田んぼの土と水で作った土人形とクメール・ルージュの記録フィルムを使い、地獄のようなポル・ポト政権下のカンボジアを描き出す。国全体が強制労働収容所と化した中で、何が起こったのか。記録されていない人々(消えた画)を土人形によって再現するのがこの映画の狙いだったようだ。

 飢えのため夜中に塩を食べて死ぬ少女や、ジャングルからマンゴーを持ち帰ったため実の息子から告発され、軍に殺される母親のエピソードなどが積み重ねられる。しかし土人形では迫真性を欠くと思う。絶望や恐怖が伝わりにくいのだ。はっきり言って、土人形で描かれるエピソードよりも、白黒の記録フィルムの方が悪夢だ。全員が同じ黒い服を着せられ、荒れ地を耕す光景。当時は宣伝映画として撮ったのだろうが、ぞっとするような光景だ。拍手をしながら、にこやかに兵士の前に姿を現すポル・ポトの姿は民衆の苦しみなど、どこ吹く風の風情だ。

 残念ながら、この映画だけでカンボジアの虐殺の真実は分からない。監督にとっては自明のことでも、ポル・ポト政権が倒れて35年たった現在、若い観客の多くには伝わらないだろう。そもそもの原因がベトナム戦争にあったことさえ、この映画だけでは分からない。全体主義は怖い。一党独裁は危険だ。そんな感情がわき起こるだけでいいわけはないだろう。ただ、この映画によってカンボジア虐殺を知るきっかけにはなるかもしれない。

 リティ・パニュはカンボジアの虐殺をテーマに映画を撮り続けている監督だが、日本の劇場で一般公開されるのはこの作品が初めて。一部ではこれに合わせてドキュメンタリーの「S21 クメール・ルージュの虐殺者たち」など高い評価を得ている他の作品も特集上映された。他の作品も見てみたいものだと思う。