2021/02/28(日)「あのこは貴族」の各紙誌レビュー

 手に入る範囲で新聞・雑誌の「あのこは貴族」のレビューを集めてみた。こういうのは賛否あった方が面白いが、絶賛評がほとんどだった。
困難な社会を生きる女たちの連帯。ただ、それを声高に叫ぶのでなく、人物の揺れる感情に寄り添って描く。そのことでドラマが膨らみ、それぞれの人生がリアルに浮かぶ。美紀が幸一郎に別れを告げる場面の切なさは映画独自のものだ。
観察眼は冷徹で、タッチは温かい。女たちは前を向く。(日経夕刊2月26日付・古賀重樹)
ストーリー、キャラクター、演技、演出、盛り付けもみごとな頼もしい秀作。日本人には上流階級は描けないと言ったのは確か三島由紀夫だが、そこはほどほどにして、お嬢さま育ちの門脇麦の芯の強さを柔らかに描き出し、一方で地方出身・水原希子の、都会での立ち位置の曖昧さを絶妙に描く。(キネマ旬報3月上旬号・北川れい子)
「グッド・ストライプス」でもそうだったように、あくまで個人のドラマに立脚した岨手由貴子監督の誠実さが光る。自分事として役を生きた門脇麦、水原希子も素晴らしい。(同・佐野亨)
女優陣、それぞれ意地と思考力ありの役にしている健闘ぶり。とくに水原の輝きは、脚本的にもうひと伸びあれば文句なしだった。岨手監督、手堅く「細雪」以来の女性物の系譜に新しいページを加えた。(同・福間健二)
華子の親友役の石橋静河さんもよくて、3人でホテルで対峙するシーンは、緊張感と肩透かしとなごみが混在して必見。美紀の部屋に華子が訪れた時のセリフも沁みる。すべての女子に観てほしい。そして男性は何を思うのだろう。(週刊新潮3月4日号・坂上みき)
華子と美紀は、”女”として絶対的に対立せざるを得ない状況に置かれる。しかし彼女たちは、否、物語は決してふたりを対立させない。この展開に、男どもは目が覚めるだろう。女子同士のやっかみが雑にショーアップされがちな昨今の風潮に対する、当事者たちの強烈な異議申し立てがここにある。(週刊SPA! 2月23日号・稲田豊史)
 1970年代後半に「結婚しない女」や「ジュリア」など女性映画といわれるブームがあった(地方ではこの2本、2本立てで見られた。お得な時代だった)。「あのこは貴族」は女性映画という呼称がふさわしい内容だ。と思ったら、最近の分類ではシスターフッド映画と言うらしい。昨年公開の「スキャンダル」「ハスラーズ」「チャーリーズ・エンジェル」などがそれにあたるのだそうだ(2020年の女性たちに勇気を与えたシスターフッド映画11選 | ハーバー・ビジネス・オンライン)。

 いずれにしても女性をテーマにした映画であり、それならば女性誌ではどう取り上げているのだろうと思って、楽天マガジンで調べてみたが、「あのこは貴族」を取り上げたレビューは見当たらなかった。それ以前の問題として映画情報のコーナーが少なく、あっても短い紹介に終わっている場合が多い。需要がないから映画コーナーが少ないのか? しかし、映画の観客は女性の方が多い。女性は映画の情報をどこで仕入れているのでしょう? テレビやネットで情報得てるんですかね。なんて考えて、さらに探していたら、LEEに水原希子のインタビューがあった。
「(美紀と青木の)そんな二人の関係は本当に切なかったです。そういう目に見えない格差、女性の生きづらさや環境が強く提示されるわけではなく、当たり前のように描かれる。その中で強く生きていく女の子たちの姿を通して、すべてのメッセージがスーッと入ってくる仕上がりは、岨手さんの絶妙な演出の賜!」(LEE3月号)
 さて、貴族と言えば、吉村公三郎「安城家の舞踏会」(1947年)など戦後間もなくの日本映画にはブルジョワ家の没落を描いた映画があった。それは戦争と日本国憲法によってそうした階層構造が壊れたからだ。「安城家の舞踏会」は華族制度の廃止で金に困り、屋敷を売らなければならなくなった名家の人々の苦悩のドラマ。同時に経済的実験を握った層の台頭も描いている。amazonプライムビデオで見ることができるが、例によって画質は相当に悪い。それでもこの映画がどう傑作だったかは分かる。

 amazonさん、こういう古い映画を見られるのはありがたいんですけど、もう少し画質の良いのにしてくれませんか。


2021/02/24(水)「キネマの天地」で刺さった場面

 昨年末からNetflixで「男はつらいよ」シリーズを第1作から順番に見始めた。ようやく24作目「寅次郎春の夢」(1979年)に入ったところ。Netflixだと連続ドラマのように1本終わると次が始まる。えーと、これは何本目だったかと調べる必要がないのが便利だ。

 その流れで同じ山田洋次監督の「キネマの天地」(1986年)をWOWOWオンデマンドで見た。これを劇場公開時に見なかったのは深作欣二監督の傑作「蒲田行進曲」(1982年)の二番煎じに思えたからだ。映画自体の評価もそれほど高くはなかった。と思って調べたら、1986年度のキネ旬ベストテン9位に入ってた。ただし、KINENOTEの採点は69点、Filmarksでは3.5点だから、今の観客の評価としては普通の出来というところだろう。

 そうした思い込みもあって前半はボーッと眺めていたのだが、中盤に刺さる場面があった。始まって1時間15分ぐらいからの場面。脚本家・島田健二郎(中井貴一)の下宿に大学時代の先輩で左翼活動をして警察に追われている小田切(平田満)がやってきて話し込む。島田は好きだった新人女優の小春(有森也実)を男優(田中健)に取られて映画の仕事が嫌になっていた。

「顔色が悪いですよ。大丈夫ですか、体は」
「いっそのこと捕まった方が楽だと思うことがあるよ、近頃は。ヒトラーのドイツが国際連盟を脱退しただろ。怖い時代になってきたよ」
「そんな時にバカみたいな活動写真作ってるんだもんなあ。俺、もうやめようかと思ってるんですよ、こんな絶望的な撮影所なんて」
「小倉金之助だったよな、君の師匠は」
「ええ」
「いつだったかなあ、錦糸町の小さな劇場(こや)で、『父何処』見たぜ。俺、なんべんも涙出たけどな」
「あんな下らない作品でですか?」
「少し気が弱くなっているせいもあるけど…。しかし、君は就いてたんだろう、あの映画にも」
「ええ」
「だったら、そんな言い方するなよ。なけなしの財布はたいて、あの映画見て、泣いたり笑ったりしている大衆にもっと責任持ってくれよ」
「じゃあ、ここで泣け、ここで笑え、そういう映画を作ってりゃいいんですか?」
「そんなこと言ってないよ」
「大衆に責任を持つというのはじゃあ、どういう意味ですか?」
「おぼっちゃん育ちだなあ、君は。どうしてもっと優しく映画を見ないんだ。どんな下らない映画でも可能性を持っているはずだぞ。信じろよ、映画を。いや、活動写真を。君は素晴らしい仕事をしてるんだぞ」
「変わらないなあ、小田切さんは」
「(壁のポスターを見ながら)…ジャン・ギャバンか。君と映画館をはしごしたっけ。希望にあふれてたなあ、あの頃は。気安く絶望なんて言葉を吐くのはよせよ。な、作ってくれよ、生きる望みを与えてくれるような映画を」
「キネマの天地」の一場面

 この後、警察が踏み込んできて2人は逮捕される。拷問を受けて釈放された島田は実家で両手をあかぎれで真っ赤にしながら拭き掃除をしている下働きの少女を見て、ふと問いかける。「映画を、いや、活動写真を見たことはあるかい? 面白かったかい?」。少女は目を輝かせて大きくうなずく。島田はそれを見て映画への情熱を取り戻すことになる。

 平田満の言葉が心に響くのは夢や希望を持たせる装置としての映画の力を信じているからだ。それは山田洋次監督が信じていることでもあるのだろう。

 「キネマの天地」には渥美清をはじめ「男はつらいよ」シリーズでおなじみの倍賞千恵子、前田吟、下條正巳、三崎千恵子、吉岡秀隆らの俳優が多数出演している。恐らく興行収入を担保するための松竹の要請だったのだろう。僕は「男はつらいよ」は好きだし、渥美清も小春の父親役を好演しているのだが、別の映画なのだから別のキャストの方が良かったのではないかと思う。もっとも、今となっては若い観客がそんなに「男はつらいよ」シリーズを見ているとも思えず、キャストがそれぞれに好演しているのなら不都合はないのかもしれない。