2006/11/23(木)「ホテル・ルワンダ」

 「白バラの祈り」は主人公のまっすぐな姿勢に感銘を受けたが、この映画の主人公は生き残るために賄賂でもなんでも行う。それが地獄のような状況を強烈に浮かび上がらせている。僕がルワンダの虐殺を知ったのはビクトリア湖に流れ込んだ4万人の死体が報道されたころだが、ちょうどそのころ主人公は必死に生きる道を探していたのだろう。

 映画の中でジャーナリストの一人が言う。フツ族によるツチ族の虐殺場面がテレビで報道されても「人々は“怖いね”と言って、またディナーを続けるのさ」。西側諸国が一番ひどい状況の中でルワンダを見捨てたのは許せない。許せないけれども、報道を見たり読んだりしていた僕らも何もしていなかったのだ。その意味で西側諸国の対応を批判しつつ観客をも批判する映画と言える。

 少なくとも製作者たちは次に同じような事態が世界のどこかで起こった時に、観客に何らかのアクションを起こすことを求めているだろう。ユニセフの毎月の募金を始めなくちゃという気になる。

 監督のテリー・ジョージは「父の祈りを」は良かったが、「ジャスティス」には感心しなかった。この人、ジャーナリスティックな素材が向いているのかもしれない。

2006/11/22(水)「ヒストリー・オブ・バイオレンス」

 エド・ハリスが出てくるところまでは予告編で知っていたが、さらにその後があるとは。サム・ペキンパー「わらの犬」を引き合いに出していた評論家がいたけれど、全然違う。日本のヤクザ映画、高倉健主演の映画にありそうな話だ。逆に言うと、そこが少し不満な点で、もっと意外性のあるストーリーが欲しくなってくる。

 デヴィッド・クローネンバーグは肉体の変容から精神の変容を描くようになり、映画が難しくなった。これは単純明快なところがいい。しかも、変容のテーマはしっかりと引き継いでいる。

 よくあるストーリーにもかかわらず、映画を際だたせているのは殺しの場面のリアルさで、後頭部を打たれて顔を半分吹き飛ばされながら、口をもごもごさせている場面とか、鼻を何度も突き上げられて鼻がもげてしまった男とか、暴力の衝動の激しさを物語っていて面白い。ヴィゴ・モーテンセンもマリア・ベロも好演。

 上映時間が1時間36分と無駄がなく、シャープ。

2006/11/20(月)「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」

 とんでもない傑作。個人的にはベストテン入り確実。全編にみなぎる緊張感と核心を突いたセリフの応酬に震えがくるほど。ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したそうだ。当然だろう。

 ヒトラー打倒のチラシをまき、ゲシュタポに逮捕されながらも良心と信念を曲げなかった21歳の女子大生の話。ゾフィーを演じるユリア・イェンチと取調官のアレクサンダー・ヘルトの主張は完全に平行線なのだが、取調官はゾフィーのその強固な姿勢に揺らぐ場面を見せる。ここでゾフィーが語るセリフが凄すぎるのだ。

「神を疑う者に教会は服従を求める」

「教会は意思を尊重するわ。ヒトラーは選択を与えないわ」

「なぜ若いのに誤った信念のために危険を冒す?」

「良心があるからよ」「過ちを認めても裏切りにはならない」

「でも信念を裏切るわ。間違った世界観を持ってるのはあなたよ。最善の事をしたと信じているわ」

 ゾフィーは逮捕されて5日目に死刑判決を受け、即日処刑される。まるでジャンヌ・ダルクを思わせるような生涯だ。白バラとはゾフィーが所属していた組織の名前で、この映画のほかに「白バラは死なず」「最後の5日間」という2本の映画があるそうだ。そちらも見てみたい。

2006/11/19(日)「トゥモロー・ワールド」

 「トゥモロー・ワールド」パンフレット英国ミステリの女王P・D・ジェイムズの原作を「天国の口、終りの楽園。」「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のアルフォンソ・キュアロン監督が映画化。子供が生まれなくなった未来社会を舞台にしているが、SFではなく、作りとしては逃亡劇・脱出劇の趣である。

 テーマははっきりと反戦で、クライマックス、熾烈な市街戦の中で赤ん坊を見た敵味方の兵士たちが争いを中断するシーンにそれが色濃く、感動的に現れる。人類の絶滅が時間の問題と思われたところに出てくる赤ん坊だから、赤ん坊は単純に希望を、救世主の出現を明示しているのだ。人口抑制のために30年間、子供を産むことを禁じられた「赤ちゃんよ永遠に」(1971年)を思い起こさせる設定だが、この映画には当然のことながら、さらに絶望的な雰囲気が漂っている。子供がいないというのは未来がないということと同義であり、これが世界の国々の崩壊をもたらしたのだろう。好みから言えば、SF的な部分を補強し、スケールを感じさせるドラマにした方が映画は面白くなったのではないかと思うけれど、キュアロンの立ち位置が分かる力作である。原題のChildren of Men「人類の子供たち」が子供の重要さを表しているのに、なぜ「トゥモロー・ワールド」などという邦題になるのか理解に苦しむ。

 2027年、地球上で最年少の18歳の少年が死ぬ。人類には18年間子供が生まれず、世界の国々は暴動によって崩壊。不法移民を厳しく制限することでイギリスのみが政府としての機能を果たしていた。しかし、ここも爆弾テロが相次ぎ、全体主義社会を思わせるディストピアだ。主人公のエネルギー省官僚セオ(クライブ・オーウェン)はある日、反政府組織のフィッシュから拉致される。リーダーはかつての妻のジュリアン(ジュリアン・ムーア)。セオ自身、かつては活動家だったが、今は酒に溺れ、体制側の人間になりきっている。ジュリアンはセオに文化大臣のいとこから通行証を都合するよう依頼する。ジュリアンはキー(クレア=ホープ・アシティ)という少女を「ヒューマン・プロジェクト」という世界組織に送り届けようとしていた。通行証は最初の検問までセオの同行が必要で、セオはジュリアン、キーらと、行動をともにする。途中、暴徒から襲撃され、ジュリアンは撃たれて死んでしまう。

 主人公が連れ去られた赤ん坊と母親を探して市街戦の中を走り回るクライマックスの長いワンカットが話題だが、カメラに血糊が飛び散ったままの長回しは普通なら撮り直すところ。それともあれは臨場感を出すためだったのか。この市街戦のシーンは遠景の中で人が簡単に死んでいく。現在の中東情勢を思わせるものであり、キュアロンは未来に託して現在を照射しているのだ。エンドクレジットの最後にShanti Shanti Shanti(サンスクリット語で平和の意味)と出すのも子供のために反戦を訴える作品であることを明確にしている。

 有名女優の使い方としては非常に効果的だとは思うが、ひいきのジュリアン・ムーアがすぐに退場するのは残念。マイケル・ケインの使い方も同じようなもので、この映画のテーマ重視の姿勢が表れている。

2006/11/15(水)「岸辺のふたり」

 2001年のアカデミー短編アニメ賞を受賞した8分間の作品。監督はマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット。

 原題は「Father and Daughter」。父親と小さな娘が自転車で岸辺にやってくる。父親は娘をギュッと抱きしめた後、一人でボートに乗ってどこかへ行く。娘は毎日毎日、何年も何年も自転車で岸辺を訪れ、父親が帰ってくるのを待つ。やがて娘は成長し、結婚し、子どもが生まれ、年老いる。そして、ある日…。

 少女の人生を8分間に凝縮させたモノトーンの詩的な作品。セリフはない。「クレヨンしんちゃん

 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」で「今日までそして明日から」をバックに描かれる自転車のシーンをなんとなく思い出した。

 この作品だけで感動するというよりも、ここからインスパイアされることで感動する作品なのではないかと思う。