2012/12/27(木)「光のほうへ」

2010年のデンマーク映画。東京では昨年6月に公開されたが、宮崎での公開は今年1月。大きな賞を取っているわけでもなく、それほど話題にもならなかったのでほとんど期待せずに見たら、しみじみと良かった。端的に言って肉親の絆と人の再生を描いた映画だ。

ラスト近くまでやりきれない展開である。冒頭、少年2人が赤ん坊の弟に洗礼のまねごとをしている。母親はアルコール依存症。兄弟は母親の代わりにミルクを作り、赤ん坊に飲ませる。しかし、赤ん坊はある日、突然死していた。十数年後、成人した兄のニック(ヤコブ・セーダーグレン)は恋人のアナと別れ、自暴自棄になって最近まで刑務所に入っていた。狭い臨時宿泊施設(シェルター)で暮らしながら、酒浸りの日々だ。弟(ペーター・ブラウボー)は2年前に妻を交通事故で亡くした。今は幼稚園生の息子マーティンと暮らすが、麻薬中毒になっている。兄弟2人とも希望の見えない最底辺の生活だが、より哀れを誘うのは子どものいる弟の方だ。

麻薬を打ち、寝過ごした弟は冷蔵庫が空っぽなのを見て、昼食を持たずに幼稚園へ行けとマーティンに言う。今日は友達の昼食を分けてもらうんだ。「いやだ」とマーティンは泣き出す。「いつだって、そうじゃないか!」。

この後、兄弟はそれぞれの事情で逮捕される。雪がぱらつくある日、ニックは刑務所の中庭で鉄格子の向こうにいる弟をみつける。

「おい! 兄さんだ」
「ニック」
「なんてザマだ」
「言えた義理か」
「いつここに?」
「3週間前」
「マーティンは?」
「どこか知らない…。兄さんを想ってた」
「俺もだ」
「もっと話したかった。もっとたくさん会えばよかったよ」
「電話しようとしたんだ」
「あの時、俺たちは悪くなかったよ。いい兄さんだった。精一杯やった。俺も頑張ったよ」
「どうしたんだ。大丈夫か?」
「でも、これまでだ」
「何だって? 何て言った?」

この場面からラストに至るまでが秀逸だ。兄弟の絆、親子の絆、過去との決別、そして再生。そうしたもろもろのことが描かれる。自暴自棄だったニックが再生のきっかけをつかんだのは弟との刑務所での再会だっただろう。ニックの右手にはアナのイニシャルの刺青があったが、映画の初めの方でニックは苛立って公衆電話を何度も殴り、右手にけがをする。それを放置していたため悪化し、刑務所の中で医者から右手を切断されてしまう。右手をなくしたのは悲劇だが、それは同時に自分を呪縛していた過去との決別にもなったに違いない。そしてマーティンの存在がある。マーティンの名前の由来が明かされるラストは重たくて、ある意味、幸福な余韻を残す。傑作だと思う。

原作はヨナス・T・ベングトソン。監督はトマス・ヴィンターベア。原作はスウェーデンの文学賞を受賞しているそうだ。映画のIMDbの評価は7.4。僕は人が再生する姿を描く映画が好きなので、8.0ぐらいの評価をしたい。

2012/12/24(月)「マージン・コール」

 大手投資銀行の破綻の危機を描く映画。リーマンブラザーズをモデルにしたようで、不動産担保証券(MBS)が招く巨額損失を事前に察知したリスク管理セクションと幹部が回避のため徹夜で協議する。その24時間を緊迫感のある展開で見せる。マージン・コールとは信用取引で口座の資産価値が所定の基準を下回った場合に追加の証拠金を要求することだそうだ。

 Wikipediaによれば、元々は自主制作映画として企画されたそうだが、ケヴィン・スペイシー、ジェレミー・アイアンズ、デミ・ムーア、ポール・ベタニーらベテランキャストがそろっている。今年のアカデミー脚本賞にノミネートされた。日本では劇場公開されず、DVDスルーだった。IMDbの評価は7.1、ロッテン・トマトは7.2。監督はこれが長編映画第1作のJ・C・チャンダ-。

 ただ、どうもこういう題材だと、ノンフィクションの方が向いている気がする。投資銀行内部のゴタゴタを描いただけでは物足りず、全体像を知りたい気分になるのだ。金融危機関係のドキュメンタリーで秀逸なのは「インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実」で、分かりやすくここまで面白く見せる技術に感心する。アメリカのドキュメンタリーは層が厚いなと思う。だからアカデミー賞には長編ドキュメンタリー部門があるのだ。

 書籍では「リーマン・ショック・コンフィデンシャル 追いつめられた金融エリートたち」がベストと言われているので、ようやく読み始めたところ。

2012/12/20(木)「ホビット 思いがけない冒険」

 3部作の前日談の3部作ということになれば、「スター・ウォーズ」サーガに対抗したのかと思ってしまうが、元々はこの「ホビット」、2部作の予定だったのをピーター・ジャクソンの意向で3部作にした経緯がある。物語は「ロード・オブ・ザ・リング」(LOTR)の時代より60年前の設定で、フロドの養父ビルボ・バギンズ(マーティン・フリーマン)の冒険を描く。旅に出るまでの序盤の長い前振りはLOTR第1作と同じで、うーんと思っていたら、中盤からアクションのつるべ打ちとなる。トロル→オーク→ゴブリン→再びオークと続くアクション場面はどれもクライマックスになりうる力を持った内容だ。WETA社が担当したVFXは相変わらず素晴らしく、アカデミー視覚効果賞は決まりではないかと思う。それに加えて、反発していたドワーフの王族トーリン(リチャード・アーミティッジ)とバギンズの友情の芽生えを描いていくあたりにドラマをないがしろにしないジャクソンのバランス感覚がうかがえる。

 話はLOTRより随分簡単だ。LOTRには指輪を捨てに行くというメインプロットにフロドとサムの友情をはじめさまざまな枝葉のエピソードがあり、アラゴルン、レゴラス、ギムリという主要キャラクターがいて物語に厚みを加えていたが、今回はバギンズとガンダルフ(イアン・マッケラン)とドワーフ族のみ。ドワーフの国を占拠したドラゴン(スマウグ)から故郷を取り戻すための旅という一直線の設定以外の膨らみが少ない(故郷を追われたという設定はユダヤ人と重なって仕方がなかった)。2時間50分を飽きさせないアクションには感心するのだが、LOTRに比べれば、ストーリー的にやや物足りない面は否定できないだろう。

 しかし、「普通の人々の日々の営みが闇を振り払うのだ」というガンダルフの言葉は「小さき者たちが世界を救う」というこのシリーズの一貫したテーマとしっかり重なる。フロドと同じくバギンズは特別に強いわけではなく、優れた能力があるわけでもない。仲間と力を合わせ、少しの勇気を振り絞って困難を乗り越えていく過程に魅力があるのだ。エルフのエルロンド卿(ヒューゴ・ウィービング)とガラドリエル(ケイト・ブランシェット)、魔法使いサルマン(クリストファー・リー)、そしてなんと言ってもゴラム(アンディ・サーキス)と指輪というシリーズでおなじみのキャラクターとの(「王の帰還」から9年ぶりの)再会はファンにはこたえられないだろう。エルフは長寿の種族なので、LOTRの時と全然変わっていなくてもかまわないのだ。序盤にはフロド(イライジャ・ウッド)も登場し、ハワード・ショアの音楽も同じメロディーラインを踏襲している。ファンは同じものを欲しがる。といって、単なる二番煎じにはしていないのがジャクソンの良さだ。

 当初はギレルモ・デル・トロが監督するはずだったが、結局、ジャクソンに落ち着いたのはシリーズ全体のタッチのまとまりという点では良かったと思う。この映画、LOTRとシームレスにつながっている。最大の欠点は続きを見るのに1年も待たなければならないことか。

 LOTRはシリーズを重ねるごとに評価が高まり、「王の帰還」はアカデミー賞11部門を制した。「ホビット」3部作もそうなっていくことを切に願う。

2012/12/13(木)「007 スカイフォール」

 映画の最後の方で、ある人物がシリーズでおなじみのキャラクターであることが分かってニヤリとさせられる。「ダークナイト ライジング」の時は最後に明らかになるあの人物に関して、開巻間もなく分かったが、これは分からなかった。というか、まず想像の範囲外にある。ああ、そう言えば、最近出ていなかったよな、この人、という感じ。007シリーズファンへの目配せなのだろう。

 IMDbで調べてみると、このキャラクター、ボンド役がダニエル・クレイグに代わった「カジノ・ロワイヤル」以降、出ていなかった。この人物も含めて「スカイフォール」はいろいろな意味でシリーズをリブートさせる役割を持つ映画だ。評価の高い映画だが、僕はそれほどとは思わなかった。ジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)がアストンマーチンDB5(おお、懐かしい)に乗り換えたところで、ボンドのテーマが鳴り響き、後半への期待が高まるのだが、当てが外れた。クライマックスのスケールが小さいのだ。サム・メンデス監督だけに映画の出来は悪くはないのだが、後半は007でなくても成立する話だと思う。

 

2012/12/02(日)「桐島、部活やめるってよ」

 金曜日、金曜日、金曜日、金曜日と繰り返される序盤で、映画は一つの事象を視点を変えて描いていく。その事象とはバレーボール部キャプテンの桐島が部活を辞めたという噂。桐島は県選抜にも選ばれるほどの実力を持ち、瞬く間に噂は校内を駆け巡る。この過程で描かれるのは多くの登場人物の視線だ。視線の行方によって登場人物の思いが分かり、その置かれた境遇も分かってくる。

 これほど多くの視線で構成された映画も珍しいだろう。登場人物が見つめる先は例外なく異性であり、思いを素直に伝えられないから切なさが募る。なぜ思いが伝えられないのか。それは拒絶されることの恐れもあるだろうが、住む世界が違う(と認識している)からだ。同じ教室にいながら、世界は違う。映画は学校における上下関係を描きだし、そこで蠢く生徒たちの姿を浮き彫りにする。だからこの映画はリアルな青春映画になり得ている。映画にはモノローグもなく、説明的なセリフもない。視線と描写だけでこうした状況を明らかにしていく。吉田大八監督、久々の会心作となったのではないか。

 Wikipediaによれば、学校の階層構造(スクールカースト)でオタク系は下の方に位置する。オタクの集まりである映画部の面々は他の生徒の嘲笑の対象で、下位にいる者の常として鬱屈をかかえている。ゾンビ映画を撮影しようとした校舎の屋上に吹奏楽部の部長がいた場面で、映画部の面々は「吹部だから大丈夫だ」と話し、移動してくれるように頼む。たぶん、相手が運動部だったら何も言わずに諦めて帰ったのだろう。スクールカーストの根幹をなすのは十代特有の価値観で、美男美女や恋愛経験の豊富な者、文化部よりも運動部が上位に来る。大人になれば、差別の根幹は経済力にほぼ集約されるので単純だ(単純だから良いわけではない)。

 と、ここまで書いたところで、朝井リョウの原作を読んだ。そして驚いた。これほど原作を徹底的に解体しながら、原作のエッセンスをまったく失っていない映画は極めてまれだ。映画には原作のセリフと同じものはほとんどない。人間関係やエピソードも変更し、付け加えられたものが多い。

 原作は菊池宏樹(元野球部)、小泉風助(バレー部)、沢島亜矢(吹奏楽部)、前田涼也(映画部)、宮部実果(ソフトボール部=映画ではバドミントン部)、そして再び菊池宏樹の物語が描かれて終わる(文庫ではこれに東原かすみの14歳のころのエピソードが加わる)。メインとなるのは前田と菊池のエピソード。両者は同じクラスにいながら、話したこともないが、終盤のある出来事で一瞬、交錯する。そして菊池は前田の姿からある啓示を受け、サボっていた野球部の練習に参加してみようかという気になる。原作者はここが物語の核だという。映画はここもうまくアレンジし、前田(神木隆之介)の「この世界で生きていかなければならないんだ」というセリフ(撮影中の「生徒会オブ・ザ・デッド」のセリフ)を取り入れている。見事な映画化と言うほかない。脚本(吉田大八、喜安浩平)が素晴らしすぎる。

 付け加えておけば、朝井リョウはかなり映画を見ているようで、前田涼也のパートには「ジョゼと虎と魚たち」や「リリイ・シュシュのすべて」など邦画の青春映画のタイトルがたくさん出てくる。映画部が撮っているのも青春映画だ。映画ではこれが「鉄男」や「遊星からの物体X」などSFに変わっている。SFの方がオタクにふさわしいという判断があったのだろう。いずれにしても自分の原作から邦画の青春映画のトップクラスの作品が生まれたことは原作者冥利に尽きるに違いない。