2009/08/11(火)リーフェンシュタール

 レニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」が東京で再公開され、キネ旬8月下旬号で特集が組まれている。リーフェンシュタールはヒトラーの愛人ともいわれた人で、作品は「意志の勝利」とベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」「美の祭典」が有名。内容はナチスの宣伝映画なので、ドイツでは今も上映禁止になっている。当然のことながら、僕はどれも見ていないが、ニコニコ動画やYouTube、Googleビデオで見ることができる。

 画質が良いのはYouTubeだが、細切れになるので、通してみるなら、Googleビデオが良いだろう。110分余りの長編。

 映画評論家の故荻昌弘さんは以前、リーフェンシュタールにインタビューしてテレビの特番を作ったことがある。タイトルは「美しすぎた映像」だったと思う。僕が「ロードショー」を購読していた頃だから、30年以上前だ。当時もリーフェンシュタールは評価がなかった。いや、評価するのをためらわせる経歴なので、いくら映像的に優れていてもそういうことになるのだ。荻さんは映像の美しさに絞って、リーフェンシュタールを褒めた。「ロードショー」にもリーフェンシュタールのことを書いていた。リーフェンシュタールは荻さんのインタビューについて、「あなたは、私が聞いてほしいと思っていたことを初めて聞いてくれた」と喜んだそうだ。

 というようなことは、2003年9月に101歳でリーフェンシュタールが死んだ際、日記に書いている。「意志の勝利」の上映が東京以外であるのかどうか知らないが、スクリーンで見てみたいと思う。

2009/07/05(日)「おもいでの夏」のナレーション

 「愛を読むひと」の前半は「おもいでの夏」と同じような展開だった。「おもいでの夏」はかなり好きな映画の1本で、僕は高校生の頃、雑誌「ロードショー」で最後のナレーションを読み、影響されて「人生は小さな出会いと別れからできている」という言葉を卒業文集に引用した。これは原文ではどう言っているのだろう。「愛を読むひと」を見て、長年気になっていたことを確認したくなり、DVDを買った。最後のナレーションは字幕(高瀬鎮夫訳)では以下のようになっている。

別れだった
その後は知らない
まだ少年が少年である時代だった
わたしには理解できなかった
人生のささやかな出会い
人はそれで何かを得て
同時に何かを失う
42年の夏 わたしたちは対空監視所を4回襲い
映画を5回
そして9日は雨だった
ベンジーの腕時計は壊れ
オスキーはハーモニカをやめ
そしてわたしは
幼いわたしを永遠に失った

 「人生のささやかな出会い」というのが「人生は小さな出会いと別れからできている」の意訳だろう。ここをよく聞いてみると、英語では「Life is made up of small comings and goings」と言っている。これを手がかりに最後のナレーションの原文を検索してみた。やっぱり好きな人はいるようで、inthe70s, The Seventies nostalgia siteというページのMovie Quotes of the Seventiesに紹介されていた。

Life is made up of small comings and goings, and for everything we take with us, there is something we leave behind. In the summer of '42 we raided the Coast Guard station four times. We saw five movies and had nine days of rain. Benjie broke his watch. Oscy gave up the harmonica. And in a very special way, I lost Hermie...forever.

 映画はよくある10代の少年の初体験ものなのだが、とにかくミシェル・ルグランの切ないテーマが名曲すぎて名作化に大いに貢献している。ロバート・マリガンの演出も手堅い。何よりジェニファー・オニールがきれいだった(「スキャナーズ」で再会した時にはあまりの変わりようにビックリしたんだけど)。

 ついでに最初のナレーションとドロシーの置き手紙も引用しておく。これ、DVDを買う前に検索したが、正確なものがあまりなかった。

「わたしは15歳の夏をここで両親と過ごした。当時は今より家も人もはるかに少なかった。島の地理も海の姿もずっと鮮明だった。寂しい所だったが、近所の家族もここに来ていて、結構友だちはいた。1942年の夏にいたのは一番の親友オスキー、2番目の親友はベンジー。自称“猛烈トリオ”だ。丘の家に彼女がいた。顔を見た日から現在まで、彼女とのことほど、わたしを恐れさせ、混乱させた体験はない。もう二度とないだろう。彼女に与えられたあの安らぎ、あの不安、あの自信、そして無力感」
「ハーミー、私は実家に帰ります。分かってください。せめてもの置き手紙です。昨夜のことを弁解はしません。時がたてば、あなたにも分かるでしょう。わたしはあなたを思い出にとどめ、あなたが苦しまないことを望んでいます。幸せになってください。ただそれだけ。さようなら ドロシー」

2009/05/05(火)モン族とミャオ族

 キネ旬5月下旬号を読んでいたら、滝本誠の「グラン・トリノ」評に「モン(ミャオ)族」という記述があった。あれ、モン族とはミャオ族のことなのか。Wikipediaのミャオ族モン族 (Mon)の項をそれぞれ読んでみると、「グラン・トリノ」に出て来たのは明らかにミャオ族。英語ではHmongという表記なので、そのまま訳せばモン族になってしまうが、日本語にする場合はミャオ族とした方がまぎらわしくないだろう。

 ところが、「ミャオ族自身はモン族を自称し、中には『ミャオ』の呼称を嫌うものもいる。このため中国などのミャオ族居住諸国以外では、ミャオ(東南アジアでおおむねは『メオ』と呼ぶ)を蔑称として、公式の場では自称であるモン族と言う呼称を使う傾向がある」というから話はややこしい。日本は「ニッポン」であって、「ジャパン」ではないというのと同じか。ま、ジャパンは蔑称ではないけど。

2007/01/03(水)正月休みに見たDVD

 30日に「雪に願うこと」「花よりもなほ」「アサルト13 要塞警察」の3本を借りた。どれも見ないでベストテンを選ぶのをためらわさせる作品で、それぞれに面白かった。「雪に願うこと」は東京で事業に失敗した男(伊勢谷友介)が故郷の北海道でばんえい競馬の調教をやっている兄(佐藤浩市)の元へ帰ってくる話。兄弟の確執を描きつつ、弟と女性騎手(吹石一恵)のシンプルな再生の話になっているところがいい。

 「アサルト13 要塞警察」はジョン・カーペンター「要塞警察」のリメイク。暗黒街のボス(ローレンス・フィッシュバーン)が逮捕されたことから警察署が襲撃される。ストレートでスピーディーなアクションの快作。ベストテンに入れるほどではないが、ジャン=フランソワ・リシェ監督の名前は記憶に値する。今後の作品に注目したい。

 「花よりもなほ」は「誰も知らない」の是枝裕和監督作品。父親を殺された男(岡田准一)が汚い長屋に住みながら、仇を討とうとするが、次第に心境の変化を迎えることになる。「憎しみの連鎖を断て」という主張はもちろん現在の世相を反映したものであり、是枝裕和は現実に近いところで映画を撮っている監督だなという思いを強くした。映画の技術では山田洋次「武士の一分」の方が上だろうが、内容的にはこちらの方が好ましい。

2006/08/06(日)キネ旬8月下旬号

 キネ旬8月下旬号表紙「紙屋悦子の青春」公開に合わせた黒木和雄監督の追悼特集がある。作品特集と合わせて27ページ。これだけのページを割かれるということは一流監督だった証だろう。

 昨年11月のインタビューが掲載されていて、最後の言葉は「この作品が終わったら、何とか、山中貞雄(を映画化する企画)を実現させたいんですがね」で終わっている。無念だっただろうと思う。ぜひ見たかった作品だった。

 特集記事の中では佐藤忠男の評論「挫折にこだわり続けた映画作家」が読ませる。最後の3本「美しい夏キリシマ」「父と暮せば」「紙屋悦子の青春」の脚本家・松田正隆は黒木監督の「TOMORROW 明日」を見て劇作家を志したのだという。その松田正隆に黒木監督が「キリシマ」の脚本を依頼したのは「紙屋悦子の青春」の舞台を見て感動したから。必然的な出会いだったのではないか。

 原田芳雄のインタビューも面白かった。「浪人街」から「スリ」まで10年間のブランクの間に黒木和雄は大病をするが、そのことで「自分には時間がない」と思い始めたのではないか、という推測はなるほどと思う。自伝的な「キリシマ」を撮った後に脚本が完成している戯曲の「父と暮せば」「紙屋悦子の青春」を選んだのはそのためだろうと、原田芳雄は語っている。