2017/10/31(火)「ブレードランナー2049」

 何を撮っても水準以上に仕上げてくるドゥニ・ヴィルヌーヴ監督なので良くまとまった続編だが、前作には及ばない。「足下にも」とか「遠く」とかを付け加えてもいい。見終わった後、前作(1982年)のファイナル・カット版を再見してその思いをさらに強くした。

「ブレードランナー2049」パンフレット

 前作はとにかくシド・ミードがデザインした未来都市の風景(と、そこにかぶさるヴァンゲリスの音楽)が素晴らしすぎた。酸性雨が降り続き、ジャパネスク趣味にあふれた猥雑な未来都市。カルト化した要因は主にこのごみごみした未来都市の魅力的なイメージにあり、ウィリアム・ギブスン「ニューロマンサー」(1984年)から本格的に始まるサイバーパンクSFの偉大な先駆けとしても認知されている。そしてサイバーパンクの小説群よりも「ブレードランナー」の方がその後の影響力は大きかった。

 なぜジャパネスク趣味だったのか。直接的には来日したリドリー・スコットが新宿歌舞伎町を見てヒントにしたそうなのだが、同時に80年代の日本経済が黄金期にあったからだろう。エズラ・ヴォーゲル「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーになったのは1979年。ここからバブル崩壊までの10年間は日本経済が世界に対して最も強く影響力を持った時代だった。今回の作品でも日本語の看板は目に付くが、今の世界経済の動向を反映するなら中国語の看板の方がふさわしいだろうし、映画の中で30年経過してもまだ同じジャパネスクというのは脚本家の想像力が足りないと思う。

 前作では主人公のリック・デッカード(ハリソン・フォード)が自分もレプリカントではないかと疑う場面があった。フィリップ・K・ディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」には人間とアンドロイド、本物と偽物に関する思索的な部分が多いが、そういう部分をばっさりとカットし、未来のハードボイルドとして表面的に映画化したのが成功の理由-と当時、的確な指摘をしたのは映画評論家の石上三登志さんだったと記憶している。ビジュアル重視の監督であるリドリー・スコットは思索的な部分が映画に向かないことを当然のことながら十分に分かっていたのだ。

 今回の主人公であるロス市警のブレードランナー、K(ライアン・ゴズリング)はレプリカントだ。Kは違法な旧型レプリカントを取り締まる中、レプリカントを開発する科学者ウォレス(ジャレッド・レト)の巨大な陰謀を知る。それには30年前、女性レプリカントのレイチェル(ショーン・ヤング)と共に姿を消したデッカードがかかわっているらしい。

 この陰謀の中心にあるアイデアはレプリカントがアンドロイドであったら成立しない。僕は原作の影響から、レプリカント=アンドロイドだと、この35年間思い込んできた。考えてみれば、原作にレプリカントという言葉は出てこないのだ。レプリカントは前作の脚本を書いたデヴィッド・ピープルズの造語であり、遺伝子工学によって開発された人造人間のことを指す。有機体で構成され、機械ではないのだという。有機体であるのなら、レプリカントの存在自体にクローンのような倫理上の問題も浮上してくるが、その点は前作も今作もほとんど触れられていない。

 前作でショーン・ヤング、ダリル・ハンナが輝いていたように、今回も女優陣は良い。抜群にキュートで健気ではかない存在のヒロイン、ジョイを演じるアナ・デ・アルマスが終盤、Kに駆け寄りながら必死に「アイ・ラブ・ユー!」と叫ぶ姿は切なく、映画の中で最もエモーションを揺さぶるシーンになっている。アルマスはキアヌ・リーブス主演の「ノック・ノック」(2015年、イーライ・ロス監督による「メイクアップ」のリメイク)でも魅力的だったが、これで本格的にブレイクするだろう。娼婦役のマッケンジー・デイヴィスは「オデッセイ」で主人公マット・デイモンの火星からのSOSに気づくNASAの女性職員を演じた女優。今回は出番が多くて良かった。

 映画の中では前作から30年後の設定だが、現実世界では前作から35年が過ぎた。リアルタイムで前作を見ているのは40代以上ということになるだろう。映画に登場する年老いたハリソン・フォードを見て、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」の時ほど懐かしさはこみ上げなかったが、当時のあれこれを思い出すに連れてじわじわと感慨が湧いてきた。35年ぶりの続編にはそんな力もあるのだ。

2017/09/13(水)「ダンケルク」

「よくやった」

「生き残っただけだ」

「それで十分だ」

 ラスト近く、ダンケルクから無事にイギリスに帰った兵士と迎えた盲目の男が交わすセリフ。映画のテーマはこれに尽きる。補給もろくに行わなかった旧日本軍だったら、40万人も兵士が残っているなら全員死ぬまで戦えという(人命を徹底的に軽視した)命令を出してもおかしくなかっただろう。

「ダンケルク」パンフレット

 1940年5月、ドーバー海峡に臨むダンケルクの海岸で40万人の英仏連合軍兵士がドイツ軍に包囲される。映画はその救出作戦(ダイナモ作戦)を描く。ドイツ軍が降伏を促すため空から撒いたチラシが降り注ぐ冒頭のシーンから緊張感にあふれる。人通りのない街に銃声が響き、1人の英国人兵士が走って逃げ出す。4、5人いた仲間の兵士は銃声のたびに倒れ、この兵士だけになる。これが陸上側の主人公トミー(フィン・ホワイトヘッド)。トミーが海岸にたどり着くと、多数の兵士が救出の船を待っていくつもの長い列を作っていた。海岸は遠浅のため駆逐艦などの大きな船は接岸できない。沖合に延びた長い桟橋に兵士たちは密集し、そこをドイツ軍機が空襲してくる。砂浜と桟橋が爆撃され、なすすべもなく多くの兵士が犠牲になる。映画はこの海岸の1週間と救出に向かう民間船の1日、英空軍戦闘機の1時間を描いていく。

 民間船の船長ドーソンを演じるのは「ブリッジ・オブ・スパイ」のマーク・ライランス。ドーソンは自分たちの世代が始めてしまった戦争で若い世代が死ぬのを見過ごせなかった。だから英国政府の要請に応じて小さなプレジャーボートでダンケルクに向かうのだが、実はそれ以上に切実な、そして胸を打つ理由が終盤に明らかになる。戦闘機のパイロットはトム・ハーディが演じ、燃料切れの不安の中、救出船を爆撃するドイツ機の撃墜に力を尽くす。

 見ているうちに分かってくるのは陸海空のドラマが同時進行しているわけではないことだ。クリストファー・ノーラン監督は時間を前後に動かしたり、一つのシーンの時間を引き延ばしたりしながら描いている。例えば、船の沈没が飛行機から俯瞰でさっと描かれた後、別のエピソードに移り、その後に沈没船乗員の視点から詳細に描くという具合。「メメント」(2000年)でもそうだったように時間を操作するのはノーラン、得意だ。

 パンフレットによると、撮影は65ミリのIMAXフィルムで75パーセントが行われ、残りの25パーセントも65ミリフィルムを使用したという。これは臨場感と没入感を高めて観客にダンケルクの戦いを追体験させる狙いかららしい。状況説明など一切なく、セリフも極端に少ない。ハンス・ジマーの時を刻むように途切れない音楽は劇伴と言うのがふさわしく、緊張感をいっそう高めている。

 そうした緊張感が一気に解放されるのは沖合から多数の民間船がやってくるシーン。ダンケルクの海岸で責任者の立場にある英海軍中佐ボルトン(ケネス・ブラナー)が沖合に向けた双眼鏡で多数の民間船を確認する場面の歓喜と高揚感はそこまで大変な緊張感に包まれているからこそ大きなものになっている。

 だがしかし、逃げ帰った兵士たちにはそれを恥じる気持ちがあった。それを否定するのが盲目の男のセリフであり、33万8000人を救った作戦を大きく評価する新聞記事だった。CGが嫌いなノーランはこの映画でCGを使わなかったそうだが、この映画が優れている理由はそんなところにはない。人命重視のテーマを外さなかったからこそ感動的な映画に仕上がったのだ。

2017/09/08(金)「新感染 ファイナル・エクスプレス」

 ゾンビが増殖する特急列車の中でのサバイバルを描く。70年代のパニック映画の作りに「ワールド・ウォーZ」のゾンビ描写を加えた感じの作品になっている。一連のパニック映画は極限状況下での人間ドラマを描き、エゴイスティックな最低男となぜか妊婦が登場するのがお決まりだった(作劇上、困難を増幅する役割が与えられる)。この映画が意図的にそれを踏襲したのか偶然なのかは分からないが、最低男も妊婦も登場し、生き残りをかけて本性をあらわにした人間たちのドラマが繰り広げられる。列車舞台のパニック映画といえば、「カサンドラ・クロス」(1976年)が思い浮かぶ。感染者が列車に乗り込む発端も同じだが、ゾンビと列車を組み合わせたアイデアが良く、ストーリー上の工夫も凝らされていて、スピード感のある佳作になった。

「新感染 ファイナル・エクスプレス」パンフレット

 ファンドマネージャーのソグ(コン・ユ)は釜山にいる別居中の妻の元へ娘のスアン(キム・スアン)を送り届けるため、ソウル駅から高速鉄道KTXに乗り込む。同じ列車には妊娠中の妻ソンギョン(チョン・ユミ)と屈強な夫のサンファ(マ・ドンソク)、高校の野球部員ヨングク(チェ・ウシク)とガールフレンドのジニ(アン・ソヒ)らが乗り込んでいた。出発直前、列車に息絶え絶えの不審な女が駆け込む。何者かに足を噛まれていた女はやがて白目をむき、女性乗務員に襲いかかる。襲われた乗務員も凶暴化し、乗客を襲い始める。原因は研究所から漏れたウイルスらしい。感染は爆発的に増え、全国各地で暴動が発生。列車はテジョン駅で停車することになるが、降りた乗客に向かってゾンビ化した多数の兵士が襲ってきた。列車に戻れたものの、スアンとソンギョンたちはゾンビに囲まれて13号車のトイレから出られなくなってしまう。

 3両離れた13号車までソグとサンファ、ヨングクが救出に向かう。途中の車両には大量のゾンビがいる。3人は強行突破を図るが、途中でゾンビのある弱点が判明する。これが列車の特性も生かした脚本の良いアイデアだ。これがなければ、強行突破はまず不可能なので設定する必要があったのだろう。

 「ワールド・ウォーZ」ではゾンビに噛まれて死ぬと、10秒以内にゾンビ化したが、この映画もそれに倣っている。というか、噛まれてゾンビと格闘しているうちにゾンビ化する。ゾンビはリビング・デッド、ウォーキング・デッドなのでいったん死ぬことが必要だ。この映画、死ぬ描写を省略した場面がほとんどで、これではゾンビではなく、単に未知のウィルスに感染して凶暴化した患者に過ぎなくなる。実際、最低男のヨンソク(キム・ウィソン)などはゾンビに容貌が変わっても意識を保っている。いくら凶暴だからといって、そういう患者をバタバタ殺して良いものかどうか。頭を破壊すれば死ぬのがゾンビのお約束だが、この映画の登場人物たちはそれを知らず、「ウォーキング・デッド」のように頭を刺したり、叩き潰すような描写はない。

 監督のヨン・サンホはアニメ監督出身で、これが実写映画第1作。映画の前日談の「ソウル・ステーション パンデミック」も長編アニメだ。パニック映画との共通点に加えて、燃える列車が駅に突っ込んでくる場面や生き残りの乗客を軍の兵士がライフルのスコープにとらえる場面などは他の作品で見た覚えがある。ヨン・サンホ、過去の作品をうまく取り入れているようだ。

2017/09/03(日)「ワンダーウーマン」

 女性の連続殺人犯アイリーン・ウォーノスをリアルに描いた「モンスター」の監督がなぜ「ワンダーウーマン」を監督するのかと思ったが、意外なことにパティ・ジェンキンスは以前から「ワンダーウーマン」の映画化を望んでいたのだという。子どもの頃、あのリンダ・カーター主演のテレビシリーズを熱心に見ていたのだそうだ。この映画の成功はジェンキンスを監督に起用して女性視点を取り入れたことと、大柄でシャープなアクションが可能なガル・ガドットを主演にしたことに尽きると思う。

「ワンダーウーマン」パンフレット

 物語は「バットマン VS スーパーマン ジャスティスの誕生」を受けた設定になっている。ワンダーウーマンことダイアナ・プリンスにバットマンことブルース・ウェインから手紙が来る。「ようやく原版を見つけた」と書かれた手紙と一緒にあったのは第一次大戦中に撮影したと思われるモノクロの集合写真。その中央にダイアナがいた。そこから映画は回想でダイアナの過去を振り返る。

 ダイアナの故郷は深い霧で外界から遮断された島セミッシラ。そこには女性だけのアマゾン族が住んでいた。ダイアナは女王ヒッポリタ(コニー・ニールセン)の娘で、粘土の人形に大神ゼウスが命を与えて生まれたとされていた。叔母のアンティオペ将軍(ロビン・ライト)から闘いの特訓を受けて成長したダイアナは自分の不思議な能力に気づいていく。ある日、島の近くで小型飛行機が墜落する。飛行機を操縦していた米軍兵士のスティーブ・トレバー(クリス・パイン)を助けたダイアナは外界で戦争が起きていることを知る。スティーブを追って島にもドイツ兵がやって来る。世界で2500万人もの犠牲者がいると知ったダイアナは戦争を即刻止めるため、そしてドイツ軍を操っているらしい軍神アレスを倒すためにスティーブとともにヨーロッパの最前線へ向かう。

 ドイツ兵を相手にダイアナが見せるアクションが良い。ここまで伏せてきた(本人も知らなかった)本当の力を解き放ち、超人的なアクションを見せつける。いや既に「バットマン VS スーパーマン」でもダイアナはスーパーマン並みの力を披露していたのだけれど、時代はこの映画の方が古いわけだし、アクションの見せ方にもメリハリがあるのだ。アクションは演出次第なのだとあらためて思う。

 ピュアな環境で育ったダイアナはピュアな思想を持っている。ダイアナが戦うのは世界平和を守るため。そんなことを大まじめに言ったら今では冷笑されてしまいそうだが、戦場で負傷した兵士や逃げ惑う人々を見て強い怒りを見せるダイアナの姿はその言葉に説得力を持たせる。この映画が一直線に力強いのはダイアナのそうしたぶれないキャラクターがあるからだ。これは純粋な女性が自分の役割を自覚し、自己実現を果たす物語にもなっている。

 残念ながら、イスラエル軍で兵役経験があるガドットの過去の経歴と発言のため、中東では映画の上映中止や延期が起きたそうだ。レニ・リーフェンシュタールを持ち出すまでもなく、映画はプロパガンダの有効な手段だから、イスラエル軍の残虐行為を肯定する女優が主演する映画はイスラエル軍のPRになるとする意見が出てくるのは仕方ないことなのかもしれない。

 だが、映画の中でダイアナ=ワンダーウーマンの行動原理となっているのは戦争の犠牲となる弱い人々を救うことであり、ピュアな人道主義にほかならない。観客は映画のキャラクターとそれを演じる俳優を同一視してしまいがちだが、それが間違いであることは言うまでもない。現実のガドットがどうあれ、ダイアナの怒りはイスラエル軍にも向かうものだろう。

2017/08/26(土)Netflix版「デスノート」

 25日に配信開始されたので早速見た。夜神月(ライト)の役名はライト・ターナーとなり、演じるのは子役出身のナット・オフ。Lを演じるのがアフリカ系アメリカ人のラキース・スタンフィールドというのが意外なキャスティングだ。弥海砂(あまね・ミサ)→ミア・サットンはマーガレット・クアリー。死神リュークがウィレム・デフォーなのはエンド・クレジットで知った。

 監督が「サプライズ」のアダム・ウィンガードなので少し期待もあったが、IMDbで評価5点という悲惨な結果(その後さらに下がっている→Death Note)。これは主演のナット・オフに魅力がないことと、原作と離れた後半の展開が弱いことが主な要因だ。トリックの説明に終始して、原作の7巻にあるような驚愕の展開にはなっていない(当たり前か)。スタンフィールドのLも松山ケンイチに負けている。スタンフィールドは「ショート・ターム」「グローリー 明日への行進」「ストレイト・アウタ・コンプトン」「スノーデン」など話題作に連続して出ているが、個人的には名前と顔が一致するほどの印象は持っていなかった。

 1時間40分の上映時間で「デスノート」を描くのは難しい。1時間10話ぐらいのシリーズにした方が良かったのではないか。ウィンガードは「ゴジラ VS コング」(2020年公開)も監督予定だが、大丈夫なんだろうかと思えてくる。